占星術の学者達はその星を見て歓びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共に
おられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として
捧げた。
( 新共同訳新約聖書:「マタイによる福音書」:第2章10章〜11節 )
「 ………ん………? 」
頭の上に何かを乗せられたような感覚がして、ソファに腰掛けた状態の不自然な姿勢で船を漕いでいた
黒髪の男は、ふっとうたた寝から目覚めた。
「 …何だ、起きてしまったのか 」
彼が、光を失われていない右側の目を開けるとその真正面に、隠し事が露見してしまってばつの悪そう
な表情をして困ったような笑みを浮かべた、彼の愛して止まない、波打つ金の髪と何処までも深く深く
青い瞳を持つ、ついこの間、やっと念願かなって妻となってくれたばかりの彼女の顔があった。
「 やあ、お前が戻って来てくれるのを待っていたんだよ……やっと、俺の方の用事は済んだと思った
んだが、今度はお前がいないから此処で待っていた………ん?、どうかしたのか?……………何をそんな
に困った顔を…… 」
「 ああ、動かないでくれ、アンドレ…… 」
彼が上体を真っ直ぐに立て直そうとすると、オスカルは慌てて彼の首筋にしがみ付き、彼の頭の上を
しきりに両手で支えようとする。
「 何をやってるんだ? ……ってお前、なんで俺の頭の上に両手を」
「 動くなってば、落ちてしまうじゃないか! あ、こらアンドレ、手を離せ… 」
アンドレは彼女の声が少し怒っている様な響きを帯びているのを無視して、しきりに自分の頭の上で何
かをしている彼女の手首の片方を掴み、もう片方の手で頭の上に乗せられている物を掴み取った。
「 取っちゃだめだ、アンドレ!今夜はおまえが……」
彼女の制止の言葉が耳に届く前に、アンドレは自分の頭の上に乗せられていた物を目の前で翳した。
アンドレが目の前に翳したそれは……金の紙の冠。
「 ……ああ、そうか 今日は公現節だったのか 」
彼の顔には笑みが浮かんだ。だが、アンドレが彼女の方に目を向けると、オスカルは拗ねた表情をして
そっぽを向いている。
「 ……どうしたんだ? 」
「 ……アンドレの莫迦野郎、鈍感!…… 」
呟き声で罵る彼女の言葉に、彼は笑みを収め、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
その目には涙が浮かんでいる。
「 ……何故、泣いているんだ? 」
だが、オスカルは目から滴を流したまま答えない。
「 ………… 」
慌てて金紙の王冠を手に取ると、アンドレは長椅子の上で彼女の腰掛けている位置に身体をずらし、向
き合った。
「 ……今日が公現節だって事を忘れていたよ、ごめん、オスカル………でも、俺がいない間でもお屋
敷の中でお祝いはしたんだろう? これはその時の残りだったんじゃないのか? 」
「 ………残りなんかじゃない! 」
彼女の苛立った口調に、アンドレは訝しげに眉を顰めた。
「 …オスカル、俺は…知らない間に何かおまえを傷付けるような事をしたか? だから泣いてるのか?
