SEQUENCE1. オスカル『悪夢の回廊』
熊野郷さま 作
「あなた、お名前は?」
階段の途中から見下ろして、驚いたように見上げてくる黒い瞳に問いかける。
「あ…アンドレ・グランディエ」
頬を染めて答える少年に、にっこり微笑み返して、ドレスの裙を翻しながら駆け降りる。
「あなたがアンドレね。モーリスの従者になる」
「うん…」
礼儀も何も知らない純朴な少年の様子に自然と笑みが浮かぶ。
「モーリスはまだ赤ちゃんだから、しばらくは私の遊び相手になってね」
「うん」
少年はにっこり笑って手を差し出した。
私も笑ってその手を取って、二人で庭へ駆け出した。
背後でばあやが何か叫んでいたけれど、私は声に竦みかける彼を励まし母の薔薇園に逃げ込んだ。
そして、母が呼びに来るまで、楽しくおしゃべりして過ごした。
―――こんな事はしなかったはずなのに。何故鮮やかに思い出して居るのだろう?
年の離れた弟が、乳母の背中から降りて偉そうな口を利き始めるまで、彼は私の友達で従者だった。
共に学び、共に遊び。ダンスの練習相手は彼だけで、彼以上に自分を綺麗に舞わせる者は居ない、と思えた。
何でも話し何でも解り、近く近く魂を寄せ合って過ごした。
そして何時しか、私たちは惹かれ合い想いを通わす。
お輿入れされる王太子妃の女官として、私が宮廷に上がるまでのつかの間の時間。
―――もしそうだったなら。彼をあんなにも長く苦しめずに済んだ?
サリカ法典という法律がある。
フランク王国メロリング朝の黎明期に創られた。
その中にある相続に関する取り決めで、王位や爵位の女系継承を認めないとした趣旨が盛り込まれてあり、故にフランスには女王は居ない。
貴族もそれに習い女性の相続はさせない。例え娘しか居ない場合でも、婿をあてがい後継者とする。
五人も娘が続いたジャルジェ家も、通常ならそうする筈だった。しかし、剣帯貴族としての矜持か、他家の血を主家に入れる事への抵抗なのか、父は六番目に生まれた娘を男として育てると宣言し、実際私は男として育てられた。
七歳になるまでは。
母が弟を産み落とし、その日から、私は女に戻された。
剣を取り上げられ、人形を与えられ、着たことのないドレスを着せられる。
許されていたものが禁止され、それまで期待に応えようとしてきた努力は無かったかのように、父は私に見向きもしなくなった。
姉達と同じに、ただ娘の囲いに放り込まれて……
だからだろう。降るような縁談を避け続け、殊更職務に勤め、同じ年齢の王太子妃の篤い信頼と友情を勝ち得た。
士官学校に通い始めた弟よりも、自分が家の役に立つと示したかったのかもしれない。
―――私に弟など居ない。私は男として育ち、生きた。
王妃となったあの方と私は若い娘らしく、互いの秘めた想い人を打ち明け合い、叶わぬ恋を嘆き合った。
彼女は北欧の貴公子、私は実家で弟に仕える幼馴染の従僕を。
身分と境遇が結んでくれない縁の糸。
私と王妃は友情を深め、第一の寵臣としての地位を確固たるものとした。
―――もし私が、女性としてあの方と共感できていれば、ポリニャック一族の欲しい侭にさせずに済んだのか?
やがて米国の独立戦争が終わり、北欧の貴公子が帰って来た。私には、近衛士官となった弟が、従者を従えて王宮に上がるようになり、休暇で家に戻る以外でも彼の姿を見られるようになった。
弟を丸め込み、王妃の夜の逢瀬を護らせながら、自分もまた、夜陰に紛れて彼の腕に飛び込んだ。
思えば、それが自分に与えられた唯一の幸せな時間だった。
―――何故この女性は、自分から動かない?
