オスカルはこのところ、ずっと悩んでいた。
結婚してからはじめての彼のバースデーが近づいているからだ。
彼のバースデーというだけならば、すでに26回も迎えてきた。
だが、夫のバースデーというのは、今年がはじめてなのである。
…どうしたものか。
毎年、プレゼントには、それなりに趣向をこらし、真心をこめて贈ってきてはいた。
しかし。
今年のバースデーはいつもとは違う。
いや、違うべきだろう。違わなければいけないはずだ。
彼女はこんな使命感に燃え、毎日、時間があれば考えていた。
…何を贈ればいいだろうか。
26回も繰り返してきたのだ。
ありとあらゆるプレゼントを贈ってきた。
木彫りの兵隊、ナイフ、シャツ、ボタン、手袋…。
いつもと違う物を、と考えれば考えるほど、ありえない。
結婚式の前の休暇のように、ふたりだけで別宅で過ごすか。
それは名案に思われた。
できれば今度はパリではなく、ちょっとだけ郊外の、たとえばフォンテーヌブローの別荘とかで。
そうすれば新鮮さも味わえるし、なにより新婚旅行になるではないか。
胸が高鳴った。
あの、パリで過ごした素晴らしい休暇のことを。
二人が結ばれたあの日のことを。
思い出すだけで、胸が熱くなる。
またあんな、蜜月の日々を過ごすのだ。
もちろん、いまもずっと、蜜月ではある。
だが、やはり、ふたりきりとは違う。
仕事に追われ、帰宅が深夜になる日も多い。
何やかやと、家人に邪魔をされる日も多い。
名案だと、彼女は思った。
しかし。
ここまで日が迫ってきてからでは、休暇は取れそうになかった。
彼女はあえなくあきらめた。
**********************************************
…最近、彼女の様子がおかしい。
仕事中は変わりなく集中しているが、くつろいでいる時間、たとえば司令官室での食事の時とか、ショコラを飲んでいる時とか、眠る前とか…。
そう、つまり、ほとんど、自分とふたりきりの時。
彼女は、全然集中していない。
集中していない、というのも変な話ではあるが。
もともとふたりきりの時というのは、彼女にとって貴重な安らぎの時間であるのだから。
もちろん、彼は、誰よりも彼女が安らげることを望んでいるのだから、くつろいでいてくれるのなら問題はないのである。
しかし、そうではないのである。
心ここにあらず、なのだ。
結婚して以来はじめてのことである。
…もう、倦怠期がきてしまったのだろうか。
…考えてみれば、もともと、26年以上もずっと一緒にいるのである。
新婚とはいえ、関係でいうならば、すでに熟年夫婦もいいところである。
彼にしてみれば、20年以上も思い続けて、やっとつかんだ彼女の心と身体であるから、できることなら、この先20年くらいは蜜月でいたいくらいなのであるが。
しかし、もともとが仕事人間で、それ以外のことにはこの上もなく大雑把で、甘えたりすることの苦手な彼女が、この半年以上、普通(?)の新妻のように彼に甘え、蜜月を味わわせてくれたのだ。
そちらのほうにこそ感謝すべきなのかもしれない、などと、彼は少しさびしい気持ちを抱えながらも自分を納得させていた。
**********************************************
彼のバースデーの前日がやってきた。
彼女は悩みに悩んだ挙句、ある結論をだしていた。
それこそが、夫である彼に、いま贈るべき最高のプレゼントに相違ないと。
「アンドレ。今夜は何時頃へやに来られる?」
「え?…そうだな。いつもどおりの時間かな」
ここしばらく心ここにあらずだった彼女の瞳が今日は輝いている。
*********************************************
アンドレは約束どおりの時間に、彼女の部屋を訪ねた。
彼女はブランデーを用意していた。
しかも、テーブルに数え切れないほど並べてある。
…彼女の瞳が輝いていたのは、これなのか。
最近は、ワイン以外は飲まないようになっていた。いや、彼が飲まさないようにしていたというほうが正解だろうか。
ふたりだけでこれほど飲むつもりなのか。
こんなに張り切って、酒盛りをしようとするのは、フェルゼン伯が訪ねてきて以来である。
あの時は確かに大儀名文があった。
しかし、今夜はなんなのだ。
自分を酔い潰して、どうしようというのだ。
彼女が今夜これほど飲みたくなる理由も、特には浮かばない。
彼は固まった。
「アンドレ。おまえは35年前の朝に生まれたそうだな。ということは、あと7時間くらいで、本当のバースデーだ」
「うん…。で…? この酒は何だ?」
「察しがいいな。そうだ。だから、夜明けまで、ふたりきりで酒盛りだ」
「ば、馬鹿言え!…なんで、俺の誕生日に酒盛りなのだ」
「いいだろう。もう長いこと、酒らしい酒は飲んでいないのだ。大事な夫の誕生日を夫婦でふたりきりで乾杯しようといっているのだ。悪くはないだろう?」
