真夏の奇蹟
9
最初は宮殿の庭園の壁から落ちたフェルゼンが、下にいたアンドレにぶつかった。
それで入れ替わってしまったから、戻るときも、同じ時間と同じ場所を選んだ。
二回目のときは、フェルゼンがわざわざ同時刻を選んで同所にアンドレを呼び出し同じようにした。
だから戻るときも、オスカルさえ同行して、同所同時刻にフェルゼンが壁に上って飛び降りた。
だが、今回の入れ替わりは違った。
もしものことがないよう、夜の庭園とはいえ、アンドレは場所も壁際ではなく、時間もずらしてフェルゼンを呼び出した。
そしてフェルゼンは上から落ちては来なかった。
並んで立っていて、たまたまはずみで頭がぶつかっただけである。
なのに、入れ替わってしまった。
もはや二人は、時間と場所を選ばず、頭をぶつけるだけで入れ替わるらしい。
とんでもなく恐ろしい話だが、今だけはその安直さが好都合だった。
今から二人仲良く庭園まで出かける必要がないからだ。
頭をぶつけるだけなら、この厩舎でも充分。
ここで入れ替わって、フェルゼンは自邸に、アンドレは自室にそれぞれ戻ればよいのである。
そして、今後、二人は半径2メートル以内には絶対近づいてはならない。
どんな拍子でぶつかるかしれたものではないし、そうなった場合、安易に入れ替わってしまうのだ。
「アンドレ、いいか。これからは決してわたしに近づくな。」
フェルゼンが貴族らしく尊大に言った。
そうするために必死でしたよ、とアンドレは言い返しかけて、口をつぐんだ。
夜警のシフトまで変えてあわないようにしていたんです。
だのに、あなたが迷うから…。
アンドレは歯ぎしりしたい思いだった。
だが、ふと気づいた。
今回は迷ったのは関係ない。
ロザリーに似た女を見つけたフェルゼンは、遅かれ早かれ、アンドレに連絡をとってきただろう。
わけもわからないまま、フェルゼン家からジャルジェ家に縁談を持ち込まれていては、一層話がややこしかったにちがいない。
むしろあそこでであったればこそ、激しい勘違いに基づく縁談の理由も理解できたのだし、こちらからフェルゼンを呼び出すという、身分違いのこともできのだ。
とすれば、あながち、あの晩の出会いは悪いだけではなかったのかもしれない。
入れ替わったおかげで、すんなり話を水に流せた。
どこからも、文句の出ようのない解決方法だった。
フェルゼンは、自邸に戻ってから、女を見る目がないと爺からお小言を食らうだろうが、それはもはやアンドレの知ったことではない。
ジェヌビエーブにまとわりつかれてしばらく苦労するかもしれないが、この人のことだ。
案外何も気づかずに過ごすのではないかとすら思える。
なんと言っても王妃さま以外はどうでもいい人なのだから…。
アンドレは、静かに気持ちを切り替え、フェルゼンの忠告を黙って聞いた。
それから、今度は自分の方からぜひとも聞いておきたいことを口にした。
「今日のオスカルの仕事はどうなりましたか?」
尊大だったフェルゼンの態度が一変した。
「…。」
「フェルゼン伯爵。あとあとのためにぜひお聞きしておきたいのですが…。」
「まあ、その、なんだな…。いつも通りだ。」
「それは、いつものわたくし通りということでしょうか?それとも…、いつもの伯爵通り、ということでしょうか。」
聞きにくいことではあったが、これを聞いておかねばたちまち不都合が起きる。
まったく嫌なことを言う、とばかりにフェルゼンが顔をしかめた。
「わたしがしたのだから、わたし通りにきまっている。」
そんなに開き直らなくても…と思いつつ、アンドレはすべてを察した。
相当ミスを犯したのだろう。
取り返せる範囲ならよいのだが…。
「大変申し訳ありませんが、朝からの一連のことを教えてください。」
フェルゼンは渋々、語り始めた。
近衛に使いに行ったこと。
だが、行っただけで何をしていいかわからなかったので、そのまま帰ってきて、オスカルにどやされたこと。
オスカルが作った質問書を持って再び近衛に走ったこと。
だが渡しただけで返答をもらわずに戻ってきて、さらにどやされたこと。
近衛との往復だけで午前中が終わり、ついに昼食にありつけなかったこと。
午後からはその返答をもとに幹部会を開いたが、当然アンドレが作っているはずの警備原案がないため、急遽オスカルが作成することになり、一端集合した幹部に解散を命じる失態を演じたこと。
あげればキリがない数々のアクシデントにアンドレは天を仰いだ。
ため息も出なかった。
主人の尻ぬぐいは使用人の仕事。
とはいえ、フェルゼンは自分の主人ではない。
だが、こうなってしまった以上仕方がない。
きっとフェルゼンは指揮官としてはすばらしい能力を持っているのだろう。
人には適材適所があるということを痛感する。
アンドレは腹をくくった。
「ありがとうございました。随分ご苦労をおかけしたようで…。」
「まったく…。この間も言ったが、オスカルの人使いの荒さは尋常ではないな。君が元気に生きているのが驚異だ。」
アンドレにすれば、激しい勘違いをものともせずに優雅に生きているフェルゼンのほうがよほど驚異だった。
二人は腹に力を入れると、向かい合い、勢いよく互いの頭をぶつけあった。
厩舎の片隅でゴチーンと鈍い音がした。
馬たちがいぶかしげに見守っている。
やがてフラフラと立ち上がった男たちは、各自の姿をゆっくりと確認すると満面の笑みをたたえ、がっちりと握手した。
そして、すぐに離れた。
絶対に近づいてはならない。
近づけば…。
正確に2メートルの間隔を確保してからフェルゼンが言った。
「アンドレ、このたびの縁談は残念だった。きっと気に入ると思ったのだが…。」
フェルゼンは相変わらずの独善的妄想の延長線上にいる。
「フェルゼン伯爵。お心は大変ありがたいのですが、どうか二度とわたくしに関わろうとなさらないでください。万一ということもございます。ご厚意の結果がこのたびのようなことでは、互いにたまったものではございません。」
アンドレは、思い切って言上した。
素直で単純なフェルゼンはなるほど、とうなずいた。
「償いに、と思ったのだが、二人が関わると碌なことにならない以上、いたしかたない。アンドレ、悪いが、理想の女性は自分で探してくれ。」
フェルゼンは、すまなさそうな顔で、馬上の人となった。
「あなたがすでに見つけておられるように、わたしにもわたしの理想の女性はいるのです。ですから探す必要はありません…。」
アンドレは心の中でそっと返答し、それから笑顔でうなずいた。
「どうかお気をつけて。」
アンドレは、馬が門を出て見えなくなるまで見送った。