復活の日


           SEQUENCE2  アンドレ『夢から覚めても』.  






                                    熊野郷さま  作







「はい。問題ありませんね」
 先端がピカピカ光る妙な小石を俺の目の上に翳していた医者が、手元の小箱を眺めながら頷いた。
「何がでしょう?」
 医者のしている事が解らなくて、聞き返す。
「全てがですよ。バイタル数値は全て正常です。問題はありません。視力も、怪我をする以前より、向上している筈ですよ」
 確かに両目共良く見える。信じられるか? 両方だ。
 鞭で打たれた左目は、必要な期間薬で押さえなかった所為で白濁し、挙げ句に瞼が癒着して二度と開かない筈だった。
 左目に引きずられる様に、右目も光を無くした。
 しかし今、俺の両目は開き、しっかり周りを見ている。
 ……のかどうかは、甚だ自信がないんだがな。
 正直、夢でも見ているんじゃないかと疑わしい。
 だってそうだろう? 俺は死んだ筈だ。
 薄闇に包まれた視界の中での銃撃戦。あいつを狙って敵の放った銃弾を、体で受け止めた俺。
 体の痛みよりも、指揮すら放り出して俺に縋るオスカルに、胸が痛んだ。
 どんな泣き顔をさせてしまったんだろう。どれだけ辛い思いをさせたんだろう?
 ……今はどうして居るのだろう? 気になるのはそればかりだ。
 とにかく。目は勿論、銃弾の傷すら痛まない。
 挙げ句に浮き世離れしたこの病院だ。
 塵も染みもない天井と白い壁は柔らかく発光しているし、見たことも無い不思議な道具があちこちにある。誰も押してないのに、ゆっくりと床を滑って行く白い箱を見た時は仰天した。俺を案内してくれていた看護婦が、床を掃除している機械だと教えてくれたが、今だに信じ切れないでいる。
 そして目の前には女性の医者。産婆以外では珍しい。
 美人だけれど少し容貌が変わっている。耳が長くて尖っているし、猫のような瞳は薄紅色。およそ見たことも無い人種だ。
 神の国かとも思わないでもないが、目覚めた時に俺を覗き込んでいたのはアランとベルナールで、しかも何故かフェルゼン伯爵まで居た。みんな変な服装だった。
 服装もさることながら、あまりにも人の取り合わせが変すぎる。
 これが夢じゃなかったら、いったい何事だと云うんだろう?
「グランディエさん?」
 医者の声。いけないな、考えに没頭し過ぎだ。
「失礼しました。なんでしょう?」
「何か知りたい事は、ありますか?」 
 知りたい事? 山ほどある。
 まず、貴女の耳は、何故そんなに長くて尖っているのか。いや、気にしているかも知れない。聞くのは止めよう。
 だいたいそんな事より、まず聞きたいのは。
「オスカルは、ジャルジェ准将は無事ですか?」
 俺の質問は何かおかしいのか? 女医はきょとんと俺を見る。
「ジャルジェ准将……ですか?」
 怪訝な面持ちで小首を傾げられると、これが夢だと思っていても、あらゆる想像が脳裏を掠めていく。
 知らないのは怪我も無く、軍務に就いているからなのか、それとも別の病院か。アランの様子から考えて、死んではいないと確信してはいるが、最悪の場合、謀反人として何らかの処罰を受けて更迭されている可能性だってある。
 もし夢じゃないなら、いったい自分は何日眠っていたのか? それともこれはやはり夢なのか?