痩せ枯れた土地のように、国政は疲弊してゆく。
ヨーロッパを荒らした七年戦争や継承戦争の疲れから脱却できないまま、派遣された米国独立戦争への義勇軍と援助。旧態依然とした考え方しかしない貴族達。立て続けの飢饉。干魃。寒波。
全てが国の力を奪っていく。
―――しかし、他に何かできたはずだ。賢く立ち回れていさえすれば。
国王陛下が如何に英明で先を読まれる方であっても、如何に優れた改革を打ち出しても、貴族達の利己的な頑迷さによって否定されては、何もしていないのと同じ事。
そして国民は、餓えと圧制への不満を溜め込む。
新たな思想を振りかざし、それらを煽る者が現れ、理想を餌に扇動を繰り返した。
―――国は過渡期に来ていた、変革の波を誰が押し戻せただろうか?
貴族も、王家も、餓えた民衆も、ただ自分の事しか見ていない。
なんと傲慢で、なんと愚かな者達か。
その傲慢な愚か者達が、私から彼を奪った。
―――え?
所要でパリへ行った彼の乗った馬車が、血迷った群集に襲われたのだ。
彼は貴族では無かったのに。ほんの少し身なりが良いと云う理由だけで。
―――違う。あれは私の不注意だ。
偶然通りかかった軍隊により助けられ、路上に遺体を曝す事は免れたものの、三日三晩苦しみ、急遽駆けつけた私の手を握りしめ息を引き取った。
平民が本当に憎み、牙を剥くのは、彼らにとっての裏切り者である。貴族に阿り、良い暮らしをしている平民なのだと知った。
確かに貴族よりは従者の方が無惨に殺されるのだ。なんと浅ましい。
そんな妬みや僻みを飢えで正当化して、彼の命を奪ったのか?
私は彼が居なければ生きる意味すら持たないのに。
彼が居なければ、生きていけないのに。
彼は私の全てだったのに。
奪われた。
―――あの時、彼を失っていたら、私も深く嘆き悲しんだだろう。己を罵り、消えることのない喪失感を抱えて、断罪を受けようと、心待ちにしたに違いない。
この先、生きてなどいたくない。
どうかこの嘆きのままに命を絶って欲しいと、 彼のそばに行きたいと、神に懇願した。
何度も何度も。
しかし神は、私の願いなど聞き入れてはくれず、替わりに復讐の道を与えられた。
私は生きて憎み続けよう。私から彼を奪った民衆を。
―――違う。憎むべきは自分だ。何もせず。彼を無為に死なせた自分こそが、全ての罪を受けなければ。
父が私に結婚を命じた。
こんな薹の立った行かず後家をもらってくれる、奇特な人物と父は言った。
奇特でも近衛連隊長ならば役に立つ。
王妃に仕え続ける事を条件に、私は求婚者の手を取った。
―――耐えられない。もうたくさんだ。彼女はこのまま全てを憎んで生きて行くのだろう。
しかし、それは私の人生ではない。
耳元で、蝶番の軋む音が響く……
私の前には、厳めしい樫の扉が磨き込まれた鈍い輝きを放っていた。
重厚で大きな扉は、無言のまま私を見下ろす。
この扉の向こうに先程の哀しい 女性が居るのだろうか?
もう、見たくはないけれど、彼女は私が辿ったもう一つの道かも知れない。
ここは何処だろうか?
目を転じれば、自分が長い回廊の途中に居るのが判る。
同じような大きな扉が、等間隔に並び、私を待ち構えているかのようだ。
何故私は一人でこんな所に居るのだろう?
たしか最後の記憶では、バスティーユの争乱の中で硝煙と土埃を浴びながら、成し遂げた事に満足しつつ、私は目を閉じた。役目を終え、神の御元へ往けると信じて。
私の予定としては、次に目を開いたら、私の夫の腕の中に居るはずだったのに。
訳の判らん女々しい女の繰り言に付き合わされ、さすがに音を上げればこんな廊下に放り出されていた。
大体アンドレもアンドレだ。
いくらあの世界ではアレが私だとしても、あんなうじうじした女に現を抜かすなんて。
許せん。むかつく。
しかし、落ち着こう。
あのアンドレは、彼女のアンドレだ。
私は私のアンドレを、探し出さなければ。
それにしても、あの父上の言い草はなんだ?
