貴婦人達を飾る宝石が、数多の灯火を弾いて煌めく。
 ホールに満ちる楽曲に合わせて、華開く様に揺れるとりどりのドレス。
 脂粉の匂いすら纏う気取った紳士なる輩。香水がきつ過ぎて有毒な煙幕になっているかの如き貴婦人らしき群。
「……夜目が利かなくなっているようだ」
 黒と金のローブを纏う黒髪の貴婦人が、優雅に広げた扇の陰で呟いた。
「確かに、記憶に有るより暗いな」
 貴婦人に腕を貸してエスコートする金髪の紳士は、灰色の瞳を細めてホールを見渡す。
「蝋燭とランプの光がこれだけあっても、こんなに暗いものなのだな。随分贅沢な目になったものだ」
 僅かな苦笑の直後、不快そうに緑の目が細められる。
「それにこの臭いだ。堪らん。よくこんな中で平気だったな」
 ぶつぶつとぼやく貴婦人の手を軽く撫でて、紳士はホールの反対側を目で示した。
「気をつけろ。近衛連隊長閣下のお出ましだ」
 貴婦人の深い緑の瞳が扇越しにホールの入り口を見れば、鮮やかな緋色の軍服を纏う人物が豪奢な金髪を靡かせ、小柄な貴婦人を伴って入ってくるところだった。
「ロザリー孃も一緒か」
「ああ、黒髪の従僕殿もな。おやおや、貴族の若殿張りのいでたちだ」
 クスリと金髪の紳士が笑う。
「せいぜい目立たぬようにしよう」
 ギャルソンが運ぶ盆から発泡酒のグラスを二つ取り、彼は貴婦人に差し出した。
「これを飲んだら、少し踊らないか?」
 絡めていた腕を外してグラスを受け取ると、彼女は軽く睨むように紳士を見た。
「目立たぬように、と言った尻からそれか?」
「お前の美貌だと、踊らない方が目立つんだ」
 いけしゃあしゃあと言い放つ紳士に、貴婦人はあからさまなため息で応える。
「嘘をつけ。客寄せが目的だろう?」
「さすが奥方。お見通しで」
 おどけたウィンクに肩を竦め、彼女は発泡酒を呷った。


 曲が変わりメヌエットが流れ始め、ホールの中央部で踊る男女が幾組か入れ替わる。
 漣が広がるようにその一対が人々の関心を集める様は、誘蛾灯に虫が群がる様に似ていた。
 金髪の紳士は、白と銀糸の奇妙だが見事な刺繍の上着に揃いのジレ、合わせて白いキュロットを履き靴下に少し風変わりな蔦の模様が側面についていた。そしてその灰色の瞳は、当に掌中の玉を見るかの如く腕の中の貴婦人に注がれている。
 その貴婦人はと見れば、思わず息を呑む程の美貌を持ち深い森の色の瞳を一心に紳士に向けて微笑んでいた。癖の無い豊かな黒髪を東洋風に結い上げて、リボンの代わりに幾つも結ばれた組み紐が揺れ動いてサラサラと音を立てる様だ。纏うローブはスカートを膨らまさない変わったデザインではあるものの、黒地に金糸で刺繍がなされ黒いレースがふんだんに縁を飾る豪華な物。しかもその刺繍が二人揃って東洋の霊獸である竜なのだから、奇抜さも群を抜いていた。
「まぁ、なんと華麗な」
 一人の貴婦人がため息を吐いた。すかさず隣の貴婦人が訳知り顔で『あれはね…』と顔を寄せて事情通振りを発揮し、やがて壁の花を気取る近衛連隊長の耳に届く。
「カリオストロ伯爵夫妻?」
 紺碧の瞳を中央部で踊る養い子から離さずに、氷の華は小首を傾げた。
「ああ、錬金術を極めて病を治し、死者と話し、不老長寿でいにしえのクレオパトラと面談したとか」
 幼馴染の解説に、彼女は吹き出した。
「それは凄い」
 黒髪の従僕もまた肩を竦めて嗤いを漏らす。
「随分な鳴り物入りさ」
「伯爵と謂うが、どこの国の爵位なのかな?」
「さぁ? スペインだとかイタリアだとかまちまちだな」
 怪しい夫婦の話に眉を寄せつつ、養い子の相手を具に見据え、変な口説かれ方をされて居ないか注意深く観察する。既に二十歳を過ぎたという養い子に浮いた噂の一つもないのは、この小姑の厳しい条件に、すり寄る男のことごとくが合格しないせいもあるだろう。
「あ〜あ。そんなに睨みつけたら、あの若いの逃げてしまうぜ」
 肩を竦める幼馴染に、彼女はフンと鼻をそびやかす。
「この程度で逃げる輩にロザリーは任せられん」
「さすがは大佐殿。勇ましい事で。だが、ロザリーまでいかず後家にする気か?」
 あまりにも忌憚の無い物言いに、紺碧の瞳がじろりと見返す。
「どういう意味だ? アンドレ」
 失言に首を竦めた従僕は曲の変調に顎をしゃくった。
「曲が変わる、ロザリー取り戻すか? じゃないとしばらく踊るハメになりそうな気配だぜ」
 そう言われてロザリーの方を見れば、パートナー替えを待つような素振りの若僧達が数人ちらほらと周りに寄っている。連隊長は小さく舌打ちして、相棒を睨み付けたが、すぐにニヤリと口元を引き上げた。
「私はロザリーを助けに行こう。だからアンドレ。お前に偵察任務を申し付ける。かの妖艶なる夫人と踊って来い」
 ツカツカと歩き出す主人に、従僕は目を剥いた。
「オスカル。従者がこんな席で踊れる訳無いだろうが」
 苦情に首だけで振り向けば、豪奢な金髪がふわりと広がって煌めく。
「心配無いさ。今夜お前をめかし込ませたのはロザリーのエスコートの為だ、黙っていればそこらの青二才より貴族で通るからな」
 じゃ任せた。と片手を振って歩み去る、ほっそりした背中にため息一つ。肩を竦めて彼は舞い踊る夫婦の側へ向かった。


