ジャルジェ家の舞踏会に、続々と客が集まり始めた。
招待状に記載された定刻通りに、堂々とした出で立ちを最上級の礼装で飾り立ててやってきたのはジェローデル少佐だ。
その端麗なふるまいに、先に来ていたものたちが思わず道を譲る。
やはり筆頭候補の貫禄充分である。
少佐は静かに歩を進め、舞踏会の主催者たるジャルジェ将軍に優雅な挨拶をすると、その隣に席を占めた。
これまた特等席である。
広く公募といいながら、出来レースの感が漂うのは否めなかった。
あらかたの客が集まったところで、ジャルジェ家の使用人が声高らかにオスカル・フランソワの登場を告げた。
衆目の視線が一斉に注がれる。
堂々たる礼装である。
首が飛ぶと恐れ縮こまるばあやと、信じられないという顔のアンドレ姿のフェルゼンを従えた彼女は、もちろんドレスではない。
将軍は怒髪天を衝いた。
だが、この出で立ちこそ、軍人としての最高級だと教えたのは他ならぬ自分である。
「な、な、な、なんだ、その素晴らしい格好は?」
「父上のご命令どおり!パリ一番の仕立て屋に作らせました最高の装いでございます。」
こう返されてはぐうの音も出ない。
「さあ、最初のメヌエットをご披露いたしますぞ!」
凜とした声に、我がちにと貴婦人方が行列を作り、ひしめき合った。
オスカルはその行列に悠然と歩み寄ると、適当に一人の婦人を選んで踊り始めた。
もはや伴奏が聞こえないほどの嬌声が周囲に響き渡る。
さらには、甲高い声と正反対の野太い声がどっとなだれ込んできた。
オスカルが招待した衛兵隊の連中である。
フェルゼンの目がこれ以上ないほど見開かれている。
ばあやはすでに自室に引きこもった。
遺書でも書きたい心境だろう。
オスカルは次々に踊る相手を変えていく。
だがその視線が定期的に入口に注がれていることに気づいているのは、ジェローデル少佐だけだった。
誰かを待っているのだ、と少佐は思う。
一体誰を?
聡明な彼はすぐにジャルジェ家の執事を呼び、未到着の招待客を調べ始めた。
女性客は無視する。
男性でも、あきらかに年齢が不釣り合いなものや、既婚者はのぞく。
すると一人だけ、残る名前があった。
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。
まさか。
あり得ない。
だが、確かに二人は懇意にしていた。
男女の仲だったのか?
王妃の愛人と…?
ひとり首を振る。
そのとき、新客到着を告げる声が響いた。
「フェルゼン伯爵おつきぃ〜!」
誰もが意外な顔で入口を振り返った。
舞踏会に伯爵が来るのは別段不思議なことではない。
スマートな彼は、むしろあちこちから招待の声がかかる人気者だ。
だが、今日の舞踏会の目的は何を隠そう、オスカルの婿捜しである。
ということは、フェルゼンもジャルジェ准将の婿に立候補しにきたのか?
しかも、あろうことか、女性と踊っていたオスカルが、慇懃に礼をして踊りの輪からはずれ、ついたばかりのフェルゼンに向かって、嬉しそうに歩いていくではないか。
騒がしかった広間の声がざわめきにかわり、やがてひそひそ話になっていく。
「昔、ジャンヌ・ド・ラ・モットが王妃さまとオスカルさまの仲を書き立てたことがございましたけれど、オスカルさまって、フェルゼン伯爵ともそういう仲でしたの?」
「ええ〜!では王妃さまとフェルゼン伯爵、王妃さまとオスカルさま。そしてフェルゼン伯爵とオスカルさま。三角関係ってことですの〜?なんだかすごく入り組んでませんこと?!」
「あら、王妃さまにはれっきとした夫である国王陛下がいらっしゃるのだから、四角関係ですわ!」
信じられない早さで埒もないうわさ話がかけめぐりだした。
人の想像力というのはすさまじいものである。
あったことではなく、またあることでもなく、あってほしいこと、あったら面白いと思うことが、あたかも真実のごとく語られる。
明日には、複雑な四角関係がベルサイユ中の話題になっていることだろう。
だが、オスカルの耳には何も聞こえないかのようだ。
こぼれるような笑みを浮かべ、ツカツカとフェルゼン伯爵に歩み寄った。
「遅かったな。」
「執事さんが出してくれなかった。」
「ハンス坊ちゃま、なりません!…か?」