薹の立った行かず後家とは、大きなお世話です。そんなのでもちゃんと、待っててくれた男は居ましたぞ!
だから、落ち着け私。
言われたのは私ではないのだ。実際も、言われかねない状況ではあったけれど。
第一、そんな言葉に憤る資格は無い。私は王家に反逆した上に、親に逆を見せたのだから。
最大の親不孝者だ。
申し訳ありません、父上母上。
しかし、私は幸せでした。
私は私の人生を、自分で選び掴み取って生き抜けたのですから。
そして素晴らしい男性を愛し、彼に全身全霊を以て愛されたのです。
人として、そして女としても、これほどの幸せは無いと思っております。
でも、ごめんよばあや。お前の孫息子を死なせてしまった。
ばあやの家族は、アンドレだけだったのに。私などに捉われた所為で、ばあやには曾孫も抱かせて上げられなかった。
もし彼が、普通に結婚していたら、私の盾になって死んだりしなかっただろうに……
おや?
二つ先の扉が開いた。
何か賑やかな声が聞こえる。
「おめでとうアンドレ!」
え?
扉の向こうは懐かしいジャルジェ家の庭。
館の東角には小さな礼拝堂があり、観音開きの扉が付いている。
今それは大きく開け放たれ、少しだけ上等な服を着たアンドレと、やはりちょっとだけおめかしした栗毛の侍女が、ライスシャワーを浴びながら出てきたところだった。
そういえば、使用人の結婚は礼拝堂に司祭を呼んで、秘蹟を施して貰うのが慣例だ。つまり、二人は式を終えて夫婦となったのか。
私ではなれなかった正式な、神に許される夫婦に。
アンドレの両目が無事だ。髪も長い。
顔も若く幼く見える位だ。そういえば、あいつはそもそも童顔だったっけ。
最近のあいつは、惚れ惚れするほど精悍で大人びて見えたが、年相応と言うよりはきっと経験が顔に出るタイプなんだろう。
表情も呑気なままで、使用人仲間に冷やかされて照れている。
24-5といった辺りだろうか。
ロザリーが、嬉し泣きのばあやと一緒に泣き笑いしている。
世の中がまだ少しは平和で、マリー・テレーズ様が御誕生あそばされ、王妃様も落ち着かれて、私の仕事も大して波乱もなく、人生にあまり疑問も持たず、遠く海の果てで戦う片思いの相手を偲びつつ、平穏無事に過ごしていたころだ。
そういえば、ばあやが当時母上付きの侍女だったある娘を孫の嫁にしたい。なんて言っていたな。
祖母を安心させてやるべきか、自分の思いを貫き通すかで、結構悩んだと後から聞いた。
もしそうして結婚していたら、お前は片目を無くさず、まして私の心無い仕打ちに苦しまずに済んだかも。などと、抱き締められながら、少しだけ哀しく思ったりしたものだったが。
前言撤回だアンドレ。
他の女性の手を取る、お前の姿は見たくない。
誰にもお前を、渡したく無い。
私ではない女性を選んだお前を目の当たりにして、私にも人並みに嫉妬心があるのを自覚した。
喜べアンドレ。
私は十分に妬いているぞ。
今すぐ新郎新婦の間に割って入りたいくらいだ。
私が愚昧な行動に出るまえに、扉よ。今すぐ閉まってくれ。
…………いったい此処は何なのだろう。
嫉妬に憤って、その勢いに押されるままに、あれからどれだけの扉を開きまくったか。
色々なアンドレと私が居た。
おしなべて皆、幸せな結末や状況には無く。どちらかが死ぬか、すれ違い続けるかだった。
アンドレの毒杯をしっかり飲んで、絶命していたのもあった。
あいつに抱き締められたまま息絶える状態に、少しだけ嬉しかったのは忘れよう。不毛過ぎる。