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将です」
 彼女の名前をゆっくり繰り返した。途端に女医が頷く。
「あなたの奥さんですね。大丈夫。彼女も今日、目覚める予定になっています」
 意外な呼び名と妙な言い方に、俺は言葉の継ぎ穂を失った。
 あいつを俺の妻だと公言できる立場に、俺は居ない。第一、妻、夫。と呼び交わす間柄になったとは言え、あくまでも個人的に契りを交わしただけなのだから、誰にも二人の事を言ってはいない。
 それなのに平然と、当然の事のように『あなたの奥さん』と言い切るなんて、有り得ない。
 これで確信できた。やはり、これは夢なんだ。
 俺は大怪我をして、深く眠っているのに違いない。だから、こんな変な夢を見ているんだろう。
 以前にも、怪我の熱で浮かされて悪夢を見ながら、これは夢だと強く自覚があった。また同じ様な夢を見ているに違いない。
「目覚める予定、とはなんなのでしょう?」 
 夢と分かれば、余計な警戒もいらない。疑問を訊ねるのも気が楽だ。
 身分や立場や体裁を考えなくて良い。思ったまま口に出して、何にも問題がないんだからな。
「あなた方は、射創、つまり銃弾での怪我の他に、かなり重篤な疾病を抱えていましたから、他の方達より長めに治療ポッドに入っていて貰ったのです。あなたは眼球と視神経の再生、奥さんは結核菌と病巣の除去、そして肺組織の再生です」
「結核?!」
 ああ、そうだ。キスに血の匂いを感じる事があった。何もないのに、怯えた様に縋り付いて来た事があった。モーリエが俺のブラウスに血が着いていたと……
 いや。これはそういった事の不安から、作り出した夢の中での答えだ。だいたい結核菌ってなんだよ? 変な言葉作り出したな、俺。
 病は血の繋がりや、空気中や土の中にある毒素や、同じ病気のものから移される毒素が血の流れを阻害して羅患すると考えられていると、以前軍医の先生に聞いた。結核菌なんて変なものの話は聞いた事がない。
「グランディエさん? 聞いていますか?」
「すみません。結核菌なんて聞いたことが無いので」
「そうでしょうね。あなたがいらした時代には、結核菌は発見されていませんから。結核は結核菌に因って感染するんです。結核患者であった奥さんと一緒に居たあなたも、感染して潜在的なキャリアでしたが、もちろん除去されています」
 ジャルジェ家には血縁含めて肺病病みは居ないし、衛兵隊にも居ない。オスカルはどこでそんな病に取り憑かれたのか?
「オスカルも俺も、結核患者に近寄った事も無いのに……」
 やはりロクな休みも取らず、激務に浸った上に、強い酒ばかり飲んだからか?
「不特定多数の集まる会議に出たり、人の多く集まる会場の警備をなさっていたのでしょう? それに末期の脊椎カリエス患者には、長期間に何度も接触していますね。感染経路はそのあたりでしょう。過労による免疫力の低下が著しかった様ですし、他の方々よりも感染し易かったと推測できます」
「脊椎カリエスは結核ではありませんし、感染る病気ではないのでは?」
「ですから、あなたの時代には見つかっていない結核菌が、どちらも原因で羅患する病気なんです。ただ、脊椎カリエスは脊椎内で菌が病巣を作るため、肺結核の患者より感染する事が少ないのですが、絶対に感染しないなど有り得ません。体力と免疫力が低下している場合は特に」
「なんて事だ……」
 夢の中の筈なのに、整合性と理屈が通ってて信じそうだ。
 とにかく、早く目覚めて本当にオスカルが病に取り憑かれていないか確認したい。しかし、どうすれば夢から出られるのだろう? この夢は何一つ見ている俺の思い通りにならないのに。
「ひょっとして、あなたはまだ、何も聞いてないのですか?」
 不意に覗き込まれ、薄い紅色の瞳を間近で見返した。
「聞く、とは?」
 常人とはどこか違う少し縦長な虹彩に自分が映っているのが不思議だ。
「あなた方が此処に居る理由です」


 夢というものはどこから霊感を受けるのだろう?
 自分が知りもしない知識や世界が、奔流のように展開する。
 オスカルが付き合いで顔を出すサロンなどに行った時、似非文学者や文筆家気取りの連中が、したり顔で話していたのを覚えている。
 女医が語る世界は、夢の不思議そのものだった。
 時代は二十八世紀。俺たちの時代から千年も後。人々は星の海を渡り生きる場所を広げて繁栄していた。しかし、その平和を脅かす侵略者が襲ってきた。壊滅寸前の彼らは、助けを過去の求め、俺やオスカル、衛兵隊の仲間や、その他色々な時代の人々が『呼ばれ』て居るらしい。
 俺がテュイルリー宮広場で死んだ翌日、オスカルがバスティーユを攻撃して陥落させたが、そこで戦死したと聞いた時は動揺したものの、今は蘇生してもうすぐ起きると言うのでは、緊張も続かない。
 まったくもって、俺の中にこんな突飛な発想があるなんて驚いた。
 まるで子供の頃に、オスカルと一緒に夢中になって読んだ、シラノ・ド・ベルジュラックの太陽や月の帝国を訪問する話のようじゃないか。
 朝露をどれだけ集めればいいかとか、旅に持っていくものをどうしたら軽くできるか、なんて結構真剣に太陽帝国への旅行を相談しあった。
 発想元は、あのあたりかも知れないな。
 起きてこの夢を憶えていたら、オスカルに話してやろう。きっと面白がるぞ。
 起きられれば、だが。
 まあ、俺はだいぶ気の抜けた顔をしていたんだろう。
 女医は肩を竦めて退室を促してきた。
「何にせよ、何の問題もなくて何よりです。奥さんも目覚められるでしょう。傍に居てあげてください」
「はい」
 逆らう必要もない。再び看護婦の後ろについて女医の部屋を出た。
「かなりの常識人。現状把握に今一歩」
 扉が閉まる寸前、女医がそう呟くのが聞こえる。
 どういう意味だ?
