かつて近衛連隊長であったジェローデル少佐は、バスティーユ攻撃のあとの軍隊の再編成に嫌気がさして、周囲の忠告を一切無視して辞表を出し、以降、屋敷にて勝手に蟄居する日々を送っていた。
もちろん、当初は国王ご一家を命がけでお守りするつもりでいた。
近衛連隊長としては当然のことだった。
かの1789年7月14日、王宮で急遽開かれた会議で衛兵隊のダグー大佐と同席したとき、彼はジャルジェ准将の退役後の消息をそっと教えてくれた。
そして周囲に人が集まってくるとさりげなく離れていった。
そんな彼ともう少し話をしたくて、ジェローデルは会議が終わってから、大佐に近づき言葉をかけた。
裏切りものの部下たちからの報告を受けて、ご自身の心は揺らがなかったのですか、と。
すると彼は温厚な面影に似合わぬ毅然とした態度で答えたのである。
「我々は貴族です。それ以外のなにものにもなれません」
深い感銘を受けた。
ジェローデルもまったく同感だった。
だから貴族として、貴族の頂点に立つ国王を守ることを自身の使命と思っていた。
であるのに…。
バスティーュのあと、国王は軍隊を再編することに着手した。
正確には着手させられたのだが、とにかくフランス軍はこれまでのものと似て非なるものとなりはてた。
そして烏合の衆から成り立つ軍隊など、彼に言わせれば、決して軍隊と呼べる代物ではなく、あえて言うなら愚連隊であった。
誇り高い彼にとって、そのようなところに在職するのはあり得ない。
彼の美意識に反することこの上ないものだ。
すぐに身を引いた。
以来、混乱する祖国を後目に悠々自適に暮らしていたが、いよいよ国王一家がヴァレンヌに逃亡するという事件が起きてからは、自由に動くことが甚だ困難になった。
貴族が国の財産を持ち逃げしていくことを阻止するため監視が厳しくなったのだ。
ジェローデルの一族はとっくに亡命していた。
国王の弟であるプロヴァンス伯爵ですら、ヴァレンヌ逃亡とまさに同日に脱出し、兄と違ってすんなりと成功させ、無事にオーストリア領ネーデルランドにたどり着いていた。
残っているのが不自然な世相ではあった。
亡命先からは両親がたびたび手紙をよこし、早くフランスを出るよううながしてきていた。
心遣いをありがたく思いはするが、正直の所、うるさくもあった。
フランス貴族はフランスにいてこその貴族であり、その価値がある。
英国やオーストリアで領地も収入も役職もなく、いわば他国の貴族のお情けを受けて暮らしていくことには大きな抵抗があった。
そのため、ヴァレンヌ事件のあとも、ジェローデルはまだベルサイユに留まることを選んでいたのだ。
ただこの事件のあと、亡命脱出を試みる貴族が格段に増えたことは事実である。
ジャルジェ家ですらベルサイユを離れたとの知らせは、ジェローデルに少なからぬ衝撃を与えた。
ジャルジェ将軍は生粋の王党派でならした人物だったからである。
その人でもフランスや国王を見捨てるのか、という思いがあった。
だが、やがて風の噂で将軍が、ひとり屋敷に戻っていると聞いた。
夫人と、他家に嫁いだ娘たち一家は亡命したが将軍は戻っているらしい。
単身残ってるもの同士…。
ジェローデルは、久方ぶりにジャルジェ家を訪問してみようと思い立った。
婚約解消ののちは、一歩も足を踏み入れることのなかった屋敷である。
最後の訪問から2年以上の歳月が流れていた。
場所も構えもそのままだった。
門も玄関もすべては記憶のままだった。
庭の茂みからかの人が今にも現れそうな気がする。
そしてその背後にあの男の姿もまたありそうな気がした。
だが、それは決してないことだ。
かつて大勢の人間が働いていた屋敷はそっひりとしていた。
舞踏会で賑わっていたときが夢のようだった。
いつも訪問した際に通された将軍の客間に、今回も案内されしばらく待つよう言われた。
執事は変わっていなかった。
年老いてはいたが、相変わらず几帳面で礼儀正しく物静かだった。
やがて、やはり執事と同じように以前より少し年老いた風貌の将軍が入ってきた。