二人とも生きて居たのは一つで、平穏無事に世の中が持ちこたえ、私は将軍となって勇退し、姉の息子を養子にして跡を任せて、アラスに隠居しのんびり暮らしていた。もちろんアンドレが私の身の回りを世話して、二人で思い出話をしている。というものだ。
ただし、私はあれの気持ちなど欠片も気がついて居なかったし、あいつはどこかの時点で昇華したのだろう、ひたすら穏やかなままだった。
表面上は穏やかな優しい世界なのに、私にはいたたまれない罪悪感が迫って来た。
次にへこんだのは、私達二人とも男なパターンだ。
私は自分が男だったらと常から願っていたが、もう止めよう。
あいつと二人でパレ・ロワイヤルの娼館に繰り出して、どんな娼婦とどうしたか、ほとほと耳を覆いたくなるような、あからさまな男同士の会話をするに至っては、もう堪えきれない。
早々にそこから逃げ出した。
ああ、女同士のパターンもあったな。
ベルサイユの令嬢方が、私に期待したような世界が展開していて、怖かったからすぐに退散した。
フェルゼンが私に振り向き、あっさり嫁いだのもあったな。
間抜けな鈍感女は、自分の幸せに有頂天で、アンドレはそのまま付いて来ると決めていた。
しかし婚礼の前日。アンドレは荷物をまとめて屋敷を出て行き、突然の別れに愕然とする私だけが残された。
傍観者の私が、立ち尽くした彼女を如何に罵倒したかは、言うまでもない。
結構面白かったのは、私とアンドレがフェルゼンと共にアメリカ独立戦争に赴き、ともに戦う世界だった。
私は既にアンドレと好い仲になっていて、フェルゼンにからかわれたり見せつけたりと、愛と友情の両方を手にして、私的にはかなり満足だったのだが。
例によってアンドレのボケナスが、海戦の真っ只中で私の盾になり死んでいった。
ビレーピンを握り締めたまま崩折れる自分の嘆きに耐えきれず、扉を閉めたのだが。
哀しみと怒りが腹の中をぐるぐるしている。
アンドレは私の為ならば簡単に命を捨てる。後に残される私の事など考えずに。
あんまりじゃないか。
あの時だって、見えてもいないくせに、アラン達にまで口止めと協力を頼んで、私にだけ知らせずに身体で弾除けになって。
自分だけ満足そうに死んでいった。
そんなに盾に成りたいなら、軍服の下に鉄板でも仕込んで置けば良かったんだ。
そうだ思い出した。悲しみで狂いそうになっていた、あの一晩。私は一つだけ心に誓ったんだ。
私が天に召され、あいつと再会できたら。
絶対一発殴ってやる。と。
悲しみに潰され、立ち直れないような嘆きの中でのヤケクソな誓いだったが、今改めて誓うぞ。
あの身勝手男。私が泣きながら抱きついて、胸に縋ると思ったら大間違いだ! クソッタレ!
私をどれだけ打ちのめしたか、身をもって思い知れ。
アンドレを罵倒していたら、少しは落ち着いてきたな。
昔から、気に食わない時はアンドレに八つ当たりして、報復食らって喧嘩してすっきりしたものだ。居ない時でも罵詈雑言を並べ立てていたら落ち着いてくる。やはり私にはなくてはならない存在だ。
よし、冗談も出てきたぞ。
とにかく、現状を把握し直そう。
まず、私はバスティーユで戦死した。はずだ。
しかし、神の御元では無く、この奇天烈な場所にいる。
果てしない真っ直ぐな廊下の真ん中で、両側面には等間隔で大きな樫の扉が並んでいる。
扉の中は部屋では無く、別々の違ったり似ていたりする私の人生がある。
どれも悪夢のような悲劇だ。
しかし、私そのものの人生は無かった。
私自身の人生を開けられれば、私は此処から抜け出せるのだろうか?