 前を行く看護婦の白いボンネットと細い肩が、くすくすと揺れているのも、居心地の悪さを助長した。

 白い廊下を歩きながら、この夢からの脱出方法を考える。
 前回の場合はどうだっただろう?
 全身が痛み酷く苦しい中、砂漠だったり岩山だったりを這いずって、美しい泉の畔に出た。そこではなぜか舞踏会が開かれていて、あのオダリスク調のドレスを着たオスカルが、フェルゼン伯爵やジェローデル少佐ととっかえひっかえ踊っていて、あまりの光景に堪らなくなり足を踏み出して、泉に嵌った。
 水に沈みながら、これは夢だと気がついたんだった。
 あの時はどうした? 自然に目覚めたんだったか?
 いや、夢と自覚したら現実を思い出して更に落ち込んだ。このまま現実なんかに戻りたくない。と思って、いきなり現れた深い森の中へ逃げ込んで……だんだん情けない気分になってきたな。人生最大のどん底な時期とはいえ、不甲斐無さ過ぎだろう、俺。
 しかし駄目だ。その後どうしたのか、どうしても思い出せない。
 なんだか、すごく眩しかった気がするんだが……?
「こちらです」
 看護婦は、最初に俺が目覚めた部屋へは戻らずに、別の部屋へと誘導する。
 オスカルが居るなら、何処にでも行くさ。
 ただ願わくば、フェルゼン伯爵やジェローデル少佐と踊ってませんように……

「アンドレの事は、大変だったね」
 嫌な事ほど起きるのは、悪夢だからか? 
 部屋に入るなり、フェルゼン伯爵の声がした。
 はっとして目を向けて、心臓が掴み出されるような痛みと衝撃に襲われる。
 俺の方には背を向けて、オスカルが立っていた。俺と同じ貫頭衣に袖を付けただけの様な、淡い水色の簡潔なデザインの服を纏っている。ドレスじゃないが、少し短めな袖や裾から覗く二の腕の細さと、素足のまま曝された脹ら脛の白さが目を焼く。
 布一枚だけ纏った薄い肩に、伯爵の貴族的な指の長い手が置かれ、包み込んでいた。
 僅かに顔を上げて、真っ直ぐ彼を見ているだろうオスカルと、優しく見つめ返す伯爵。
 止めてくれ! これじゃあまるで後朝の一場面だ。
「フェルゼン……私は…」
 オスカルの声は低く沈み、語尾が紋切り調になる。泣きそうな時の声だ。他の誰も気が着かなくても、俺には解る。
 フェルゼン伯爵の前で、時折切なく掠れた声。
 あいつの長い片恋の間、何度そんな場面に立ち会わされた事だろう。その度に二つの気持ちがせめぎ合い、苦しくなった。
 オスカルの気持ちに気が着いてやってくれ! と、憤る俺と、頼むから、気が着いてくれるな。と願う心。今度はそれにもう一つ加わって、頭の中はぐしゃぐしゃだ。
 俺の女房に手を出すな!
 本当は真っ先にそう言って割って入りたい。
 俺の夢の中なんだ、好きにしても良いはずなのに……足が、動かない。
 情けない。こんな時でも従僕根性が邪魔をする。
 そこに居るお前は、俺と愛し合ったオスカルなのか?
 それとも、片恋に焦がれる昔のお前なのか?
「置いて逝かれる辛さは良く解るぞ」
 伯爵の言葉に、薄い肩がひくりと揺れた。
「フェルゼン……すまない。一人にさせてくれないか?」
 ああ、もう限界なんだな?
 抱きしめたい。お前の泣き場所は、俺の腕の中だろう?