「失礼致します。宜しければ、奥様にダンスを申し込ませていただけますか?」
 曲の終わりを見計らって話し掛ければ、灰色の瞳が満面の笑みと共に振り向いた。
 知っている。
 間近で見た二人の第一印象だった。
「これはこれはムッシュ・グランディエ。貴方なら大歓迎ですよ」
 名乗りもしない内に名を呼ばれるのは、哀しいかな比較的よくある事で、ヴェルサイユにその名を知られた近衛連隊長の従僕としては意外では無い。
 ましてやカリオストロ伯爵の前評判なら、初対面の相手を言い当てるくらいの芸当は出来て当然。なかなか前調べがしっかりしているじゃないかという程度だろう。
 だが、彼が困惑したのは奇妙な近親感と強烈な違和感にだった。
 知っている。だがこうじゃない。
 常に無い感覚に狼狽えた彼の鼻先に、黒い手袋に包まれた指先が差し出された。
「妻をお預けします。ムッシュー」
 長身を軽く屈めて伯爵が会釈をして離れていく。彼は慌てて夫人の手を取った。
「宜しくお願いします。マダム」
 今のうろたえ振りはまるで十代の若者だと内心苦笑しつつ、始まったワルツに合わせてステップを踏み出して……
 あまりにも馴染んだ感覚に、彼は心底驚いた。
 足が動く。
 何の躊躇いもなく、踏み出すタイミングもターンの位置も俄かな相手では出せない自然な同調。
 呼吸さえも重なっているような、鼓動すら合うような心地良さは、今までたった一人としか共有した事の無いものだ。
 それが何故、初めて手を取った相手とできているのか?
 しかもこの消えない違和感はなんなのか?
「どうなさいました?」
 聞き慣れた気がする声に、困惑の淵から引き戻されると深いエメラルドに見つめられる。息を呑む程美しく、それでいて酷く見慣れた。
 はっとアンドレは夫人から顔を上げ、ぐるりと首を巡らせた。
 ほぼ背後の位置に幼馴染である彼の主人とその養い子が踊っている。
「……そうなんだ」
 思わず口から漏れた。
 完全に彼方を見ながら、それでいて揺るぎない見事なリードでステップを踏む相手に、黒髪の貴婦人が小さく笑う。
「ああ、失礼を」
 慌てて顔の向きを直した男に、カリオストロ伯夫人は緑の瞳を悪戯っぽく煌めかせて見上げてくる。そんな仕草も既視感と違和感を醸し出した。
「似ていますか?」
 夫人の言葉にアンドレは軽く息を飲む。
「何人かの方に言われました。私が金髪巻き毛で目が碧ければ、近衛連隊長閣下の替え玉になれると」
 クスクスと囁かれる言葉に、自分の得た手掛かりを確信した。
「ええ、似ています。何もかも」
 むしろ違いは髪と目くらいだ。そう心の中で付け足す。
 何もかもそっくりなようでいて、微妙に違う別人。
 違和感の理由がはっきりして、アンドレはゆっくりと動揺が鎮まるのに安堵した。これで正しい判断が出来る。
 しかし同時に、別の思いが湧き上がってきた。
 彼の主人が、もしも女性としてそのまま育っていたなら、この夫人のようになって居たのではないだろうか?
 益体もない思いが思考を掠め、小さく胸に痛みを残す。
 もしもそうであったなら、夫人がカリオストロ伯爵夫人であるのと同様に、オスカルもまた、親の決めた貴族の妻であるはずだから。
 それでも尚願ってしまう。
 ただ一度でいい、こんな風に彼女と踊れたら、自分はどれだけ幸せだろう。
 浮かぶ苦笑を、アンドレは上品な微笑みに替えた。
「伯爵夫人。実は先ほどから困っているのです。貴女があまりにも主人に似ていらっしゃるので、ついつい女性のステップを踏んでしまいそうで」
 そう、オスカルとなら何百回と踊ってきた。子供の頃から。
「貴方が女性パートを?」
 愉しげな笑みに頷く。
「私の主人は、少々特殊な環境下に居りましたから」
 一流の従者らしい控えめな説明に、伯爵夫人はにっこり頷いた。
「存じ上げます」
 さすがにそういうトピックスは押さえているらしい。
 夫人の容貌に少々感傷的になりながらも、頭の隅で冷静にチェックをいれた。
「はい。ジャルジェ将軍の酔狂。です」
 わざと揶揄を口にする。
 肯定するか否定するか同情的に批判してみせるか? 反応が人格を垣間見せるから、この言葉は判断材料には最適の踏み絵となる。
「酔狂のおかげで、貴方のご主人は天職を得られたのでは無いですか?」
 不意に真っ直ぐ見つめられ、彼は目を見張った。悪戯な光りや笑みも、真摯な視線の中に消えてただ真っ直ぐに自分を射抜く緑の瞳。
 森の色に紺碧の空が重なる。
『酔狂上等。おかげで私は天職を得られたと思わないか? アンドレ』
 ほんの数日前、オスカルがこれ見よがしの陰口に憤る自分へ、にやりと笑って言い切ったのと同じ言葉。同じ視線。
 世に姿が似た者は居たとして、魂が似た者がどれほど居るのだろうか? ましてや、姿も魂も似るなんて。有り得ない。
 これが、カリオストロの魔術なるものなのだろうか?