オスカルが破顔した。
「おばあちゃんに似ているから無碍にできないんだ。」
オスカルはさらに笑う。
「なるほどな。頭は大丈夫か?」
「丸一日経てば安心だ。それよりフェルゼン伯爵はどこだ?」
居心地の悪い姿から一刻も早く戻りたい。
「あっちの柱の影にいるぞ。おまえが来たらG線のことを聞きたがっていた。とりあえずわたしの部屋に引きずり込んで、そこで元に戻れ。」
「あんなところか。随分遠いな。フロアを横切らなければ行けない。」
予期せぬアンドレの登場、しかも堂々たるフェルゼン伯爵としての登場に、本物のフェルゼンは完全に度肝を抜かれている。
もっとこっそり来ると思ったのに…。
「フム。では…仕方がない。」
オスカルが、突然フェルゼンの手を取った。
…ように、人々には見えた。
実はアンドレの手なのだが。
「踊りながら行こう。ただしわたしは男性パートしか踊らない。」
「えっ?おれが女性パート?」
オスカルに手をつかまれたアンドレは目を白黒させた。
「できないなら、踊っている人間にぶつかりながらここを走り抜けるしかない。」
「わかった。だが最短距離にしてくれ。リードは男性パートの仕事だ。」
オスカルと踊れるのは夢のようだ。
けれど、この姿のままではあまりにつらい。
「当たり前だ。」
わたしだって本当はいやなんだ。
こんな格好のおまえと踊るなんて…!
口にはしないが、オスカルは心の中ではそうつぶやいた。
女性パートを踊れないわけがない。
フェルゼンと踊った時は、間違いなく女性パートだった。
だが、だからこそ、いかに中身がアンドレとはいえ、フェルゼンとあの時のようにダンスを踊るのは、断じていやだった。
あれは、あれでケリをつけたのだ。
生涯ただ一度のドレスを着たダンス。
心から思慕し続けた男性との、一回きりのもの。
それはすでに自分の中では終わったことだった。
男二人が踊っている。
…ように、またまた人々には見えた。
曲はテンポの早いワルツになっていて、急ぐ二人には好都合だった。
いつの間にか、ひそひそ話が歓声に戻っている。
不思議な組み合わせだ。
異様なはずだが、優雅に感じられる。
二人が相当豪華な衣装を着ているため、ではない。
どんなに華麗な衣装でもこの組み合わせは面妖だ。
おそらく息がピッタリとあっているからだ。
男性パートを踊るジャルジェ准将と、女性パートを踊るフェルゼン伯爵。
倒錯といえばこれ以上の倒錯はないのだが、周囲の人が思わず踊ることを忘れて見入るほどに、それは美しいものだった。
それに何よりも踊っている二人の表情が幸せそうだった。
ともにいやいや始めたダンスだったが、あまりに奇妙な成り行きに、だんだんおかしさがこみ上げて、ついつい笑ってしまうのだ。
二人で踊るのなど、何年ぶりだろう。
だが、無意識に互いの呼吸が読めるので、人混みの中でステップをふむのが、まったく苦にならない。
最短距離と言いながら、オスカルは結構ターンなども入れてしまった。
そして皆の足が見とれて止まったおかげで、二人は難なく柱まで来ることができた。
そこには従僕姿のフェルゼンが、見てはならないものを見たような顔で立っていた。
二人のあとを追ってきたジェローデル少佐も、同様である。
「ジェ、ジェローデルと踊る予定は…?」
いまだ事態を把握しかねる将軍が場違いな台詞を吐く。
そこで、突然アンドレが、オスカルの想像もしない行動に出た。
ダンスをしながらくるりと回転し、その勢いでフェルゼンにぶつかったのである。
あっ!と誰もが息をのんだ。
鈍い音が響き、二人がよろける。
オスカルはあわてて駆け寄った。
たった今までオスカルと身体を寄せ合っていた男は、事態を理解できず、無言でキョロキョロしている。
そして、激突された従僕は、すっと立ち上がると、慇懃に礼をした。
「失礼いたしました。伯爵、大丈夫でございますか?とりあえず控え室にお連れいたしましょう。」
彼は将軍とオスカルに向かって許可を求めた。
オスカルはすぐに芝居に合わせた。
「わかった。わたしも行こう。父上、余興はこれにて終了です。ジェローデル少佐、ご苦労だった。さあ、フェルゼン、アンドレ、行くぞ!」