「一人に?」
 オスカルの願いに対して、伯爵はむしろわざとらしく片眉を上げて見せてから、今度は満面の笑みになって、彼女の両肩を掴んだ。
 思わず足が前に出る。が、その衝動は伯爵の視線によって制された。彼は俺を一瞬見つめ、ニヤリと笑ったんだ。
「一人より、良いやり方がある」
 そしていきなり、彼女の体を反転させた。
 金の髪と薄い布地が、回転によって一瞬体の線を浮き上がらせ、次にふわりと広がってからもとにもどる。
 俺の目にはそんな動きが極上の絹のドレスのように見えた。
 伯爵が、オスカルの耳元に何か囁いてから、両手を離して数歩下がっていく。
 ニヤニヤと冷かすような笑みだったが、もう気にならないし、視野にも入らない。
 俺の目は、奇跡に釘付けになっていたのだから。
 ふわふわの金の髪。指で梳くと、良い香りが立ち昇る。どんな絹糸より細くて艶やかで柔らかくて、何時までも触っていたくなる。
 透き通るように白いのに、淡い薔薇色が彩る頬。滑らかで吸い付くような肌理の細かさは、真に奇跡だ。
 濡れている様に艶やかな、赤い唇。小振りで柔らかくて、小さな擱き火みたいに熱くて、どれだけ情熱的なのかを知ってる。
 高い鼻梁、秀でた額。それらが強調する絶妙なラインを描く眉。たとえ柳眉を逆立てていても、寄せられた眉にさえ見蕩れてしまう。
 そして何よりも。
 今にも決壊しそうな、大きく見開かれた碧い瞳。
 お前はロザリーを泣き虫だって言うけど、その実、お前もいい勝負なくらい泣き易いの自覚無いだろう?
 でも、でもな。
 これはどんな奇跡だと思う?
「オスカル。なのか……?」
 思わず口から零れた。
 俺を見つめるオスカルは、俺が自分の想いを自覚した頃のオスカルの姿だったから。
 白い仕官服を纏って、使命に輝いていた、あの眩い季節に立っていた、あの頃のお前だ。
 それなのに、俺を見つめる切ない瞳。
 俺の言葉に、潤み始める碧い海。
「馬鹿者」
 罵倒がまず出るの、お前らしい。
 ごめんオスカル。
 昔のお前か? だなんてちょっとでも思って。
 泣きそうな目も、引き結んだ唇も。全身で俺を求めてくれている。
 姿は、恋も知らずに夢へ突き進んでいたお前なのに……ちょっと違うか。髪の長さは、俺の腕の中にいたお前だ。 
 ああ、泣くな。今、そこに行くから。
「その、なんて言うか……びっくりした」
 とりあえず、そう言ってみる。
 両の目で、お前を見つめると、濡れた碧玉の中に、俺が映っているのが見えた。
「見えるのか? 両方」
 震える声。ごめんよ、辛かっただろう? 泣きながら、失明を隠していた俺を罵倒していた、お前の声を思い出す。
「ああ。お前の綺麗な顔が見える」
 笑いかけて、更に潤んでくる瞳に、手を伸ばそうか躊躇する。
「お前の大丈夫は、アテにならん」
 への字になった唇にキスがしたい。
「あは、ごめん。でも、本当に大丈夫だから。お医者様もそう言ってたし」
 だから、安心してくれ。
 いつもの様に笑おう。少しでも、お前が安心出来るように。
 たとえ夢の中のお前だって、泣き顔なんて見たくない。
 せっかくお前が見えているんだから、今のうちに笑い顔をたくさん覚えておきたい。目覚めた闇の中でも、消えないように。
 けれどお前が、夢の中でだって俺の思い通りになることなんて、ないよな。さっきまで儚く揺れていたお姫様は、いきなり俺を睨み付けて怒鳴り声を上げた。
「アンドレ。足を開いて歯を食いしばれ!」
「え?」
 いきなりの命令に彼女を見直せば、泣きそうなまま、青い光を放つ鋭い視線にぶつかった。
「早く!」
 ヤバい。本気だ。
 慌てて体勢を整えようとしたけれど、それより早くオスカルの一撃が腹にめり込んだ。
「ぐえっ……!」
 オスカルは、子供の頃から格闘技も剣術も旦那様手ずから鍛え上げられていて、仕官学校では成績優秀。正規の戦闘訓練も当然受け、拷問の仕方なんかも一通り身に付けている。剣技の巧みさは勿論の事、男より体重が軽く、腕も細いが、そんなハンデを巻き返す技術も持っている。