……だとしたら……どうしたら良い? 教えてくれ、さっぱり見当が付かないんだ……… 」
アンドレは宥める言葉を口にしながら、オスカルを両の腕ですっぽりと包み込み、抱き締めた。
抱き締めるアンドレの腕の中で幸せに溶けそうになりながら、それでも数時間前まで彼の不在を我慢し
なければならなかった寂しさから来る恨み言が、口を付いて出て来てしまう。
「 ……ずっと、ずっと待っていたんだぞ……おまえが、早く勤務を終えて戻って来てくれるのを、な
のに……後で聞いたらおまえは私に黙って、他の日に片付けようと思ってた分の書類整理の仕事まで引
き受けて!! それも一番手間取る分を、しかも皆が寝静まってしまう位夜遅くまで掛かるって分かって
た分を! なぜ…………何でおまえ一人だけが自分から、そんな厄介事を抱え込む必要が…… 」
「 オスカル 」
彼女には分かっていた。その仕事が急ぎであった事を。
日数の配分を間違えて、一番時間が長く掛かる分の書類仕事を後回しにしていた。そのつけが、今日と
言う大事な、やっとアンドレと二人きりで一緒に居る口実を作ることの出来る、公現節の大切な日に回
ってしまった。年末のぎりぎりになって発見しこっそり隠しておいたのだが、誰よりも責任感強く彼女
の補佐と言う職務に忠実な彼に見つかってしまったのだ。
「 ……私が、今日をどんなに楽しみにしていたか、おまえには分からないだろう……?……やっと、
おまえと二人きりの時間を持てると思っていたのに………なのにおまえは、どうしても私だけを先に帰
らせようとして…… 」
アンドレはその、殆ど手付かずで放置されていた仕事を見つけてしまった以上、途中で放り出して帰る
訳には行かなかった。
オスカルは己の自業自得とは言え、アンドレが金剛石の如き責任感で仕事優先の態度を取る事に向かっ
腹を立てていた。
何とか宥めすかして先に帰るようにとオスカルを送り出したアンドレだが、今日が何の日か忘却の彼方
にあった彼はやっと、彼女が何故あんなに「 屋敷の仕事もある癖に、何故書類仕事位適当に見繕って
切り上げないのか 」と腹立ち紛れに言ったのか、合点が行った。
いささか遅きに失したかも知れないが…
「 ……だから私は、おまえが帰って来るまでは、この儀式をお預けにしていたのに…… 」
彼女の声はまだ拗ねていた。だが、その声には同時に甘えも含まれているのを感じ、アンドレは彼女の
顔を両手で挟むと、そっと唇を重ねた。
「 ……すまなかった 今日を、待ち望んでいたお前の気持に気づかなくて 」
彼の言葉に彼女も、その青い瞳にまだ涙を残したままだがやっと機嫌を治した。
「 折角フェーヴ※が当ったみたいなのに、王様のおまえがいないなんて嫌だからな 」
彼女のその言葉に、アンドレの顔には微苦笑が浮かんだ。
「 『 みたい 』って………まだ、ガレット※を食べてもいないのか? 」
「 おまえがいないなら、フェーヴを確かめる意味もないだろう? 他の者達には誰にも当らなかった
そうだ。後は私の分しか残ってないって聞いて、取っておいた 後でじっくり確かめたかったから 」
ふと、彼はある予感がして心に浮かんだ疑問を彼女に問うた。
「 オスカル、もしかして今、此処で確認…する積りで、取って置いた? 」
「 Oui.( そうだ )」
やっぱりな………
「 分かった ……さっきは夢中で気が付かなかったけど、俺がお前と一緒にこの部屋に入って来る前
、此処の出入口近くのテーブルの上に皿みたいなのが置いてあった…あれがそうなんだな 」
涙で濡れて赤くなった両目を擦っていたオスカルがこの夜初めて、笑みを浮かべた。
「 それじゃ、私がガレットを取って来てやる おまえは此処で大人しく待っていてくれ 」
「 おい、何もお前が行かなくても……」
オスカルは指を動かして数字の1の字を作り、その手を付きつけて人差し指を彼の唇に押し当てて口を
噤ませ、激しい燃えるような眼差しで彼の目を覗き込んだ。
その視線の気迫に、アンドレは一瞬圧倒された。
「 昼間はさんざんおまえに言いくるめられたからな、今度はおまえが私の望みを聞いてくれる番だぞ
……黙って、此処で待ってろ 」
「 ─── 」
根負けしたように彼が頷くと、オスカルは長椅子から身を翻して起き上がる。小走りで彼への届け物を
