真夏の奇蹟

10

フェルゼンと別れたアンドレはそっと裏口から廷内に戻った。
厨房をのぞいたが、祖母の姿はなかったので、久しぶりに祖母の部屋へ向かった。
縁談がつぶれたことを話すためだ。
だが、すでに執事が話をしてくれていたようで、揺り椅子に腰掛けた祖母は、口では残念だったと言いながらも、どこか喜んでいるようでもあった。
孫の結婚は熱望するけれど、やはり自分のよく知った娘を、との思いがあったのだろう。いくらオスカルの親友の紹介といわれても、見ず知らずの女というのには、抵抗があって当然だ。
執事から聞いていたほど祖母が乗り気ではなかったと知ってアンドレもホッとした。

「フェルゼンさまは、お帰りになったんだね?」
「ああ。今、お見送りしてきた。」
「なら、オスカルさまのお部屋にショコラをお持ちしておくれ。おまえ、今日は散々だったそうじゃないか。大層お怒りでいらっしゃったよ。縁談も落ち着いたんだから、せいぜいご機嫌を直していただくようがんばるんだね。」

ありがたい忠告だった。
アンドレは、急いで祖母の部屋を出た。
考えてみれば、この忙しいときに手足ともいうべき従僕が、一日そばを離れ、しかもあろうことか代わりにあのフェルゼンがついたのだ。
思い出すのも忌々しい、フェルゼンから聞き出した失態の山…。
オスカルの癇癪が限界に達しているだろうことは容易に想像できた。
アンドレは厨房ではなく自室に戻ると、戸棚の奥から、とっておきのワインを引っ張り出した。
これは、オスカルの機嫌をとるための最終手段だった。
アンドレは経験から、こういう場合、美酒がもっとも効果的だと知っている。
だから、料理長のギイに頼んで、良いものが手には入ったら分けてもらい、いざというときのために隠し持っているのだ。

案の定、険しい表情でアンドレの入室を許可したオスカルは、彼の手の中にあるものを見て、一瞬で頬をゆるめた。
「良いものを持っているではないか。」
うまい具合にかかってくれそうだ。
「ああ、詫びの品だ。」
いたって殊勝な態度でアンドレはブツを差し出す。
「それは見事な心がけだな。」
嬉しげに言いながら、オスカルはあっという間にアンドレから瓶を奪い、しげしげと眺めている。
効果覿面、猫にマタタビ以上だ。

「今日はすまなかった。」
一切の弁解をせず、アンドレは潔く謝罪した。
具体的に突っ込まれると、どんな失敗をしたのか詳細まではわからないから困るのだ。
そのためにはひたすら低姿勢を貫くしかない。
冷や冷やしていると、オスカルがにっこり笑った。
「わびはもういいから、早く開けてくれ。」
心はすっかり極上のワインに奪われている。
やはりこいつには酒が一番だ、とアンドレは胸をなで下ろした。

「うまいな。」
グラスに軽く一杯注いだものを、一気に飲み干して、オスカルが笑った。
アンドレもつきあって少し口にする。
「確かに…。ギイの目は確かだ。」
料理長に賛辞を送った。
「そうか、ギイが選んだのか。さすがだな。」
オスカルは、二杯めを自分でそそいだ。
「せっかくだからゆっくり味わえよ。」
つい、いらぬ世話を焼いてしまうアンドレにオスカルは思い出したように言った。
「そんなえらそうな口が聞けるおまえか?アンドレ、今日の失態はひどかったぞ。本当にフェルゼンごっこをはじめたのか、と心配したではないか。」

オスカルの他意のない言葉に、アンドレは、ゴホゴホとむせた。
気管に入ったワインが体にしみるようだ。
「大丈夫か?おまえこそせっかくのワインを肺にいれるなどもったいない限りだぞ。」
「そ、そうだ…な。ゴホっ…。わ、悪かった。だが明日は大丈夫だ。いろいろとすまなかった。」
なにひとつ自分のせいではないのだろうが、オスカルの仕事が順調に進まなかったとしたら、やはりそれはすべて自分のせいだとアンドレは思った。

「まあいい。あんな状態のおまえとでは仕事にならんからな。おかげで早く帰る決心がついて、いい休養になった。」
オスカルは、アンドレにとって泣けてくるほど有り難い解釈をしてくれた。
「そうだ。いつも忘れてしまうから、今日はおまえの誕生日の前祝いということにしてやろう。アンドレの誕生日に乾杯!」
オスカルの言葉にアンドレはびっくりしてオスカルを見た。

国王陛下の誕生日は8月23日。
その祝賀行事のため、前後は慌ただしい日々が続く。
毎年そうだ。
そしてすべてが終わり、ホッと一息ついた頃、自分の誕生日が過ぎていることに気づくのだ。
それをオスカルは覚えていてくれた。
そして、こんな時に思い出してくれた。

オスカルにとっては、飲む理由にさえなれば、何でもいいのかもしれないがそれでも充分だった。
戸外では、いつまでも低く残っていた太陽がようやく隠れ、完全な闇夜となっていた。
夏の夜は短い。
けれど、今夜はこうして二人で差し向かいで過ごせた。
これもひとえにフェルゼンのケガの功名だ。
アンドレは、オスカルに聞こえないよう、小さい声でそっとつぶやいた。
「フェルゼン伯爵に乾杯!」







         −完−








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