ジャルジェ家からの使いがアンドレであったのは好都合で、これで事情を聞き出せると喜んだのもつかの間、話の内容は言語不明瞭、意味不明。
なんと使えない男をジャルジェ家では雇っているものよ、と爺は嘆息も出ないほどがっくりと肩を落とした。
まさかその使えない男がご主人さまとは、爺に想像できるはずもない。
役に立たなかった男が屋敷を離れてから、陽もどっぷりと落ちてしまうと、老人の不安はついに限界を超え、いよいよ医師を呼ぼうと決心し、一旦主人の寝室から出た。
念のため、フランス人ばかりの使用人の中で、もっとも長く屋敷に奉公している女を部屋に残し、万が一にも主人が目を覚ましたならば、即刻連絡するようきつく言い渡しておいた。
秋の風が心地よく窓から入り、眠る男の頬を撫でていく。
最近ぐんと涼しくなったから、窓を開け放して寝たことはないのに、昨夜はうっかりしたのだろうか。
随分と眠った気がする。
そしてたくさんの夢を見た。
楽しいもの、つらいもの、嬉しいもの、苦しいもの。
入れ替わり立ち替わり違う世界が展開され、どれもはっきりとは思い出せない。
けれども、ひとつだけ、しっかりと記憶に残っているものがあった。
それは恐ろしい夢だった。
自分がオスカルを殺そうとしていたのだ。
ついにオスカルの結婚が決まったと聞かされ、気づいたら毒薬を手にしていた。
どうやってそんなものを入手できたのか、さすが夢らしく、そのあたりは完全に抜け落ちているが、ただ、随分とめかし込んだ自分が、オスカルにワインを持って行くと、彼女が書物を手に泣いていたのは、しっかりと目に焼き付いている。
驚く自分に、彼女は昔語りを始め、二人の来し方を思いつつ、先は長くない、と予言する。
今まさに命を奪おうとしている相手に、なんの警戒心ももたず、思いをさらけ出してくれている。
そして、自分は思い出したのだ。
かつてルイ15世によって断罪されようとした乳兄弟を命がけで助けてくれた彼女のことを…。
そしてそのときの自分の誓いを…。
夢の中の自分は、瞬間的に、彼女のグラスをはね飛ばし、ついでに彼女もはね飛ばし、二人してもんどり打って床に倒れ込んだ。
毒殺計画は未遂に終わった。
自己嫌悪の中で、自分は堅く堅く誓っていた。
命つきるまで彼女を守るのだ、と。
そのあとの彼女の様子も自分のことも、記憶にない。
もしかしてそこまでの夢だったのかもしれない。
彼は、そっとまぶたを開いた。
ああ、まぶしい…。
光がいっぱいいっぱい差し込んで、またすぐに目を閉じた。
が、何か大きな違和感を感じて、彼は再び目を開けた。
光は、燭台のものだった。
朝ではなかったのだ。
そしてここは自分の部屋でもないのだ。
光は枕元のろうそくのもので、たった今、見知らぬ女が火をともしたところだった。
ああ…、そういうことか!
彼は得心した。
入れ替わってしまっているのだ。
あの、善良で勇気ある、オスカルの思い人と…。
夢の回想では、オスカルとともに友の従僕のために国王に命がけで助命嘆願してくれていた。
気高い異国の貴族の男。
あわてて身体を起こそうとして、けたたましい女性の声に思わず動きを止めた。
「まあ!まあまあ!」
その声の方に首をまわすと、ほんの今までそこにいたはずの女性はすでに後ろ姿となり、廊下へ飛び出して行ってしまた。
あれは、確かフェルゼン家の侍女だ。
それが主人の寝室で付き添いをしていたということは、相当長時間気を失っていたことを示している。
いったいどれくらい?
見当もつかず途方に暮れていると、まもなく血相をかえて爺が飛び込んできた。
アンドレはゆっくりと尋ねた。
フェルゼンらしさを装わねばならない。
「今、何時だ?わたしはどれくらい眠っていたのか?」
爺はめがねをはずし、あふれる涙をぬぐいながら、しっかりと答えた。
「午後8時でございます。いつから眠っておられたかは確かではありませんが、おそらく夕べ、ジャルジェ家からご帰宅の馬車内でお休みになったままかと…。」
「午後8時!そうか…。では丸一日たっているのか。」
フェルゼンと車内で入れ替わろうとして立ち上がり、頭を強打し、その直後に再び揺れて打ったことで、結局フェルゼンの姿のままになってしまっているのだ。
「わたしは一人ではなかったはずだが…?」
「はい。ジャルジェ家の使用人とご一緒でした。」
「彼は?」
「車内では二人そろって眠っていたそうです。それで御者がとりあえず衛兵隊の本部に担ぎ込みました。ハンスさまはお眠りになったままでしたが、彼の方は朝方には快復したらしく、オスカルさまと自邸に戻ったようです。」
フェルゼンは起きて動いている。
それを知ってアンドレは安堵した。
それなら、オスカルにだけでも、自分がアンドレ・グランディエではないと告げているはずだ。
まさか、彼だって、もう従僕としての生活を送る気はなかろう。
あんなに懲りたのだから。
それならば、オスカルの方は安心だ。
自分の変わりをフェルゼンがどの程度務めてくれるかは定かではないが、アンドレと信じてフェルゼンと接することさえしなければ、日常にさほどの破綻はない。
「さきほど、そのアンドレ・グランディエが、使いとして参りました。」
爺は淡々と事実を伝えたが、聞かされたアンドレは思わず、えっ!と声を出した。
「ここにお預かりした手紙がございます。」
「オスカルからか?」
「はい。緊急では、と思いやむを得ずわたくしが開封させていただきました。しかしどうにも意味不明で…。使いのものにも見せましたが、わからない、とのことでした。」
アンドレは爺から手紙を受け取った。
「G線が切れたままだ。早く直してくれ。」
短い文章だが、アンドレにはすぐに理解できた。
オスカルが呼んでいる。
間違いなくアンドレ本人を呼んでいる。
戻らなければ…。
たとえ、舞踏会であろうと、婚約者が決定しようと、オスカルが呼んでいるならば帰らなければならない。
命ある限り彼女を守ると誓ったのだから…。
アンドレはゆっくりと起き上がった。
back home bbs next
−10−