 つまりだ。こいつのパンチはかなり重く、深くめり込む。
 子供の頃から一緒に鍛錬を受け、練習や遊びで取っ組み合いをして慣れてはいるものの、まともに食らえば息が止まる。正に、今の俺。
 しかも、渾身の力と体重の乗った、本気の一撃だ。衝撃で体が一瞬宙に浮いた。
 足から力が抜け、前のめりに体が崩れる。霞んだ視界に、俺を受け止めようと両腕を広げるオスカルが見えて、これは夢じゃないとやっと悟ったんだ。
『かなりの常識人。現状把握に今一歩』
 なる程、そういう意味か……看護婦に笑われる筈だ。
 柔らかな腕に抱き締められて、でも俺の重さを受け止めかねたオスカルが一緒に床に座り込む。そして、俺の胸に額をこすりつけながら、まるで堤防が決壊したかの様に泣き出した。
 出会ってからこっち、初めて見る程の号泣だった。
 痛い位に俺の腕を掴み、肩を震わせ声を上げて。
 掠れて絞り出される嗚咽に、慌てて抱き締めた。
「オスカル……」
 殴られた腹が痛いとか、まだまともに息ができないなんて構っていられない。
 泣きやすいくせに、何時も涙を飲み込んで、毅然と顔を上げて真っ直ぐ背を伸ばしているお前が、身も世も無く泣いている。
 小さく背中を丸めて肩を震わせて、俺に縋る様にしがみついて。
 抱き締めて髪に何度もキスを落とし、背を撫でた。
 顔を寄せると、嗚咽の合間に呟く声が聞こえ、それが『思い知ったか』とか『身勝手男』とか『クソバカ間抜け』なんていう、俺への罵倒だったりするから、余計現実味が増して、愛しさがこみ上げてくる。
 今更だけど思い出した。
 前の夢から目覚めたのも、オスカルの泣いて俺を呼ぶ声を聞いたからだ。 
 森の奥には川があって、その向こうの花園に行きたかった。
 でも後ろからお前の俺を呼ぶ声が聞こえて、泣いている声が気になって、聞こえる方へ走ったんだ。
 森の出口に泣きながら光り輝くお前が居て、俺へと手を伸ばしていた。
 迷うことなんか無い。その手をしっかり握ると、光に包まれて、目が覚めた。
 起きた途端に全身に襲い掛かった激痛より、俺の手を握り締めて眠っていたオスカルの頬に残った、涙の痕のほうが痛かった。
 俺はお前を泣かせてばかりだな。
「ごめん」
 罵倒に謝って、更に強く抱き締め、オスカルの腕が背中に回るのへ微笑んだ。
 だが、いきなり後頭部を誰かに叩かれた。
「でっ!」
 誰だ殴りやがったのは?!
「……隊長は、お前が死んだ晩。今の二倍泣いた」
 ぼそっと頭の上から声が降る。
 首だけで振り向くと、アランが部屋から出ていく姿がみえた。ちょっと待て、フェルゼン伯爵の他にも部屋に居たのか?
 でっかい目を開いたまま、涙の止まったロザリーの肩を抱いて、ベルナールがクスクス笑いながらアランに続いて出ていく。きっと廊下に出たら爆笑するんだろうな。
 アランに殴られた後頭部がズキズキするのを感じながら、ぼんやり考えた。
「やぁ。夢から覚めたようだね」
 伯爵がベルナールと同じく、クスクスと喉で笑いながら俺の肩をポンと叩いて行った。
 ドアが閉まる寸前、案の定な爆笑が聞こえてきた。まだ泣いているオスカルを抱き締めて、ちょっとだけ途方に暮れる。
 アランの捨て台詞や、女医の説明が頭の中をぐるぐる回る。
 俺はテュイルリー宮広場で死んだ。
 ああ、そうだ。
 弾が肺を焼き、流れる血が命を体から奪っていくのを感じながら、お前の涙をどう止めようかって考えていた。
 大広間にあった鎧でも着とけば良かった、って冗談言ったら、笑ってくれないかな? なんてな。
 結局、泣かせっぱなしか……
「ごめん。オスカル」
 抱き締めて、髪を撫でて背中さすって。子供の頃からこれしかできないけど、泣き止んでくれよ。
「俺は、ここにいるから」
 もう、戻ってきたから。
「……お前みたいな嘘つき。もう知らん」
 涙声でしがみついてそれか?