オスカルとアンドレが、フェルゼンを引きずりながら、広間から立ち去った。
呆然と取り残される将軍とジェローデル少佐と、そして招待客。
だが後ろ姿の三人は一顧だにしなかった。
信じられない舞踏会の幕切れだった。
三人は、正確には二人と一人は、階段を駆け上がり、オスカルの居間に飛び込んだ。
残された客以上に呆然としている男が、ようやく声を出した。
「何なんだ!いったいどうしようって言うんだ!」
「あるべき姿に戻っただけだ。」
オスカルが腕を組んだ。
「?!」
「おまえな、フェルゼン、ばれていないと本気で思っていたのか?」
「…。」
「徹底的におめでたい方ですね。」
アンドレが感心している。
「い…いつから…?」
「おまえをここから追い出してからだ。アンドレなら絶対に言わないことをおまえは言った。」
「?」
これ以上説明するのも馬鹿らしい。
きょとんとしたフェルゼンに、オスカルはアンドレを振り返った。
「バイオリンはそこに置いてある。新しいG線もな。」
アンドレは卓上のバイオリンを取り上げた。
そして切れたG線を難なくはずし、新しいものととりかえる。
オスカルが満足そうに見つめている。
「G線って、これのことだったのか?」
最後まで何も理解しないフェルゼンがとぼけた質問を口にした。
「フェルゼン、もうG線のことは忘れろ。それよりも明日からのゴシップの対応を考えておいた方がいい。間違いなく今夜のことはベルサイユ中に広がり、王妃さまのお耳にも達するだろうからな。」
フェルゼンの顔から血の気がひいた。
オスカルの婿公募に出向き、男装のオスカルとダンスを、しかも女性パートを踊ったフェルゼン伯爵。
潔癖な王妃の理解を得られようとは到底思えない所業だ。
「これでわたしに求婚しようなどという馬鹿はいなくなるだろう。感謝するぞ、フェルゼン。」
フェルゼンは蒼白になった。
「ど、とうすればいいんだ?!ああ、王妃さまに真実をお伝えしなければ…。」
だが、きっと信じてはもらえまい。
オスカルと踊ったフェルゼンはアンドレです。
ありえない。
無理だ。
フェルゼンは震えだした。
「よい智恵を授けてやろう。すべてわたしのせいにするのだ。結婚を断るために、一芝居うってくれとオスカルに頼まれ、断れなかったと、明日にでも宮廷に上がりご説明申し上げるのだ。なんなら、わたしが一筆書いてやるから、それを持って行け。」
オスカルがさらさらとしたためた手紙を握りしめ、フェルゼンはジャルジェ邸を飛び出して行った。
他のものからの変な情報が入る前に、この手紙を持って行かねばならない。
時間がないのだ。
明日一番の謁見を申し込むために、彼は今からでも宮殿に回る気だった。
荒々しくしめられた扉を二人そろってながめた後、オスカルはやれやれと長椅子に座り込んだ。
とんでもない二日間だった。
「まさか、あそこで入れ替わるとは思わなかったぞ。」
「伯爵は頭を打つことに逃げ腰だからな。」
「なるほど、確かにあそこなら逃げようがない。」
オスカルは礼装の上着を脱ぎ捨てた。
白いブラウスだけになると、ようやくホッとする。
「おい、ワインを入れてくれ。」
いっぱいひっかけねばやっていられない。
アンドレが飾り棚からワインとグラスを持ってきた。
ふと、夢の中では、これに毒が入っていたことを彼は思い出す。
それから強く首を振った。
「一緒に飲んでもいいか?」
不安になって聞いてしまう。
「わざわざどうした?今日に限って…。こんな時こそ乾杯だろう?」
オスカルの声はいたって明るい。
その返事にホッとする。
これは夢ではない。
だからこれは毒入りワインではない。
オスカルが目の高さにグラスをあげた。
「おかえり、アンドレ。」
優しい瞳、優しい声だった。
アンドレの記憶から悪夢が消えていく。
アンドレの目元がゆるんだ。
その様子をオスカルも笑って眺める。
「ただいま、オスカル。」
二人は一緒にワインを飲み干した。
−完−
奇跡シリーズはこれで終わりです。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。
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