真夏の奇蹟
2
フェルゼンの言葉に嘘はなかった。
もちろんフェルゼンは嘘をつくような人間ではないから、あの夜の言葉がきっと実行されるということは、アンドレも予想していた。
けれど、できるなら、今回ばかりは嘘であってほしかった。
何かをしようとしないでください。
それが、もし直接言うことが許されるならば、アンドレがフェルゼンに、声を大にして言いたいおよそ唯一の言葉だった。
あれから程なく、フェルゼン伯爵家の執事がジャルジェ家の執事宛に文書を届けてきた。
文面は、要するにお見合いの仲介だった。
当家の侍女と貴家の使用人との縁談を進めたいという主人の意向にぜひ賛同の上、善処願いたいというものである。
フェルゼン伯爵家は外国人とはいえ、故国スウェーデンでは元帥も務める有力貴族である。
そこの当主自らがまとめたいとの意志と聞けば、ジャルジェ家の執事としても動かないわけにはいかなかった。
ジャルジェ家の執事ラケルは、さっそく、将軍にその旨を伝え、一切をラケルに委任するという言葉を得た。
次にラケルは夫人の了解を取り、最後にばあやに話を持って行った。
本来なら、アンドレの直接の主人であるオスカルに、一番に伝えるべき話であったが、とにかく多忙のようで、夜も戻らないことが多く、ために物理的にオスカルに知らせることができなかったのだ。
もとより使用人の私事である。
だんなさまの了解さえ得ていれば、オスカルには事後承諾でもよかろう。
ラケルにはオスカルがこの縁談に反対を唱えるとは到底思えなかったのである。
オスカルが戻らない、ということは、当然アンドレも戻らないのと同義語だから、この話はアンドレの耳にも届かないように思うが、こちらは執事にすれば、目下のものである。
いつ何時呼び出してもかまわない。
夜更けに帰宅したアンドレは、執事室に呼びつけられ、疲労困憊の身で、フェルゼン伯爵のありがたいご意向を聞かされたのだった。
「大変もったいないお話ですが、なにとぞ執事さんのほうからお断り申し上げてくださいませんか。わたしには今のところ、結婚など到底考えられないのです。」
若い者というのは、こういう話が来れば、一旦は断るものである。
待ってましたとばかりとびつくのははしたないことなのだ。
だが、アンドレはすでに30代も半ばにさしかかり、若い者というには少々苦しい域に達しつつある。
執事は、温厚かつ厳然と、会いもしないでお断りするなど無礼千万である、と訓示した。
対面の日程や次第についてはおってこちらから連絡する。
その際には、どのような事情があろうとも、その場に顔を出すように。
この話についてはおまえの祖母も大変乗り気であり、生きている間にひ孫の顔が見られるならば、フェルゼン伯爵を恩人どころか聖人とも思うとさえ言っている。
老い先短い祖母のことを思うならば、必ず言いつけを守るのだよ。
長らく面倒を見てもらった執事の思いやりある態度に、アンドレは返す言葉がなかった。
事ここにいたって、アンドレは完全に窮した。
四面楚歌とはこのことである。
いや、実は三方はふさがっているが、一カ所だけあいているところがある。
オスカルである。
将軍、奥さま、おばあちゃんの三方がふさがっても、オスカルが、この話を聞き、何を馬鹿な!と一括してくれれば、全てはおしまいだ。
執事も、話題にもしないであろう。
だが、もしオスカルが「いい話ではないか。」と言ったら…。
そう思うと、アンドレは、どうしてもオスカルに伝える気にならなかった。
必然的に、司令官室でのアンドレの顔色は暗さを増し、ため息の回数も倍増した。
しっかりこなしているつもりでも、仕事の処理速度は落ち、ミスもわずかながら犯した。
このままいけば、早晩オスカルに気づかれてしまう。
それだけは避けたかった。
大きな失敗を犯し、理由を問い詰められ、縁談の話を白状させられたあげくに、「案外いくじなしだな。がんばれよ。」
などと言われてしまった日には、自分は今後何のために生きていけばよいのか。
かりにオスカルに気づかれなかったとしても、お見合いの日が設定されれば、さすがに隠せるものではないのだ。
このままではいけない。
ことが表に現れる前に、カタをつける必要がある。
アンドレはついに意を決した。
もともとがフェルゼン伯爵の勘違いから出た話なのだ。
ならばその勘違いを訂正し、見合いの話をなかったものにしてもらえばよい。
自分とロザリーとは、フェルゼンの考えるような間柄ではなく、ましてベルナールと決闘に及んだわけでもない。
このあたりのことを詳しくフェルゼンに言うことはできないが、とにかく、自分がロザリーのような女性を好みとしている、というのは大いなる誤解なのだから、その一点だけでも語りに語り尽くして、理解を得る必要がある。
アンドレはまさか自分から連絡をとるとは思いもしなかった、どちらかというと避けに避け続けた相手に対して、面会を希望する手紙をしたためた。
オスカルに内密にする以上、時間は夜、それも自分ひとりが夜勤に出る日を選んだ。