取りに行った。
( 何なんだ、一体── )
長椅子の上で、居住まいを正したアンドレは、昼間の彼女の不機嫌を解消する為とは言え妙な雲行きに
なって来たものだと思いながら、この状況を楽しんでいる自分が居る事に気づき、手にした金紙の王冠
を弄びながら彼女が戻るのを待った。
3分位は経過したかと思えるほどの間が有ってから、やっと目的の物を手にした彼女が姿を表した。
部屋から出た時の勢いの良さが嘘みたいに、今度は打って変わって何処と無く沈んだ様子で菓子を乗せ
た皿を持ったオスカルが、長椅子の中の彼の傍へ力無く歩み寄ってくる。その足取りも重たげだ。
皿を手にしたまま長椅子の上に上ると、オスカルは向き合えるように彼の隣に座った状態でアンドレを
真っ直ぐ見つめた。
彼女のその様子には、彼に対して困惑と謝罪を求める表情が浮かんでいる。
「 ……どうかしたのか? 」
彼女は肩を落とし、溜息をついた。
「 ……アンドレ、ごめん……… 」
「 ? 」
皿を両手に持って項垂れた彼女の顔を、アンドレは首をかしげて訝しそうに見た。
「 何か、困った事でもあったのか? 」
「 …………い 」
それはあまりにも小さな声で、彼女の言った言葉の最後の部分しか聞き取れない。
アンドレは彼女の口元に耳を近付けた。
「 聞えないよ……小さい声で良いから、此処に向かってはっきり言ってくれないか? 」
すると、今度は恥ずかしそうな口篭った低いかすれ声が、彼の耳を擽った。
「 ……フォークが、無い………出してあったんだけど、片付けられてしまったみたいで…… 」
途端に彼の口元が綻ぶ。
「 ……なんだ、そんな事か……だったら今から、俺が厨房に行って取って来… 」
「 私が行く! 」
彼女の強い口調に、アンドレは目を丸くした。
「 だってお前、場所……分からないだろう? だから俺が… 」
「 ある場所を私に教えてくれれば良い! 今日はもう、おまえに仕事はして欲しくないんだ 」
いつもなら小間使いを自分に任せてくれる分スムーズに事が運ぶのに、彼女はどうしても折れようとし
ない。
今夜は何故こんなにムキになるんだ?
「 オスカル………今夜は、どうしたって言うんだ? 」
アンドレが彼女の次の言葉を待っていると、オスカルはほんのりと顔を赤らめ、なおも深く項垂れてし
まった。
「 ……だって、このガレットはおまえに食わせてやろうと思って取って置いたのに…フォークが無か
ったら、それが出来ないじゃないか……今夜は、おまえの好きに過ごしていい時間を作って欲しかった
んだ、今日はおまえにいつも以上に負担を掛けさせてしまったから、こんな時位おまえに仕事の事を忘
れて欲しかった…… 」
「 !! 」
殆ど内緒話をする時の様な微かな声だったが、アンドレの耳はその言葉を聞き逃さなかった。
「 オスカル、今言った言葉、もう一度聞きたいな…今、何て? 」
「 ……何度も言わせるな、今の私はどうかしてる、昼間の自分とは違うんだ…… 」
彼女はなおも顔を背けようとしたが、彼の両手に頬を挟まれてしまい、そのまま目の前に彼の顔が来た
かと思うと、いつのまにか自分の額は彼の額とくっつけられていた。
「 アンドレ、放してくれ…… 」
「 だめだ 」
「 何故こんな事をする? 」
「 感謝の言葉を言わせて欲しいからだ 俺に食わせてやろうと思って取って置いてくれたのか、あ
りがとう 」
「 い、いや、礼なんて言わなくても良い……だから、もう放してくれ、フォークを取りに行きたいか
ら… 」
「 そんな物、無くても食える方法が有るよ 」
「 えっ? 」
目の前のアンドレの顔と、痛いほどの彼の激しい視線があることに動揺しながら、必死で彼とのやり取
りに集中しようとする。だが、頬が火照ってくるのがどうしようもなかった。
「 ガレット、おまえの手で俺の口まで持って来て、食べさせて……子どもみたいに 」
「 なっ……何を莫迦な事を!! 」
オスカルは呆れて思わず語気を荒げたが、彼の表情は真剣そのものだ。
「 ……本気で言っているのか? 」
「 もちろん本気だ 」
アンドレは彼女の頬を両手で挟んだまま、離そうとしない。
「 ……どうして? 」
「 俺に仕事の事を忘れさせたいんだろう? 」