「ちょ…ちょっと待て。何で俺が」
抵抗しようとするアンドレの首に、ふいに、彼女は両手を巻きつけ、くちびるを甘いくちづけでふさいだ。
ゆっくりと、彼のくちびるからはなれると、妖艶な微笑みを浮かべ彼を見上げた。
「私からのバースデープレゼントだ。明日は午後の会議に間に合うように出勤すればよいから、朝もゆっくりできるぞ。今夜はおまえがつぶれるまでつきあってやる。そして、私が酔ったおまえの面倒をみてやるぞ。…文句あるか?」
…何か勘違いしていないか。
彼女は確かに、何よりも酒盛りは楽しいかもしれない。
しかし、自分はそこまでではない。
すぐに反論しようとした。
しかし。
自分を見上げる、この妖艶な微笑み…。潤んだ瞳…。
これにはかなわないのだ。
この27年。
いつだって、この微笑みに、この青い瞳に、負けてきたのだ。
どんな理不尽な理屈にも、どんなにいやな役目でも。
これにかかっては、もはや、彼は能無しである。
結局、酒盛りとなった。
しかも、今夜は、彼女がやたらと彼に酌をしてくれる。
アルコールが入って頬が上気し、よりいっそう妖艶な笑みを浮かべながら、彼女は彼のグラスにブランデーを注ぎ込む。
…これが彼女が思いつく、精一杯の夫へのサービスなのであろう。
そう考えると、それはそれで、彼は彼女がまた可愛く思えた。
どのくらい飲んだのだろうか。
彼はついに、うとうとし始めた。
彼女はやさしく、彼の耳にささやく。
「寝台でゆっくり休んでくれ。明日はおまえの朝の仕事は休みにしてもらうように言ってある」
彼女は、大きな図体の彼を肩で支えるようにして自分の寝台に運んだ。
**********************************************
彼はふと、目が覚めた。
気がつくと、傍らに彼女がいない。
ぬくもりもない。
体を起こして、彼女の眠っているべき場所をみると、シーツにシワもない。
…彼女はまだ寝台に入っていないのか。
…まだひとりで酒盛りをしているというのだろうか。
彼はギョッとして、居間のほうに目を向けた。
居間からは明かりが漏れていた。
扉のすぐ近くの鏡に、彼女の姿が映っていた。
…彼女は酒など飲んでいなかった。
こちらから見える鏡のちょうど向かい側の鏡の前で、彼女は格闘していたのだ。
鎧のようなコルセットと…。
どうやら背中の紐の最後の部分を締め上げるところにきているようだった。
…一体、今何時なのだろう?
サイドテーブルの時計に目をやると6時をさしていた。
…ということは、彼女はあのコルセットと3時間以上は格闘していたということか。
…そういうことだったのか。
彼は納得した。
彼女が酒盛りをして彼を酔い潰してしまいたかった理由。
一度しか身に着けたことがないコルセット。
毎日身に着けている貴婦人でさえも、人の手を借りずに着ることはかなり難しい鎧のようなコルセット。
それを彼女は、たぶん、誰にも気づかれずに、彼が眠っている間に着てしまいたかったのだ。そう、正確にはコルセットではなくドレスというべきだろうか。
眠っている間でも、彼女の動きに敏感に反応して起きてしまう彼に気づかれないように、職務以外のことで策を練ることの苦手な彼女が、一生懸命考えたことなのだろう。
背中の紐を手に悪戦苦闘している彼女を、思わず手伝いたくなってしまうが、それはご法度であろう。
彼はどうあっても、彼女の仕度が整うまで眠っていなければならない。表面上は。
やっと、コルセットが整ったようだ。
彼女は、ホーッと息を吐き、その場に座り込んだ。
よほどくたびれたのだろう。
4〜5分ほど休憩したあと、彼女は気を取り直して立ち上がり、ローブを引きずってきた。
オフホワイトのレースがふんだんに使われたローブであった。
彼女は、そのドレスを広げたまんなかに立ち、しゃがみこんで袖をとおし立ち上がる。
鏡に映る彼女は天使に見える。
ドレスの背中のボタンを留めるのに苦労していたが、たぶんコルセットの紐を締め上げて結ぶ作業で慣れたのか、さほど時間はかからずにドレスを身に纏った。
…すばらしくきれいだ。
オフホワイトのドレスは透き通るように白い彼女の肌に映え、黄金の髪が豪華に輝く。
アンドレは息をのんだ。
…もう、起きてもいいだろうか。
居間にいる彼女の様子を窺いたくて、へやの入り口の鏡をみつめながら、かといって決して物音ひとつたててはならないうえに、体を寝台から起こしてもならないという状況はけっこう辛いものがあった。
しかし、まだであった。
彼女は髪をまとめ始めた。
これがまた、難関であった。
いつもどおりの髪型でさえ、かならず彼の祖母かほかの侍女に巻いてもらっている彼女が、自分で髪を結い上げるというのには、かなり無理があった。
何より、彼女は元来不器用である。
30分以上が経過した。
