語るべき何物も持たず、もちろんアンドレを連れて帰るわけでもなく、フェルゼンはジャルジェ邸に立ち戻った。
オスカルの予想では、この帰ってくる男は、当然本物のアンドレのはずで、彼が帰宅次第取りかかるのは疑いもなくG線を修理することであるはずだった。
ところが、彼は木で鼻をくくったような報告を告げただけだった。
そしてそれはオスカルを打ちのめした。
「フェルゼン伯爵はまだ意識が戻っていなかった。御者が連れて帰ったまま、自邸で眠っている。だから手紙の返事もない。」
「眠ったままって…。どうして?おまえはこんなにピンピンしてるじゃないか?」
アンドレ姿のフェルゼンに思わず声を荒げてしまう。
この問いは確か爺にもされたが、わたしにわかるわけがないじゃないか、とフェルゼンは心の内で舌打ちしつつ、あくまでアンドレらしく答える。
「どうしてだろうな。打ち所が悪かったのかな。」
彼としても元の姿に戻れないのは困るので、真剣に心配しているのだが、オスカルからすれば、なれっこないのにアンドレになったままの芝居を続けた上に、のんきに構えているようにしか見えず、自然と視線が厳しいものになる。
だまされたふりをしているだけで、目の前のアンドレがアンドレでないことなどとっくに見抜いているのだ。
ばれていると気づかないのはよほど鈍感ということだ。
だがフェルゼンはそういう男だ。
オスカルも最近少しずつわかってきた。
いい奴なのだが…。
「様態はどうなんだ?苦しそうだとか、落ち着いているとか、何か情報はないのか?」
朝の仮眠室での寝姿を思い出す。
あのときはてっきりフェルゼンだと思っていた。
不思議な気持ちで寝顔を見ていた。
あれがアンドレだったとは…!
「執事によると、いろんな表情を見せるらしい。笑ったように見えるときもあれば、とても苦しんでいるようなときもあり、それは見ている夢のせいではないか、と執事は言っていた。」
結局フェルゼン自身の観察による情報ではなく、優秀な執事である爺の意見を述べているだけだが、実はこちらの方が案外当てになりそうだった。
たくさんの夢を見ている。
つまり眠っているのだ。
それならば、いつかは覚める。
覚めてくれるはずだ。
オスカルは自分に言い聞かせた。
「わかった。世話をかけたな。わたしはもう休む。おまえも引き上げていいぞ。」
オスカルは、男にくるりと背を向け寝室に向かった。
「ああ。おやすみ」
フェルゼンも今回は素直に従う。
そして扉まで行ってから、ふと思い出したように聞いた。
「礼服の試着はしたのか?」
前回に懲りたのでドレスとは言わずにおいた。
「うむ。よくできていた。」
落ち着いた返事が寝室の入口からした。
「そうか。よかったな。明日の舞踏会、おれにできることがあれば何でも言ってくれ。」
フェルゼンの言葉にオスカルは少し驚いたように足を止め、振り返った。
そして、しばらくフェルゼンの顔を見つめ、フッと小さく息を吐くと、頭を振り、黙って寝室に消えた。
フェルゼンは廊下に出て、正面の階段を降りた。
いつも清潔な邸内が明日の舞踏会に備えて一層見事に掃除され、古さの中に漂うピンと張り詰めた空気が、屋敷の主のたたずまいを思い起こさせる。
それにしてもオスカルがあんなに気遣わしそうにするとは意外だった。
彼女の自分への思慕はまだ続いているのだろうか。
見抜かれているとは知らないフェルゼンは、当然ながらオスカルが案じているのはフェルゼン本人だと思っている。
それをありがたくも思い、不思議にも思いながら、ホールに出て使用人棟の方に向きを変えたところで、玄関を激しくたたく音がした。
「フェルゼン家のものです。至急オスカルさまにお取り次ぎを…!」
耳を疑ったが、大きな音に奥から侍女が走ってきたので、二人して顔を見合わせながら扉を開けた。
息を切らした男は、間違いなく自分の御者だった。