「 無論だ! それは、私が今一番思っている事だ、でも…… 」
「 今夜俺に、好きに過ごしていい時間を作って欲しいんだろう? それがおまえの望みだって言って
たよな? 」
「 ああ、それもさっき私はそう言った!!…何が言いたいんだ、はっきり言え! 」
彼の、まるで追い詰めて来るような低く甘い声音が耳を擽り、オスカルは顔を背ける事はおろか眼を反
らす事すらできずに彼に両手で顔を挟まれたまま、互いの額を接触させ彼と見つめ合った状態で言葉を
交わしている。
「 俺に、好きに過ごしていい時間を作って欲しいと言ったな? では、夜が明けるまで、俺の好きに
させてくれ 」
「 ……アンドレ? それは、どう言う意味……んっ…… 」
オスカルが疑問を口にしかけて間もなく、アンドレの唇が彼女のそれを塞ぎ、彼の口付けはそのまま、
激しさを増して彼女を甘い眩暈の中へと追いやって行った。
( …アンドレ……アンドレ……こんなに激しい口付けをされては………おまえがこうして抱き締めて
いてくれなければ、私は正気を保っていられない……お願い、もう、放して…… )
やっと彼は唇を離し、解放されたと思ったのもつかの間、今度はアンドレに後ろから羽交い絞めに抱き
すくめられて、耳元へその甘い囁き声が注がれる……
「 オスカル、オスカル……お前に、甘えたい……お前と、好きなだけ甘えて時間を過ごしたい 夜が
明けるまで……ガレットも良いけれど、ガレットよりも甘いお前を味わいたい 此処で…此処でなくて
も、お前と二人きりで一緒に居られる場所なら何処でも良いから 」
「 ……アンドレ…… 」
「 俺には…お前と一緒に此処でこうして居られるのが夢のようで、夜が明けてしまったらまた、お前
が俺の手の届かない所へ行ってしまうような気がして、恐ろしいんだ……夢でない証しに、お前と一緒
にまた朝を迎えたい……一晩中、お前を離したくない、オスカル…… 」
うわ言の様に彼は彼女の名を呟き、彼女にしっかりと両腕を巻きつける。彼は何度も、彼女に口付けを
落とした。
「 ……私を味わうのを優先してくれるのは嬉しいけど……私が取って置いた方の物は食べないのか?
」
「 食べるよ……お前が、食べさせてくれ 」
「 ん…… 」
まだ少し羞恥が残る気持とは裏腹に、オスカルは頷いていた。
やっと、その出番が来たガレットを彼女は手にとり、下に皿を受けるようにしてアンドレの口の前に差
し出した。
「 ……アンドレ、口を開けて 」
彼が、彼女の言葉通りに口を開き、その菓子に一口かぶりつく。途端に彼の口の周りに、菓子が破砕さ
れて出来た屑が纏わり付いた。
彼は暫く目を閉じたまま、口の中に入れた物を反芻させていたが…ふっと右眼を開けた。
アンドレは長椅子の傍らにあるサイドテーブルに乗せてあった、白い小さなハンカチを手を伸ばして取
り、拡げたそれで包んだ右手を口元に押し当て、拭い取りながら口の中で感じた異物を舌で押し出すよ
うにして、掌の中に収めた。
オスカルは夢を見るような眼差しで、彼のその様子を瞬きもせず見つめている。
彼はその白い布に包まれた、自分が口にした菓子の中に入っていたフェーヴ、小さな陶器製の人形を彼
女の目の前に差し出した。それは、百合の花の形に似たジャルジェ家の紋章が型抜きされている、小さ
な豆粒程の大きさの板。
「 オスカル、Viva la reine(王后陛下万歳)※……でも、本来ならばこれはお前が口にする筈だっ
たのに 」
彼女は目の前に差し出された、白い布に包まれた王の証しを受け取るとテーブルの上でそれと引換えに
、金紙で出来た王冠を手に取り、彼の頭の上に乗せた。
「 アンドレ、Vive le roi(国王陛下万歳)※ 良いのだ、私はおまえに、今夜一夜限りで良いから
、おまえに王になって貰いたかった 本当は、私よりもずっと強い、私だけの、王に…… 」
そして私が本当に男として生まれていたなら、私はおまえとこうして愛し合う歓びなど知る事は出来な
かった。
私はもう、男として生まれていれば約束されていた栄光など得られなくて構わない。ただおまえさえ、
共に居てくれれば……やっと、分かった。私にとっておまえの居ない人生など、この金紙の王冠の様に
儚い物なのだと。