此処はなんなのだろう。けっして心は穏やかにならず、何かに追い立てられているように落ち着き切らない。
さらに扉の向こうの悲劇が、気持ちを追い詰め、闇雲に走り出したくなる。
こんな安らかではない場所が、天国とは思えない。
では地獄だろうか?
神より王権を授けられた陛下に逆らい、反逆者となった私は地獄をさ迷うのだろうか?
だとしても屋内の地獄とは珍しいのではないか?
第一。地獄と言えば業火じゃないか。焼け死んだのは、ジャンヌに因ってサベルヌで爆死したケースだけだったな。アンドレが遅れて来て、一緒に死んだんだ。
……いかんいかん。一緒に死ぬことなんか、羨ましがってどうする。
まあ、最初から一緒なら、こんな所で探さなくても良かったんだろうけど。
以前フェルゼンから聞いたスラブの地獄かも知れないな。あそこは果てしない地下の回廊が続き、個々の部屋で官吏の拷問が繰り返されるとか言っていた……と思う。
昔に酒の席で聞いた気がする。あの頃は、一言一句聞き逃すまい忘れるまいと真剣だったが、すまんフェルゼン。あらかた忘れた。
しかし、廊下と扉だけで光源すら判らないが、明るい。此処が地下とも思えない。
このまま延々と扉を開け続けていかなくては、ならないのだろうか?
あ、似たような話をジェローデルから聞いたな。あいつはシノワズリ趣味があったから、東洋の地獄だったか?
親より先に死んだ子供が、親不孝の罪で石積みか何かを、延々し続けないといけないとかいうものだ。
親不孝には自信がある。誇れる事では無いが。
だとしたら、私はこの先永遠に扉の向こう、別の世界を見続けなければならないのだろうか?
本物のアンドレは居ないのに、別のアンドレの苦しみを見続ける……確かに地獄だ。
このまま、永遠に?
嫌だ。
私はアンドレに逢いたい。
私のアンドレに。
一発殴る誓いも忘れて無いぞ。
うむ。発想を変えよう。
そもそも、廊下の使い方を私は間違っていた気がする。
廊下とはなんぞや? 屋内の通路である。通路とは目的の場所へ行く為に開かれた空間であり、何も扉の陳列棚では無い。
現在は戦闘中では無いから、通路上の各部屋を索敵しながら確認する必要も無い。
つまり。
真っ直ぐ進んでみよう。
果ての見えない廊下の端まで行けば、出口なり壁なりあるのではないか?
行き止まりなら、そこからまた扉を開けて見ていけばいい。
よし、行こう。
お? 歩き出したら、心なしか前方が明るくなってきた気がするぞ。
だんだん光が強くなる。
どうやらこれは正解らしい。
白い前方に目を凝らせば、発光する扉が見える。
これが出口だろうか?
それとも、また別の世界か?
触れても熱くはない。
鍵は掛かっていないようだし、押せば開くだろう。
この向こうに、神の国はあるのだろうか? それとも、新たな地獄だろうか?
ままよ!
罷り通る!
………………
「……さま? オ…ルさま?」
とても懐かしい優しい声がする。
「…………隊長!」
意地っ張りな部下の声。
「オスカル。判るか?」
この声は? 長く聞いてなかったような……
ああ…眩しいな。
まるで天井自体が発光しているかのようだ。
「オスカル様!」
ロザリー。また大洪水だな
「泣かないで。私は大丈夫だから」
腕を伸べて涙を拭いてやると、さらに滂沱の涙が溢れだす。
青い瞳が溺れそうだ。
「そんなに泣いたら、目が溶けてしまうよ」
いつもの言葉も、今日は逆効果のようだ。顔をくしゃくしゃにして飛びついてくる。
「オスカル様、オスカル様、オスカル様」
「心配かけたね。ロザリー」
しがみつく小柄な体を抱き止めて、背中を軽く撫でてやる。少女の頃から変わらない、私の春風。
負傷した私を、さぞ心配してくれたのだろう。
揺れる肩を撫でながら、それでも胸の奥に搾り上げられるような痛みを感じる。
助かってしまった。
バスティーユの襲撃から何日過ぎたのだろう?
