その日、オスカルは衛兵隊に泊まり込んで三日目になろうとしていた。
舞踏会は二日後である。
さすがに一度帰ってこい、と屋敷から使いがきた。
父からのものなら無視したが、今回は母からだった。
まともに食べていないのではないかと案じている。
どうか舞踏会の前に元気な顔を見せてほしい。
切々とつづられた手紙に負けたオスカルは、アンドレを屋敷に戻した。
ジェローデルが来ていないことを確認させるためである。
もし来ていれば、帰らない。
そっと様子をうかがってこい。
その指示を受け、アンドレは渋々屋敷に戻った。
案の定、将軍の客間に明かりがともっていた。
これはジェローデルが来ている証である。
アンドレは誰にも気づかれないよう、再び戸外に出ようとした。
だが、めざといマロンに見つかった。
「アンドレ、ちょうどよいところに戻ってきたね。奥さまにお茶をお持ちしておくれ。居間にいらっしゃるから。」
有無をいわさずトレイを渡された。
「だんなさまの客間ではないのかい。」
いつもジェローデルの接待は夫婦でしているはずである。
「ああ、今夜のお客様はフェルゼン伯爵だからね。奥さまはご同席なさっていないんだ。」
フェルゼン…。
思いがけない名前だった。
いったい何しに来ているのだろう。
あんなに近づかないよう誓い合ったのに。
呆然としているアンドレにばあやの叱責がとび、あわてて夫人のもとにお茶を届けると、彼はできうる限り急いで本部に戻ろうと走った。
ジェローデルにも会いたくないが、フェルゼンには別の意味でやはり絶対に会いたくない。
厨房を走り抜けながら、急用を思い出した、と祖母に声をかけ、アンドレは勝手口から外に飛び出した。
そして厩まで来たところで、出会い頭に強烈な衝撃を受けた。
ああ…。
なぜここに…。
ドサリという音が二回聞こえた。
一度は自分が倒れる音。
そしてもう一度は相手が倒れる音。
星が脳内を飛び交う経験もすでに何度目だろう。
しばらくしてアンドレはようやく目を開けた。
確認するまでもなく、自分の姿は貴族の豪華な衣装に包まれていた。
そして目の前で自分が倒れていた。
「フェルゼン伯爵…。」
力なく呼びかけた。
「アンドレ…。どうしてこんなところに…。」
相手も力なく答えた。
「それはこっちの台詞です。なんだっておいでになったのです。」
「招待状をもらったからだよ。舞踏会の…。」
「それは明後日でしょう。」
「勘違いしたのだ。返事の締め切り日と当日を…。」
がっくりときた。
方向音痴だけではなかったのか。
文章もまともに読めなかったのか。
よくもそんなで、王妃との密会ができるものだ。
まともに待ち合わせなどできないのではないか。
恨み言が止めようもなくわき上がってきた。
頭はたまらなく痛いが、背に腹は代えられない。
もう一度強打して元の姿に戻り、オスカルに伝えなければならない。
ジェローデルは来ていない、だから屋敷に帰れると…。
アンドレはフェルゼンににじり寄った。
だが、フェルゼンは後ずさった。
「もうちょっと待ってくれ。今、打ったばかりだ。こんなに続けては死んでしまう。」
「いいえ、待てません。わたしは急いでいるのです。」
アンドレがもう一歩踏み出したとき、厩の方から人影が近づいてきた。
「ハンスさま。そこにおいでですか。大きな音がしましたが、大丈夫ですか。」
フェルゼン家の御者だった。
彼は舞踏会に参加するフェルゼンを乗せて意気揚々とジャルジェ邸に到着したのだが、まるっきり静かなたたずまいに驚き、とりあえず門の前で馬車を止めたところ、折しも宮廷から戻ってきた将軍の馬車と鉢合わせしたのだ。
まさか、今日が舞踏会だと思ったとは恥ずかしくて言えなかったが、衣装を見れば一目瞭然である。
舞踏会のために張り込んだが災いした。
将軍はせっかくだから、と廷内に招き入れてくれた。
そこで御者は、ジャルジェ家の厩番のもとを訪ね、時間をつぶしていのである。
「あ…ああ。大丈夫だ。」
アンドレの姿をしたまま、フェルゼンが答えた。
「なんだ、アンドレ。帰ってたのか。」
御者の後ろから、ジャルジェ家の厩番がやってきた。
ああ、万事休す…。
アンドレは唇をかんだ。
ここで実は俺がアンドレだ、と言ったところで決して信じてはもらえないだろう。
「アンドレは今からもう一度衛兵隊に戻るそうだよ。」
仕方なくアンドレは、フェルゼンの代わりに答えた。
フェルゼンが、そうなのか、という顔でアンドレを見ている。
急いでアンドレは目配せし、話を合わせるよう懇願した。
「あ、ああ。そうなんだ。」
とりあえずフェルゼンが口裏を合わせてくれた。
「ちょうどいいから、うちの馬車で送ってやろう。アンドレ、さあ乗りたまえ。」
とにかく二人きりになって、頭を打って姿を戻したい。
そのためには、フェルゼンの馬車に乗るのが最善だ。
アンドレはとっさに判断した。
そして半ば強引にまだ頭をさすっているフェルゼンを馬車に引っ張り込んだ。
ご苦労だなあ、と厩番のジャンが門を開けながら車内に声をかけてくれた。
「ありがとう。」
鷹揚に会釈だけすると、フェルゼンは馬車の窓をしめた。
「さあ、変わりましょう。」
アンドレが身構えた。
フェルゼンの顔に恐怖の色が浮かぶ。
「まだだ、まだだめだ。見てくれ、こんなにはれ上がっているんだ。」
「いいえ、待てません。なんとしても戻るのです。」
「では、せめて馬車が宮殿に着く直前にしてくれ。頼む…。」
拝み倒されると、気の優しいアンドレはつい折れた。
実際、自分も痛いのである。
「わかりました。では馬車が宮殿の門を入ったら、お願いします。」
「わ…わかった。」
フェルゼンは頭をさすりながら、ようやくホッと一息つき、深々と座り直した。
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