ノルマンディー編について…お願い…

足かけ四年にわたって書いてきた本編が終了し、滞りまくった夏企画も何とか終わりました。
さあ、と思っていましたら、思わぬ取り込みにより、二週間も空いてしまいました。
その間、ホームページ更新はできませんでしたが、時間が少しあいたときにベルサイト巡りにいそしみました。
優しいお話、甘いお話、深いお話、それぞれの書き手の方のお人柄を感じさせる作品に触れる幸せは、言葉になりません。
この喜びは、ベルサイトに出会って以来、ずっと私の中で大きな位置を占めていて、日常の些末なことをしばし忘れさせてくれます。
思えばもう五年もどっぷりつかっているのです(^_^;)。

そして最近気づいたことがあります。
ベルばらの二次小説ならではの表現方法がある、ということです。
それは、○○視点と表現されているもので、登場人物の誰かが、私小説風、もしくは日記風に書いている、という形のものです。
確か井上靖著の「後白河院」がこの手法を採用していたと記憶しています。
後白河院という一人の人物を、周囲の様々な人に語らせて、その人間像を浮かび上がらせる、というものでした。
が、ベルサイユのばらの二次小説の場合は、この手法も使われていますが、もう一つ特徴的なことがあります。
つまり、オスカルさま語り、というものの存在です。
「後白河院」では、主人公の後白河院の語りはありません。
けれど、ベルでは、オスカルさま自らが語られるお話が多数存在するのです。

原作では独白という形で折々にオスカルさまの心情が語られますが、この部分を特化し先鋭化して、ひとつのお話としてまとめていく手法があちこちのサイトさまで見かけられます。
そこには、それぞれの方のオスカルさま像が強く反映されていて、とても興味深く、また新鮮で楽しいものです。
思春期に出会って、何度も何度も読み返して、自分だったら…、ということは誰しもが思い描いたはずです。
ですから、その人の心の歴史が、お書きになるオスカルさま像を通して浮かび上がってくるのです。
優しいオスカルさま、凛々しいオスカルさま、そして女らしいオスカルさま…。
たくさんのオスカルさまに出会えます。
原作が完結してから30余年がたっても、新しいオスカルさまに会えるのです。
なんてすてきなことでしょう。

で…、振り返って拙作を見ましたら…。
これがひとつもない…!
オスカルさまどころか、誰の視点のものもない…!
ガーン!と来ました。
私って、二次小説書いてるはずなのに…。
誰かの視点に絞る力量がないってことですね。
箱庭、もしくは舞台上で、勝手に人物を動かすような形でお話を書くため、誰かひとりが語り手になる、とか、誰かの目から見たオスカルさまの姿、というものが出てこないのです。
やたら登場人物が多いのもこのせいかもしれません。

これはつまり、私が一度も、自分が○○だったら…と思わなかったことの証明かと思います。
私は、悲劇の結末にショックを受け、どこで話をねじまげたらこれがハッピーエンドになるか、ということばかり、中学生の時からしつこく考え続けてきました。
そのため、オスカルさまになったつもりのお話、とか、アンドレから見たオスカルさま、とか、時に見かけるアランから見たオスカルさま、ジェローデルから見たオスカルさま、という風な発想がからっきしなかったのです。
ましてオスカルさまから見たアンドレなど、思いつきもしませんでした。

でも、だからこそ、私は他サイトさまのこういうお話が大好きで、のめり込むように読ませていただいているのだと思います。
今でこそ年齢を考えてしませんが、サイトにはまった頃は、何度夜更かしをしてしまったことか…。
だってオスカルさまの心情を、ご自身の口から語って下さるなんて、こんな贅沢はありません。
時に涙し、時に笑いながら、私はこの世の憂さを晴らすかのように、それぞれの人物になってベルの世界に浸るのです。
たぶん、自分自身は決してできないのですが、できないからこそ惹かれていきます。

ということで、ノルマンディー編も、本編と同様、私が勝手に作り上げた舞台の上で、大変手前味噌な話が進みます。
これも、基本は私の願望です。
みんなが幸せになってほしかった、という執念で、どんどんあり得ない設定を積み重ねていくことになると思います。
なんといっても二人は生きておりますし…。
お心に沿わないものとなりましたときは、本当に申し訳ありませんが、容赦なくプラウザを閉じられまして、二度と迷い込まれませんようお気をつけ下さいませ。
大変勝手を申しますが、なにとぞよろしくご了解下さいますようお願い申し上げます。

さわらび

2008年10月1日記