蜂起した民衆はあれからどうしたのか?
陛下やアントワネット様は如何なされているのか?
ああ、衛兵隊は皆無事か?
負傷者は?
……死者は?
寝台脇の気配に顔を向けて、並んで立つ黒髪の男達に一瞬心臓が跳ねる。だが次の瞬間には失望が押し寄せた。
アランと居るのはベルナール。相変わらず、ぱっと見は似ている。紛らわしい奴だ。
それにしても、二人とも妙な格好だな。
ベルナールは襟の有る木綿のブラウスだが、妙に身体に直線のラインだ。ちゃらちゃらしていない分、こいつらしいとは思う。
アランは軍服ではないんだな。意外だ。
リネンのシャツのようなものの上に、丈の短い上着を羽織っている。
どちらもキュロットではなく、足首までのボトムスを履いていた。
サンキュロットとかいうものかな?
革命によって、だいぶ装束も変わったようだ。
「ロザリー。お前の御亭主が睨んでいるよ」
何時もの嫉妬丸出しの視線は向けられていなかったが、態とそう囁いて離れさせる。
「もう、ベルナールったら」
ロザリーは、口では苦情を言いながら、今度は夫に縋って泣き始めた。
よほど心配を掛けたのだろうと、申し訳なく思いつつ、ゆっくり体を起こして驚く。
長く寝ていた筈なのに、めまいもだるさも感じない。不思議な程体が軽い。胸を病んでから馴染みになっていた倦怠感と、喉の奥の疼きも感じない上に、銃創すら痛まないのはどういう訳なのだ?
私は確かに敵兵の集中射撃を受けた筈だ。少なくとも四発の弾が当たったのを覚えている。
一発が左胸を貫き、心臓に致命傷を受けたと思っていた。
いくらなんでも、それらが塞がるまで、私は寝ていたのか?
まるで、健康な体でじっくり熟睡した後の様な爽快感だ。
尤も、心の中は大嵐だがな。
神は、私を夫の傍に呼んでくれる気は無いらしい。
先ほどまで見ていた夢の断片が脳裏を掠める。
確かに、開いた扉の向こうは新たな地獄だったようだ。アンドレを失い、なおも生き続けねばならない地獄。
誓いを果たすのは、だいぶ先になりそうだ。
堪えきれるだろうか……?
だが、泣けない。
せっかく喜んでくれているのだ。私が悲しんでは水を差す。
寡婦の嘆きは、あの夜散々したから、まだ少しは平静を保てるだろう。
第一。
泣く場所はもう、無い。
幼い頃から、幼なじみの胸が唯一の泣き場所だったのだから。
とにかく動けるなら丁度良い。
職務を果たせると言うことだ。
起きるだけでなく、寝台からも降りて床に立つ。
大理石の様なのに、冷たくないのが妙に感じるが、まあ、些細だ。
「アラン」
軽く足を開いて立ち、手は後ろで組んで真っ直ぐアランを見た。私の所作に合わせ、アランが直立不動の姿勢をとり、顎を軽く上げる。
「休め」
「はっ!」
指示に従い足を開くと、私に倣って後ろ手に腕を組んだ。
「アラン、報告を」
おかしな事では無いはずなのに、アランが豆鉄砲でも食らった顔をした。
こいつらしくも無い。何時もしている事だろうが。
「何を惚けている?戦況に部隊の被害状況と死傷者数、負傷者の状態。我々側の武器弾薬の残数。国王軍との話し合いはあったのか? それに、私は何日寝ていたんだ?」
「えっと…あの」
「寝ていた日数なら、延べでざっと365000……」
んなわけあるか!