ついに彼女は、うんざりした表情を浮かべ、鏡の前に座り込み、ため息をついた。
しばらく鏡の中の自分をみつめて考えこんだ挙句、彼女は思いついたように髪をゆるやかにうしろに結んだ。耳のところに少し髪を残し、結び目に白い薔薇をさす。
そして、紅をひき、彼女は満足そうに鏡に向かって微笑んだ。
…なんと美しいのか。
まさにアフロディテだ。
白いドレスと白い薔薇が彼女のブロンドをよりいっそう引き立たせる。
彫刻のように美しい白い顔に、引かれた紅が際立った。
なんて艶やかなのだ。
あまりの美しさに、彼はただ、見とれてしまっていた。
彼女は寝室のほうへ振り向くと、こちらに向かって歩き出した。
アンドレはあわてて寝ているふりをする。
…しかし、どうしたものか。
ドレスを着た彼女を見た瞬間の反応はどうすればいいのだろうか。
これほどの美しい姿をいきなり見るのと、仕上がっていくのを見ていたのとでは、反応が違うはずだ。
だが、驚いたふりをするというのは、案外難しいものだ。
こういうことを考えていること自体、すでに純粋な驚きからは遠ざかっているといえるだろう。
頭の中でぐるぐると考えがまわっているうちに、オスカルが寝台のそばまで来てしまっていた。
「アンドレ。アンドレ。起きろ」
…動けない。まだ心に準備ができていない。困った。
オスカルは寝ているアンドレの耳元にくちびるを近づけた。
そして、彼の黒髪を愛しそうになでて、ささやいた。
「アンドレ。…愛してる。この世に生まれてきてくれてありがとう」
彼の心臓は飛びはねそうになった。
自分が寝ていると思ってささやく彼女が愛しい。
感激と罪悪感で頭の中が爆発しそうだ。
アンドレは目を開けた。
「オスカル」
「アンドレ。誕生日おめでとう」
アンドレはじっと女神のような彼女をみつめた。
「…きれいだ。オスカル。ものすごく、きれいだ」
彼女は頬を染めた。
アンドレが上体を起こして彼女にくちづける。
「…アンドレ。おまえ、気がついてたのか?」
「…ごめん。おまえが苦労してドレス着てくれてるから、寝てるふりをしてないとと思った…」
「どこから、起きていたのだ?」
「ローブを着る頃くらいから…」
「…馬鹿野郎」
彼女は恥ずかしそうに、そして少し不服そうにうつむいて、彼の腕をつねった。
「ごめん…。オスカル。あんまりおまえが美しすぎて、ごまかせなかったよ」
「…アンドレ。…前とどっちがいい?」
「え?」
「…だから、その…、前にドレスを着たときと…」
「え…?…ああ」
アンドレは思い至った。
彼女は、自分のためだけにドレスを着ようと思ってくれたのだ。
以前、一度だけドレスを着たのが、フェルゼンのためだったからか。
そのことを彼が知っているからこそ、彼女は彼のためだけに、苦労して一人でドレスを着てくれたのだ。
「オスカル…。もちろん、この前も今も、比べようがないほどすばらしくきれいだけど、でも。今日のほうがもっとすばらしいよ。アフロディテが嫉妬するほど…美しい」
彼女は微笑んだ。
「結婚してからはじめてのおまえの誕生日、どうしたらいいかずっと考えていたのだ。
夫婦になってはじめての私の誕生日は、私たちは結婚式をあげることができた。だから、おまえの誕生日にも、何か特別なことをしたかったのだ。絶対に、生涯忘れられないような思い出深いものに…。それで、気がついたのだ。結婚式に私はウエデイングドレスを着ていないことに。…だから、おまえの誕生日に、私の花嫁姿を……」
ここまで言うと、彼女は口ごもってしまった。
…たぶん、『花嫁姿の自分をプレゼントしたい』と、言いたかったのだ。
アンドレはたまらなく愛しくなって、寝台から立ち上がると、彼女を抱き上げた。
「アンドレ…!」
愛しい夫に横抱きにされて、彼女はうれしそうに、夫の首にしがみついた。
「オスカル…。愛してる。もう、どうしようもないほど愛してるよ」
彼が甘いくちづけを贈る。
「…気に入ってくれた?」
花嫁が恥ずかしそうに夫の耳元にささやく。
「最高だ!!…オスカル。こんなすごいプレゼントないよ。俺は世界一の幸せ者だ!」
そう叫ぶと、もう一度くちづけた。
「…オスカル…。どうしよう。…ひとつ、困ったことになった」
「え…?」
「…あまりに、おまえが美しすぎて、愛しすぎて…、すぐに、脱がしたくなってしまったよ」
「…馬鹿」
FIN
留香さまが、私の願望の設定のままに、アンドレの誕生日のお話を書いてくださいました。
サイト開設日がアンドレの誕生日、という私にとりまして夢のような素敵なプレゼントでした。
そしてアンドレのためのドレス姿…彼にとってもこれ以上ない、夢のようなバースデープレゼントであった
にちがいありません。
幸せな二人の姿が、私の心も幸せにしてくれました。
皆さまにもその幸せを味わっていただけたら、と思い、アップのお願いをいたしました。
留香さま、本当にありがとうございました。 さわらび