「 俺はこの世の果てまで、この命尽きるまで、お前の人生に全てを捧げる……俺の全てを 」
アンドレは、彼女の心を読み取ったかのように言葉を返した。
「 ……それでは、俺から王妃へ感謝と祝福の口付けを…… 」
アンドレは彼女のほっそりした白い手を取ると彼女を抱き寄せ、その手の甲にそっと口付ける。
オスカルも抗わずにその抱擁と口付けとを受けていた。
けれど、彼の口付けはそれで終わった訳ではなかった。
いつの間にか、抱き寄せたオスカルのブラウスの胸元をアンドレは大きく肌蹴けさせ、その剥き出しに
なった肩に、首筋に、胸元に……その口付けを追いかけるように、彼の大きな掌が、指先が、口付けを
落としたのと同じ場所を探って行く。
「 愛しいオスカル、お前を、お前だけを、愛している………お前の全てを 」
アンドレの両掌が彼女の胸元に差し込まれ、温かく柔らかな白く輝く二つの果実の輪郭を、彼の指先が
確かめるように滑る……
「 ……ア、アンドレ……何……を………だめだ、そんな……あ……… 」
抗う言葉を口にしては居るものの、彼の囁きと優しい愛撫とで身動きが取れなくなっていた。
自分の心の中にある『 女 』が……彼を求め始めていたから。
彼が欲しい。
「 今夜は、俺が王だ …王の願いを叶えておくれ、オスカル、俺の王妃……お前は俺のもの、俺だけ
のものだ お前が欲しい…… 」
《 ──おまえも同じ想いなのか 》
「 ……アンドレ……私の、アンドレ……おまえも、私だけのもの……おまえが欲しい 」
それ以上、アンドレは己を抑える積りは無かった。それは彼女も同じ。
頭に乗せられた金紙の王冠が床に落ちてしまった事にも気づかず、オスカルを抱き上げる。
彼女も彼に抱き上げられたまま、彼の首筋に両腕を絡ませ、彼を誘うように潤んだ眼差しを向けて口付
ける。
「 ……アンドレ、私を………愛して ……私だけを、おまえの全てで 」
「 お望みのままに……『陛下』 」
アンドレはオスカルを抱き上げたまま、奥の寝室へと繋がる扉に向かって行き、そのまま二人の姿は扉
の向うに消えた。
扉の向うで、鍵をかける音が聞え……それから暫くして、せつない悲鳴の様な、何度も男を呼ぶ女の声
が微かに、扉越しに途切れ途切れに聞え、やがてそれも徐々に吐息に変わって行き、静かになった。
部屋の中の、彼らが座っていた長椅子の傍の床には、忘れ去られた金紙の王冠が月明かりの光を受けて
煌き、ほのかに二人が居た場所を照らしていた──
《 FIN 》
※注釈
・E'piphanie(エピファニー)……カトリックの祭典の一つ。公現祭、主(しゅ)の公現〔幼子イエス
がベツレヘムで東方の三博士の訪問・礼拝を受けた事を記念する日で1月6日;子供はgalette de rois
(ガレット・デ・ロワ。公現祭を祝う為のパイ菓子)を食べ、そのパイの中に隠した※フェーヴが当っ
た者が王様、女王様になって遊ぶ風習がある。
・ガレット・デ・ロワ……「王様のガレット」の意。アーモンドパウダー、砂糖、バター、卵を使った
クリームを詰めて焼いた、公現祭の時にだけ食されるパイ菓子。
・フェーヴ……ガレット・デ・ロワの中に隠されたくじの事。フランス語でソラマメの意。昔はソラマ
メを実際に使用していたが、200年程前にフェーヴにソラマメを使うのは神への冒涜であると批判され、
その後幼児キリストや動物、紋章などを型取った豆粒大の陶器製の人形を使うようになった。
・「 Vive le roi.( 国王陛下万歳 )」・「 Viva la reine.( 王后陛下万歳 )」……………
どちらも共に、エピファニーでそれぞれ、王と女王になった者が交し合う挨拶の言葉。このフェーヴで
選ばれた王または女王は、お返しとして次回は自分の家のディナーに招待する事になっている。そして
、その時も再びガレット・デ・ロワを口にすることになるのが決まり。
参考文献: 「 新共同訳新約聖書 」(日本聖書協会)
「 プチ・ロワイヤル仏和辞典 」(旺文社)
「 フランスお菓子物語 」(東京書籍)
※このお話はもんぶらんさまの「黒い瞳亭」で公開されております
〜E'piphanie〜『戴冠と慈母の抱擁とを』と対になっております。
王冠をクリックしますとそちらをお訪ねできます。
ぜひあわせてお楽しみ下さいませ。