「茶化すなベルナール」
生真面目な堅物には珍しい冗談だが、時と場合を考えろ。
「アラン。おかしいぞ、お前」
私が眠っている間に日数が経ちすぎて、混乱しているのかも知れないな。
「まあ、いい。後程文書にて提出しろ。だが、一つだけ。死者の埋葬は済んだか?」
「はっ! 夏期でもあり、速やかに各教区内の教会にて、葬儀と埋葬を済ませました!」
確かに夏は遺体の腐敗も早い。
死体が大量にあっては、どんな病を呼び込むかも分からない。適切な処置だろう。
アンドレも……もう墓の下か。最後の別れもできなかった。名義はどうであれ、気持ちは妻として見送る事すら、できずに眠っていたのか。
神は私に耐えられると仰るのか? こんな悲しみに。
「隊長?」
いかん。顔に出たか? アランの声に懸念が混じる。
「何か、誤解…」
「オスカル」
アランの言葉に被せて、意外な声が私を呼んだ。朦朧としながら聞いた声は、やはり。
「フェルゼン!」
「久し振りだな」
ベルナールと似たような格好だが、相変わらず爽やかな笑顔で、親友は片手を挙げて挨拶してくる。
「ああ、久し振りだ。ロシア戦はどうなった?」
「勝ったよ。陸軍では無く海軍が勝敗を決したのが、悔しいけれどね」
私が差し出した右手をしっかり握りしめて、彼は明るく笑う。
ああ、この笑顔を辛く見つめた日々も懐かしい。
「いつこっちへ?」
「パリの暴動蜂起の知らせを聞いたのは、フランスを目指す途中の、ベルギーの森の中だったよ。衛兵隊が反乱側に寝返ったと国旗で聞いた時は、腰が抜けるかと思ったぞ」
「そうか。すまん」
くれぐれもあの方を頼むと託されていたのに。私は裏切ってしまった。
自分の決断に後悔は無いが、あの方や陛下をどれほど失望させ、哀しませたか。ただ申し訳ない。
「ロザリーやアラン達から、君が如何に決断し、信じる道を貫き通したかは聞いているよ。実にお前らしい」
意外な言葉に顔を上げると、水色の瞳がにっこり頷いてくれる。無条件の理解に涙が零れそうだ。
「ありがとう……」
何とかそれだけ絞り出す。まったく、この男は昔から調子がいいくせに一本気で、誠実で頑固で妙に柔軟で…ああそうか、似てるんだアンドレに。
いかん、泣く。別の事を考えねば。
「それにしても、なんでお前は此処に?」
アランとロザリー夫婦は解るとしても、フェルゼン? 繋がりが見当たらない。
ロザリーが呼んだのか?
「ベルナールに呼ばれた、と言うべきかな?」
にっこり微笑み両腕を広げる。
「我々三人は、和解したんだよ」
和解。フェルゼンとベルナール達が。
王家を守る者と、革命を目指す者とが和解した。それは、王家と民衆が歩み寄ったということか? だとすれば、これほど嬉しい事は無い。
フェルゼン。お前は昔から私を泣かすのが上手すぎだ。大半は勝手に私が泣いていたんだが。
けど駄目だ。今泣いたらもう自分を偽れない。
嬉しさに発した涙でも、根底に絶望が根ざした今では、哀しみの波に呑み込まれてしまう。
だから、落ち着かなくては。
目の端で壁の一部が横に動き、開いた空間から看護婦らしい白いボンネットの女性が入ってくるのが見えた。
出入り口は引き戸なのかと、ふと目を逸らす。
フェルゼンには悪いが、気を紛らわす為なら何でもしたかったんだ。
だが、我が友は容赦ない。大きな手がポンと肩に置かれて、私の視線を引き戻した。
「アンドレの事は、大変だったね」
本当に容赦ない男だ。
お前の誠実さが、これほど恨めしく思えるなんて、どうしたらいい?