「うん。ごめん。でも、本当に居るから」
 もう、絶対だ。
「私が死ぬまでじゃなかったしゃないか」
 死ぬまで傍に居る。そう誓ったな。『誰が』は明記してなかった。
「誓うよ。今度は、俺がお前を看取る」
 お前を置いてきぼりにした罪を償えるなら、お前を見送る苦痛を受けよう。
「本当にそうするのか?」
 俯いたままじゃなく、顔を見せてくれ。
「ああ、誓うよ。お前が死ぬまで側にいる。俺が誓いを守るって知ってるだろう?」
 見たかった青い宝石が濡れたまま、強い光を湛えて睨んでくる。
「私の命より、自分の命を優先するか?」
 それは無理だ。
「お前の方が大事だ」
 ああでも、そんな目で睨まれたら、俺は長生きを誓うしか無いじゃないか。
「絶対先に死なない。もう目も見えるんだし、今度は鎧でも着て身を守るよ」
 なるたけ笑って、それでもしっかり言い切ると、いきなり立ち上がったオスカルに胸倉を掴み上げられた。
「二言は無いな? 絶対だな?!」
 掴み上げられて膝立ちでばかりもいられない。ゆっくり立ち上がって、彼女を見下ろした。
「誓うよ。もう先に逝かない。何が何でも二人で生きて、お前を看取る。だからお前も、むちゃや生き急ぐのは止めてくれよ」
 俺の交換条件に、オスカルの唇がまたもやへの字になった。
「別に生き急ぎなんか……」
 腰を引き寄せて反論を封じる。濡れた頬をそっと拭いてやると、子猫のように目を細める仕草が愛しかった。
「胸を病んでいる事、黙ってただろう? 見えないお陰で誤魔化された俺の失策だがな」
 目を見詰め返して言ってやると、さっと頬に朱が差して、腕の中でジタバタもがきだす。
「お前だって! よくも目の事を隠していたな!」
 またもや殴ろうと握られる拳を、強く抱き締めて封じる。
「うん。ごめん」
 腕の中にすっぽり包んで耳元に囁くとぽかすか背中を叩かれた。さっきの一撃に比べたら、じゃれてるような可愛い攻撃だけどな。
「この馬鹿野郎」
 口をついて出てくるのはやっぱり罵倒だ、でも声に甘い響きが強くなった。気がする。
「痛み分けだオスカル。これからは何も隠さないだから、お前も言ってくれよ」
 お互いに隠した事で、お前に負わせた傷と痛みを忘れないでいよう。
「……ほんとだな?」
 殴っていた手が、そっと背中を撫でてくれる。柔らかな感触に、自然と顔が緩んできた。
「ああ。ほんとだ」
 誓いの言葉に替えて腫れかけた赤い目元に唇を落とす。迎える様に閉じられる瞼へ、できるだけ優しい口づけを送ろう。腫れた痛みと熱を、吸い取ってしまいたいから。
 左右の瞼に口づけ、ついでに赤くなった鼻の頭にも唇を送れば、お前がやっと口元を緩めてくれた。
「愛してる、もう離れないよ」
 碧い瞳に吸い寄せられる。
 俺の衝動を読み取ったオスカルが、ほんの一瞬揺れた瞳を閉じて、両手を俺の胸に沿わせて伸び上がってきた。
 濡れている様に艶やかな、赤い唇。小振りで柔らかくて小さな擱き火みたいに熱い、お前の……
「「「隊長〜〜〜!」」」
「わ!」
 背後で弾けた声の直後。
 俺の視界には天井だけが見えていた。
 あ〜司令官室でも偶にあったよな。ちょっと盛り上がって辛抱堪らず口づけようとしたところにノックがして、思いっきり突き飛ばされるの。
 顔を上げれば、赤くなってやたらに腕を振り回しているお前。ジャンやフランソワ達が群がってきて、盛んに綺麗だとか可愛いとか言い出した。
 オスカルが綺麗で可愛いのなんて、当たり前だ。ついでに照れ屋で意地っ張り、そこが愛しいんだけどな。
 さて、そろそろ来るぞ。
 壁際に避難して、さりげなく耳を塞ぐ。
 1.2.3……

「馬鹿者ーー!」
「「「「わ〜すみません〜」」」」

 俺がオスカルの傍に行けて、唇にありつけたのは。次の日の事だった。
 ものすごいおまけ付きだったけどな。





アンドレ編です♪
こういう事情だったのか、とうなずかされる展開。
でもやっぱりかわいく甘い…(^o^)。
こんな風に堂々と愛を交わす二人は、ベルファンの果てしない夢ですね。
熊野さま、ありがとうございました。      さわらび





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