日が高くなり、もうとっくにろうそくの灯を落としてからも、二人の意識は戻らなかった。
軽く考えていた自分が今となっては恨めしい。
すぐに医師を呼ぶべきだったのだ。
こんな非現実的なことはきっと信じてもらえないだろうし、もしも入れ替わっていないのなら、大騒ぎをするぶん、恥をかくだけだ、そう判断して、寝かせておくことにしたのだが、二人揃って一向に目覚める気配がない。
フェルゼンはともかく、アンドレがこの状態というのは、オスカルにとって恐ろしく不便だった。
思いがけず徹夜したにもかかわらず、朝のショコラが出て来ない。
さらには、本部の会議に出席するための資料もそろわない。
もちろん、移動のための馬車の手配もできていない。
自分でできないことではないが、してもらうことに慣れきってしまっていた。
オスカルはツカツカと長椅子に近寄り、眠っている男の頬をはたいた。
もしかしたらアンドレではないかも、という気がしないでもなかったが、もはや限界だった。
「起きろ!アンドレ、ショコラだ…!」
夜明けのショコラなくしては一日が始まらない。
まことにショコラの威力は偉大である。
突然パチリと男の目が開いた。
「オスカル…。」
目の前の怒った顔を見て、正しく名前を呼んだ。
「気づいたか、アンドレ。ショコラだ。眠くてかなわん!」
「ああ、わかった。ショコラだな。」
ゆっくりと長椅子から立ち上がると、男は扉に向かって歩き始めた。
「どこへ行く?」
「えっ?だってショコラだろう?厨房に行ってお湯を沸かさなければ…。」
オスカルは破顔した。
これはアンドレだ。
この自然な返答、自然な動き。
以前、フェルゼンがアンドレになってしまったときは、決してこんな風ではなかった。
よかった…。
自分でも驚くほど深い安堵がオスカルを包んだ。
アンドレの姿が消えると、オスカルはすぐに仮眠室に入った。
アンドレが気づいたのだから、フェルゼンも起きているかもしれない。
だが、青白い顔の貴公子は、静かに眠っていた。
「フン、優雅なものだな。」
優しい顔の優しい男。
再会を待ちわびた男。
こんな風に寝顔を見つめることになろうとは、思いもよらなかった。
かつての自分ならどんなに心ときめかせて、その枕辺に座ったことだろう。
不思議なものだ。
「伯爵はまだ眠っておられるのか?」
背後で、ショコラをトレイにのせたアンドレが声をかけてきた。
黙ってうなずき、湯気の立つカップを取りあげた。
「ちょっと味が薄いな。」
チラリと疑念が脳裏をかすめる。
「あまり濃いのは身体によくない。」
即座に断言された。
「そういうものか…。」
そう言いながら、オスカルの顔に自然と笑みがこぼれる。
この返答なら大丈夫だ。
疑念は一掃された。
「アンドレ、フェルゼンとの間に何があったのだ?御者は事情がわからないようで困り果てていたぞ。」
仮眠室を出ながら、さりげなく探りをいれてみる。
アンドレの表情は変わらない。
「伯爵は内密の用件でジャルジェ家に来られたようだ。そこに俺が戻ってきて、もう一度本部に行くと言ったら、ご親切にも送ってやろうとおっしゃった。そしてその途中で馬車が大きく揺れてしたたかに頭を打ってしまった。記憶はそこまでだ。あとはショコラまで覚えていない。」
「頭を打ったのなら、大丈夫だったのか?」
「何が?」
「何がって…。その…、二人は入れ替わらなかったのか?」
「入れ替わる?どういう意味だ?」
「いや…。いい。違うのならいいんだ。」
「なんだ、また俺が伯爵と入れ替わったとでも思ってるのか?」
逆に尋ねられて、オスカルは黙ってアンドレを見つめた。
「あんなこと、そうそいう頻繁に起きてたまるか。」
こうも真顔で断言されると、何となく以前の入れ替わり自体がなかったことのように思えてきた。
あれは神のいたずら、あり得ない奇跡。
たびたびあるわけはない。
「今日の予定を調整したい。」
頭を切り換えて、仕事に話を移した。
「いや、オスカル。今日はこれでおしまいだ。今から帰宅する。支度をして待っていろ。馬車を回してくるから…。」
「なんだと…?」
「明日は舞踏会だ。奥さまがそれはそれは案じておられる。」
「仕事を放り出すわけにはいかん。心配しなくても今夜には戻る。父上の対面もあるからな。すっぽかすつもりはない。」
「いや、だめだ。帰って一度身体を休めるんだ。」
有無を言わせぬ口調である。
「おまえは疲れている。そんな状態だと、ろくな判断ができない。いいな。馬車を回してくるまでに支度を済ませておくんだぞ。」
ここしばらく鬱状態だったはずのアンドレが、いたって冷静かつ穏やかに、オスカルの身を案じている。
「わかった…。だが、隣で寝ているフェルゼンはどうするんだ?」
「彼の御者がいただろう。そいつに言い含めておけばよい。気がついたに連れて帰るように…と。言われなくても、こんなところで目覚めたら、きっと屋敷に帰るさ。」
「そうか…。そうだな。」
アンドレに説教されているのが、妙に心地よく、オスカルは素直に従うことにした。
アンドレが馬車を準備している間に、ダグー大佐を呼び、予定通り今日と明日は欠勤することを告げた。
それから、部下たちへの指示も忘れず伝えた。
アンドレが普通に戻っているのだ。
ならば自分は何でもできる。
おまえいなければ、ひとりでは何もできないと、かつて伝えたことがあった。
ロザリーがベルナールとともに去って行った時だ。
それは裏返せば、彼がいれば何でもできるということなのだ。
明日の舞踏会はある意味戦闘だ。
オスカルは軍服の襟元をグイッと引き上げた。
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