「夜分失礼いたします。オスカルさまに、主人から手紙を預かって参りました。なにとぞお取り次ぎを…。」
侍女がオスカルさまは?という顔でフェルゼンを見る。
オスカルの動向は誰よりもアンドレが知っているはずなのだ。
「さっき休むといって寝室に引き上げたばかりだから、取り次いでもかまわないだろう。」
自分でも完璧だと思うほどアンドレらしく答えた。
「そう、ではお呼びしてくるわ。アンドレ、こちらをそこの客間に御案内して。」
侍女は簡単な指示だけして階段を駆け上がっていった。
フェルゼンは御者を先導して客間に入った。
御者は目の前の男が実は自分の主人だとは知るよしもないので、遠慮無くついてくる。
が、客間は真っ暗だった。
御者を暗い室内に待たせたまま、あわてて厨房に火種を取りに行き、なんとか燭台に灯をつけていった。
御者の目が心なしか冷たい。
使用人というものは、他家の使用人には厳しい目を持つものである。
御者から見たジャルジェ家の従僕は、間違いなく落第点だった。
隅々の燭台に火がともり、ほんのりと明るくなってきたところに、オスカルが駆け込んできた。
部屋着の上から上着を羽織っている。
他家の使用人に会うため、急いで着たのだろう。
御者がすぐに立ち上がる。
挨拶を受けるのももどかしそうにオスカルは手紙を受け取った。
あっという間に開封し、一読すると、にっこりほほえんだ。
「伯爵は目覚められたのだな?」
「はい。つい今し方。ご自分でお返事をお持ちしたいとおっしゃったのですが、まだ幾分本調子ではないご様子でしたので、執事さんがとりあえずお手紙だけ書くよう強くおすすめして…。」
爺ならばきっとそうしただろう。
とにかく無事に目覚めたのなら、今夜帰ってこなくとも仕方ない。
「そうか。よかった。起きたのか…。」
なぜ涙がにじんでくるのわからない。
ただ安堵の気持ちがさざ波のように押し寄せてきた。
「あの…、伯爵はなんて?」
フェルゼンが恐る恐るという顔で尋ねてきた。
あの手紙を見て、フェルゼンの姿をしたアンドレがどんな返事をよこしたのか。
気になって仕方がない。
「いや、あえて見せるほどのことではない。明日のことだ。」
オスカルはつれない。
「え…と、あの、実は意味がわからないから、とおれも執事さんから手紙を見せられたのだけど、G線ってなんのことだったんだ?」
フェルゼンはしつこく食い下がる。
オスカルは苦笑を禁じ得ない。
この期に及んでまだアンドレを演じるつもりらしい。
それならば、だまされてやろうではないか。
ことさらに明るい声を出してやった。
「昔、フェルゼンとちょっとしたことがあったのだ。だが、どうやらあいつも忘れているらしい。意味がわからないから明日直接聞きに行く、と書いてきた。」
オスカルの答えにフェルゼンはホッとした。
そうか、やはり昔のことで、わたしが忘れているだけか。
明日アンドレが来て尋ねてくれるなら、同席していればいい。
思い出した時点で、こっそりアンドレに答え方を教示してやろう。
まったくオスカルにはこういう子どもっぽいところがあって困る。
突然昔話をされてもわかるわけはないのだ。
余裕を取り戻したフェルゼンを横目で見ながら、オスカルは大事そうに手紙を折りたたみ、上着の内ポケットにしまった。
本当の文面はこうだった。
往信と同じ、短く簡潔だ。
「わかった。明日直してやる。」
これこそアンドレだ。
二人の間の言葉はいつも最小限でいい。
それですべてが伝わる。
明日には戻れるほど快復したということだ。
オスカルはわざわざ玄関まで出て御者を見送った。
「くれぐれもお大事にとお伝えしてくれ。」
それは一緒にいた侍女が驚くほど優しい声だった。
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