「ご無沙汰しております」
すぐに立ち上がり挨拶をした。
変わらず鋭い目をしながらも、その中に懐かしさをしのばせているのが感じられ、それがジェローデルの心を温かくした。
「まだ残っていたのか?」
「はい」
「近衛は辞めたと聞いていたが…」
「はい」
「そうか…」
詳しくは聞こうとしない。
執事がワインを運んできた。
「よく来てくれた」
「ご一家で亡命されたと聞いておりましたが、お戻りになっていると小耳に挟んだものですから…」
「妻はノルマンディーに出した」
「わたくしどもも、両親はすでにフランスを出ました」
「そうか。オーストリアか?」
「はい。恥ずかしながらバスティーユのすぐあとに出ましたので、まだそれほど東へ行くのが難しくはございませんでした」
「恥ずかしがることではない。先見の明があったということだ。ヴァレンヌのあとはかなり監視が厳しくなっておる。これから出るものは西へ行くしかなかろう」
「そのようでございますな」
「出る気はないのか?」
「まだ形だけでも王政が残っております」
「無惨なていたらくだがな…」
「時間の問題かと思いますが、巻き返しを計ろうというものもいないわけではありません」
「そういう動きに荷担しているのか?」
「いえ、わたくしはすでに隠遁者です」
「その若さで?」
「この時世では若さはかえって息苦しいだけです」
結婚もしていない。
子どももいない。
従って守るべき未来を描きようがないのだ。
「将軍こそ、なぜ戻ってこられたのですか?」
「元より出る気はない」
「では一旦出られたのは、奥方さまを逃がすためですか?」
「…」
将軍は押し黙った。
ジェローデルはその沈黙を、将軍の照れだと理解した。
亡く子も黙る鬼将軍が奥方のために動いたとは言えないのだろう。
それはそれで微笑ましく感じるのだが。
「会っておきたいものがいたのだ…」
「え?」
将軍のかすれた小さな声が、ジェローデルには確かに聞き取れた。
どなたに、と問うたが、将軍は黙って杯をかたむけるのみだった。
誰に会いたかったのだろう。
思いを巡らしたジェローデルの脳裏にダグー大佐の言葉が浮かんだ。
ジャルジェ准将はノルマンディーに行ったと。
そしてジャルジェ夫人たちもノルマンディーに行った。
ああ、そういうことか。
得心した。
将軍は娘に会いに行ったのだ。
懐かしい人。
心から愛した人。
どうしているのだろう。
体調は戻ったのだろうか。
「マドモアゼルはお変わりありませんでしたか」
勇気を振り絞り、しかしいたってさりげなく、なんの遺恨もなくただ安否を案じているという風を装った。
伏し目がちだった将軍がチラリと視線をジェローデルにうつした。
が、すぐに手元の杯に戻し、赤いワインに口をつけた。
「まあ、変わりなくと言えば変わりなく…だな」
実のところ、オスカルは結婚し出産し、激変の運命の下にいた。
とても変わりなくといえる状況ではなかった。
けれども、彼女自身の芯の部分はなにひとつ変わっていないように父の目には見えた。
双子の孫を目の当たりにしても、それは変わらなかった。
ただ、将軍の心境は、孫に会ったことで、大きく変わった。
というか、大きく安堵した。
妻も次女と六女のいる地であれば心配ない。
次女一家は、この動乱の時代にあってもきっと生き延びる力を持っていると確信できた。
そして末娘も、子を持ったことで、嵐の中に突き進むことはないだろう。
将軍が先祖から受け継いだもののうち、血筋に関してのみは確実に残せると信じられた。
それで充分だった。
それを見届けてベルサイユに戻ってきた。
沈黙を続ける将軍の穏やかな表情に、ジェローデルは詮索をやめた。
かの人はきっと元気にしているのだろう。
ジェローデルもまた、それで充分だった。
世相の混乱とは裏腹に邸内は静かな夜であった。
※ このお話は、本編では第二部「ジャルジェ一族の大移動」の次にくるもので、挿話シリーズ「シルフィード」の続編でもあります