 いつしか曲は終わり、足を止めて見つめ合った二人は、あたかも恋に落ちたかの様に見えた。
「オスカル様、アンドレどうしたのでしょう?」
 夢見心地で憧れの君とのダンスを終えて、ロザリーは何時もの癖で兄代わりを目で探し、伯爵夫人と見つめ合うアンドレを見つけ出した。
「偵察に遣ったんだ」
 簡潔な説明をしながら眉を寄せる。
 全身に竜が巻き付いているようなドレスの夫人が微笑み、アンドレの横顔に朱が上るのが灯火の中でもはっきり見えて、非常に面白くない。
「あの馬鹿者は、何をやっておるのだ?」
 つい口からこぼれ落ちた文句に、ロザリーがにっこり見上げてきた。
「綺麗な方とお話ししているから、アンドレは照れているんですよ」
 無邪気な笑顔が、いっそ憎らしいのはただの八つ当たり。
 それを面に出さない分別を発揮して、皮肉な笑みに包み込む。
「はん。あいつが美人如きで赤くなるような可愛らしいタマか。頭のなかで相手のスキャンダルを十は数えながら、慇懃に挨拶できる男だぞ」
 それどころか、迫られたって顔色一つ変えずにやり過ごす技も持っている。まあ、それが従者の基本的姿勢と云うものだ。
 ましてアンドレは十五の頃から自分と共に宮廷の奥深くへ入り込み、普通の従者の倍は経験を詰んでいる。常に穏やかにしかし揺るぎなく、傍に控えてくれる。
 この世で最も信頼する相棒だ。
 得体の知れない美女にうろたえる生半可な奴ではないし、そんな初心な部分は、十八位でパレ・ロワイヤルに捨ててきたんじゃないかと彼女は踏んでいた。
 だから、これは有り得ない。一体何が起きている?
 結構上背のある夫人がアンドレの手を取り上げ、そっと包むように胸元で握り締める様を憮然と眺めながら、常に無い相棒の様子に湧き上がる不快感を鎮められないオスカルだった。


