真夏の奇蹟

1787年のノエル以後、アンドレは確固たる決意のもと、夜間警備の際の要注意事項に、アランたち兵士だけではなく、フェルゼン伯爵の動向も加えることにした。
つまり、伯爵が王妃との逢い引きのために庭園をうろつきそうなときは、出来る限り鉢合わせするのを避ける、ということである。
うっかり出会ってぶつかってしまったら、悲劇を通り越して喜劇にしかならないことを、彼は過去の二回の入れ替わりで学習した。
オスカルには悪いが、アンドレは以前親しくしていた近衛兵に頼んで王妃の予定表を手に入れ、いかにも王妃が伯爵と密会しそうな日の目星をつけると、その日の夜勤からオスカルと自分をこっそりはずした。

その効あって、年明け以後は、すこぶる平穏無事に過ぎていた。
もともとオスカルの行動予定はすべてアンドレがたてていたから、この秘密裏の画策がオスカルにばれる心配もなかった。
ただでさえ、衛兵隊での毎日は厳しい。
銃を売り払って生活費に代えるものや、隊で支給される食料をため込んで家族にまわすものなど、近衛時代には考えられない兵士たちの厳しい状況が、大貴族でしかも女性であるオスカルに対して、反抗と対立のまなざしという形で提示されてくるのは、致し方ないとはいえ、過酷な実態だった。
そのような折りに、いかに親切善良なる人物とはいえ、関われば災難以外引き起こさない御仁と、好きこのんで接触する馬鹿はいない。
オスカルの護衛として、これは必要不可欠な任務であるとアンドレは認識していた。

そして、兵士たちとオスカルとの溝がようやく埋まり始めた夏、アンドレは近衛兵からの情報入手を停止した。
いつまでも迷惑をかけられない、との判断だった。
さして詳しい事情も教えず、ただ昔のよしみでスパイまがいのことをさせていたのだ。
アンドレはこれまでの恩義に心からの礼を述べ、少なからざる心付けを近衛兵に渡した。
信じられないノエルの出来事以来すでに半年以上が経過している。
あれは悪夢であって、現実のことではない、という気すらしてくる昨今である。
悪夢といえば、今となっては、ときどきかすんでくる右目のほうがよほど恐ろしい問題であり、アンドレはひとり形の見えない不安と戦う日々だった。

視力の落ちた目に夜勤はきつい。
物体の形状や色彩が、闇の中ではただでさえつかみにくいところに、ときどきではあるが突然世界が真っ暗になってしまう。
こうなると、もはや何ものをも識別出来ない。
アンドレは、ごくたまにくるこの恐怖の暗闇を決して大げさにとらえず、ただ軍務の疲れが弱った視力を襲っているだけで、時間がたてば良くなる、と思うようにしていた。
季節が冬から春に移り、夏にかかると、夜の時間は目に見えて短くなる。
これはありがたかった。
夜勤とはいえ、日がしばらく残り、さらに夜明けは早く、暗闇の期間が短い。
アンドレが名残惜しげに西空に残る夕日を、ありがたくいとおしく眺めることが増えた。

その日も、オスカルが詰め所に引き上げたあと、アンドレは早々に東に姿を現した朝日がうれしくて、しばらく庭園に残っていた。
兵士との関係は改善され、もはやアンドレがそばを離れても襲われるようなことはない。
アンドレは、わずかな明かりを感じはじめる夜明け前の時間を、ひとり堪能していた。
するとガサガサとしげみが揺れた。
極度に嫌な予感がした。
こういう場合、こういう第六感は大抵当たる。
今回も大当たりだった。
現れたのは、予想通り、同性から見ても見目美しいフェルゼン伯爵だった。

ただ、今回、伯爵は地面の上にいた。
前回のように壁面にへばりついてはいない。
ということは落ちてくる心配もない。
アンドレはとっさの中でこれだけのことを観察し把握し、落ち着いた態度で、一歩下がって頭を下げた。
「や…あ、アンドレ。久しぶりだね。元気だったかい?」
涼やかな声が、若干のとまどいを含みながらも、アンドレに向かってうれしそうに発せられた。
「はい、おかげさまで…。」
「このようなところで会うとは奇遇だ。ひとりなのか?」
「はい。」
「オスカルは?」
「先に詰め所に引き上げました。」
「そうか。」

つつっと伯爵がアンドレににじり寄ってきた。
「偶然とはいえ、ここで君にあえたのはまさに神のお計らい以外のなにものでもない。」
大仰な言い方である。
「君には以前、随分と迷惑をかけた。」
さすがに自覚はあるようだ。
「その際、きっとつぐないを、と想いながら、果たせずにいたのだが…。」
何もしないで下さい。
というか、何かをしようとしないでください。
アンドレは言えない言葉を飲み込んだ。
「ようやくその日が来たのだ。」
「?」
「アンドレ、わたしはついに見つけたのだ。」
「何を、ですか?」
フェルゼン伯爵は、世のすべての女性を悩殺する必殺のほほえみをたたえてアンドレを見つめた。

「ロザリー嬢そっくりの金髪の美女だ!」

アンドレは目をまんまるにしたまま確実に三歩はあとずさった。
何かをしようとしないでください!
彼は心の中で悲鳴をあげた。






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