「フェルゼン……私は…」
私はここで泣きたくないんだ。ロザリーも居るしアランも居る。だのにお前の澄んだ瞳に、私の中身が引きずり出される。
涙が溢れそうだ。
「置いて逝かれる辛さは良く解るぞ」
お前は母上を亡くしていたな。
「フェルゼン……すまない。一人にさせてくれないか?」
ああ、もう喉の奥の熱を飲み込めない。せめて、一人になりたい。
「一人に?」
彼はむしろわざとらしく片眉を上げて見せてから、今度は満面の笑みになって、私の両肩を掴んだ。
「一人より、良いやり方がある」
そしていきなり、私の体を反転させた。
「置いてきぼりにした張本人に、恨み言をぶつけるのはどうかな?」
耳元でそう囁く声は、止まった思考を蹴り上げて動かした。
強制的に振り向かされた先には、私が着ているような、白い貫頭衣を着たやたらにでかい若い男。
太くはない、むしろ細身で無駄がない。背丈に見合った強靭な筋肉が程良く形の良い骨格を包んでいるのを、私は良く知っている。
少しボサボサの癖毛を中途半端な長さにしていて、今度散髪してやらないとうっとおしくなりそうだ。私の大好きな黒葡萄の髪なのに。
それにしても、なんて間抜けな姿だろう。
貫頭衣は七分袖の七分丈で、長い手足がにょっきり突き出し、素足には室内穿きの平たいつっかけ。飛び出た踝が、妙に愛しい。
こんなみっともない男が、極上のハンサムに見えるなんて、私はきっとどうかしてる。
ああ、でも。ああ、でも。
これはどんな奇跡なんだ?
「オスカル。なのか……?」
呟く低い声は、私の涙腺を緩める効果絶大だ。クソ! 視界が霞むだろうが。
「馬鹿者」
ああ情けない。声まで掠れた。
大きな足がゆっくり動いて、私に近付いてくる。
「その、なんて言うか……びっくりした」
奇遇だな。私も驚いたぞ。
医学の進歩か? それとも神の奇跡か?
私を見つめ私が見つめ返すのは、黒曜石の双眸。
「見えるのか? 両方」
震えるな声。ちゃんと聞きたいんだ。
「ああ。お前の綺麗な顔が見える」
にっこりする笑顔は、いつも私を温めてくれる灯火。
永久に、無くした筈のもの。
「お前の大丈夫は、アテにならん」
「あは、ごめん。でも、本当に大丈夫だから。お医者様もそう言ってたし」
精悍な風貌は変わらないのに、妙に若々しいのが不思議だ。
肌の色つやとしては、二十歳前後?
だが、こいつが二十歳の頃はこんな顔をしていなかった気がする。
あの頃はもっと童顔で、幼く見えて……夢の中で侍女と結婚式していた。
神よ、感謝します。
私のアンドレは、やはりどこにもいない私だけのアンドレです。
私にアンドレを返してくださって、本当に感謝します。
神の奇跡を受けて、私は今こそ、夜の聖堂で立てた誓いを果たします。
「アンドレ。足を開いて歯を食いしばれ!」
「え?」
「早く!」
時間が無いんだ急げ! 私が決壊する前に。
慌てて体勢を整えるのを待ちきれず、拳を固めて腹に一発めり込ませる。
「ぐえっ……!」
蟇蛙のような声をだして、二つ折れになって崩れる愛しい男を抱き止めて、私は今度こそ心置きなく涙を解放した。
後の事は、よく覚えていない。
私が夜の聖堂で立てた誓いを、千年越しで果たせた事を知ったのは、数時間後の事である。
壮大な設定なのに、お話はとっても甘くかわいい。
熊野さまの作品の魅力はこの対照の妙にあると思います♪
実は6部作だそうで、その意味でも、またまた壮大なのです(^o^)。
どうぞお楽しみ下さい。
熊野さま、ありがとうございました。 さわらび
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