「グラ……ジャルジェ大佐」
 無音の地鳴りの如き不機嫌オーラ。側に立つロザリーですら一歩引いた近衛連隊長の背中へ、少々のんびりした声が掛けられた。
「なんだ?」
 振り向く先に立っていたのは、近衛隊での副官を勤めるジェローデル大尉だった。
 何時もは背に流すだけの緩くウェーブのかかったアッシュブラウンの髪を、今夜は軽く背中で括り、華美では無いが仕立ての良い衣装ですっきりとまとめてある辺り、何時もと同じく卒がない。
 片手に持ったシャンパングラスは小粋で、彼はこの舞踏会を楽しんでいるのだろう。多分。奇妙な程無表情だけれども。
「貴公も来ていたのか、ジェローデル」
 いっかな戻ってこない阿呆に見切りを着けて、オスカルは自分の副官に微笑んだ。隣ではロザリーが、すっかり身に付いた優雅な所作で礼をしている。
 ところが、その副官はきょとんと目を見張った後にポンと手を打った。弾みで大きく揺れたシャンパンは、幸運にもこぼれずにグラスの中で踏ん張っている。
「ヴィクトール・クレマン・ド・ジェローデル! はい、確かに私です」
 眉間に皺まで寄せた神経質な表情ですっとぼけた事を言う。
 こいつまで変だ。片眉を跳ね上げて彼女は思った。
「ジェローデル大尉。だいぶきこしめされた様だな」
 皮肉を込めて言ってやれば、大尉はまたもや眉を寄せて考え込む。
「きこし……? はい、たしかに酔っている、はい。ここは剥き出し過ぎます。それに、やはり醸造酒は体質に合わないようです。些か周りが回っておりまして」
 糞真面目な顔でしきりに頷きながら、支離滅裂な事を並べ立てる。
 なんとまあ、間違い無く泥酔寸前ではないか。こいつこんなにシャンパンに弱いのか? 上げた片眉を下ろし、今度は寄せながらオスカルは、何とも困惑しきったロザリーと顔を見合わせた。
「大事に至らぬ内に、帰った方が良いぞ」
 要約すれば『醜態曝す前に帰れ』である。
 が、忠告した直後。彼はグラスの中で頑張っていたシャンパンを飲み干した。
「……おい?」
 一段低くなった上司の声に、彼は相変わらず真面目くさった顔で見返してくる。
「こぼしては大変ですから」
 もはや呆れ果てて言葉が出ない。
 これが、粋な洒落者ながら、義務と職務に忠実な自分の部下のジェローデル大尉だろうか?
 唖然と見つめる二人に、常ならば押しも押されもしない貴公子の筈の副官は、しげしげと眺めた挙げ句に『ふむ。興味深い』と呟いた。
 こいつの従者を探し出して馬車に押し込めないと、明日は近衛隊が有閑貴族の嘲笑の的に成りかねない様な事をしでかしそうだ。それくらいの危機感を掻き立てる。
「本当に帰るべきだ。もう馬車に行け、ジェローデル」
 酔っ払い相手に怒鳴りつけても役には立たぬ。取り敢えずこの手で馬車に押し込めよう。喝を入れるのは、明日で良い。
 部下の面倒を見るのは上官の役目とばかりに一歩踏み出した時、ジェローデルの背後に従者らしいお仕着せの男が近づいてきた。
「失礼いたします。ジャルジェ大佐。ジェローデル大尉」
 銀髪で痩せぎすの男は、丁寧に頭を下げた。
「我が主がお話しをなさりたいとの事です。ここでは少々憚りますので、名乗りません事をお許しください」
 つまりかなり高貴な相手と云うことか。ややこしい気配がする。
 オスカルはまず心配そうにロザリーを見やり、次いで疑わしい視線をジェローデルに向けた。
「伺うのは吝かでは無いが、私の連れと部下は……」
 つい語尾が濁る。勿論ロザリーなら国王御夫妻の前に出しても問題無い。単に相手が呼んでいない故の質問だ。こんな場に一人で置いていくなんて論外だから。
 対して今夜は別人の様に言動の怪しい副官は、相手が指名してはいるものの、何か面倒な事態を引き起こす。絶対起こす。確信出来るくらい彼は変だった。今も飲み干したグラスを見つめて、何やらブツブツ呟いている。
 どうしたものかと頭を抱えた所に、待望の片腕が戻ってきた。
「遅い! アンドレ」
 人波をすり抜けて近寄ってきた相棒が、何事かと四人を見る様子に一喝すると、軽くロザリーの肩を抱く。
「ロザリーを頼む。お前達は先に帰れ。私は少し用ができた。それと、ジェローデルを馬車に乗せてやってくれ。だいぶ過ごしたらしいからな」
 一切説明無しで言い放ち、彼女は銀髪の従者に頷いた。
「御覧の通り、あれは帰らせた方が良さそうだ。私だけで伺おう」
 銀髪の従者は、一瞬戸惑いジェローデルを見たが、諦めた様に頭を下げる。
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
 従者が恭しく彼女を促して人波に消えて行くのを、アンドレとロザリーは困惑したまま見送った。

 そしてその夜。彼女は帰らなかった。



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カリオストロの罠

熊野 郷さま 作

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