『ジャルジェ将軍の酔狂』だの『将軍の無体』だのと、娘を建て前だけ息子と
して育てた強引さを揶揄する言葉は多い。
ただ、その『息子』は、並みの男より軍事の才能を持ち、しかも勤勉にして
努力家な上に、王族に信頼され寵愛を受ける強運すら持っていた。
先の王、ルイ十五世に始まり、現王ルイ十六世と王妃マリー・アントワネッ
ト、そしてその御子達。
中でもアントワネットの寵愛は深く、王妃となって真っ先にした職権乱用
が、自分付きの近衛士官である彼女を近衛連隊長に据える事だった。
男の産まれぬ鬱憤を、妻にはぶつけず反社会的行動で晴らしたジャルジェ将
軍には、嬉しい結果かも知れない。
最初の出仕から十年以上、オスカル・フランソワは国王一家の傍近くを護り
続けてきた。
今のところは。
時に1784年。運命の7・14を夢にも思わなかったノエルの頃。
さて、休日に母娘で出掛ける時ですら、軍服を着る程職務第一で。部屋着の
他は軍服しか持っていないのじゃないか? と云われる位の彼女には、軍服の
他にもう一つ必ずセットで付いて来るものがある。
それは勿論黒髪の従者であり、職務遂行中以外では、正に影の如く彼が付き
添っているのが常の姿だった。
だがその日、夜遅くに出仕してきた連隊長の後ろには、見慣れない金髪の青
年が従っていた。
訝しげに見つめる近衛兵には、鷹揚に頷きだけを返して通り過ぎた彼女だっ
たが、いきなりの隊長出仕に驚いて飛んできた今夜の警備担当監督官には、驚
きの声を上げた。
「ジェローデル? 何故此処に居る?!」
聞かれた方は困惑して眉を寄せる。
「何故と仰られても。今宵の警備責任は、私の受け持ちですから」
困惑した副官を尚も疑わしい視線で見つめて、彼女は侍従長へ内密での謁見
許可を得る様に指示した。
例えどれほど異例でも、上官からの正式な命令ならば個人の疑問は二の次で
ある。副官は直ちに先触れを侍従長の下へ遣わした。
程なく手順が整い、謁見に指示された部屋へ彼女は青年を連れて入って行
く。
去らずに直立し、近衛として待機姿勢で待つ事暫し。
上官は意外に早く、しかも一人だけで御前を下がってきた。
「ジェローデル、私も待機だ。少し話す暇はあるか?」
そう言って、扉を背に立つ彼の横に並んだ。
ふわりと菫の薫りが漂い、ゆらゆらと揺れる燭台の光が真っ直ぐ前を見据え
る横顔に陰影を落として、神が作り上げた最高級の作品を彫り上げる。
幻想的なその様を心から惜しみつつ、無理やり視線を引き剥がした副官は、
姿勢を正し正面を見た。
見惚れていたら睨まれるかどやされる。
彼女には、己の美しさへの正当な賛美など通じない。むしろそれらを無視し
た方が気に入る、勿体無い性質のお人だから。
だが天の助けは有るもので、少し離れた廊下の向かい、ちょうど自分たちの
正面に天使を引き連れた女神の掲げる姿見が有るのに気付いた。
鏡の女神への感謝を心の中で述べつつも、女神以上に美しい上官と自分が並
ぶ様を堪能する。
人一人通らない夜半の廊下には、遠く広間で開かれている晩餐会の華やかさ
など届く筈もなく、ただ幽かに楽曲の響きが流れてくるだけ。
静かな空間を彩るその響きは灯火の光と共に彼女の髪の上で跳ね、二人だけ
の時を彩ってくれる様だとジェローデルは思った。
夜の伺候や見慣れない青年の共など、異例な事ばかりだったが、その事を問
うつもりは端から無い。
もとより生真面目で居ながら前例崩しが大好きな彼女は、時々呆気に取られ
る程意外で大胆だ。
しかしけして職務も任務も逸脱しないし蔑ろにもしない。
それによほどの機密でない限り、必ず彼女から説明してくれる筈だ。
長年の副官として、彼はそれを良く知っているから、何も聞く必要は無いと
思う。
ただこうして、隔てるものも邪魔も無く彼女の傍らに立って居られる今が嬉
しい。
願わくば、こうした時を重ねて、いつの日か名実共に人生を重ねる相手に成
れれば、自分はどれほど神に感謝するだろう。
鏡に映る自分たちの姿を見つめながら、厳しい上官の顔を頭の中で柔らかな
微笑みに変えてみる。その笑顔は実のところ自分に向けられた事はなく、彼女
の付属品へ向けられていたのを垣間見ただけなのが少々癪に障るけれども。
それでも彼は幸せだった。
純情でささやかな副官の幸せな時間は、低い上官の声で破られた。
「あの青年は、エリザベート内親王殿下の御使者だ」
「そうなのですか」
甘やかな妄想に似合わない仕事の話をいささか残念に思いながら、至って冷
静な声音で答える。
「ノエルにはブルゴーニュに行かれるそうだ。その前に贈り物をと仰っておら
れたが、多分書状の内容は報告書だろう」
「報告書?」
「内密に、だから他言無用だぞ」
そう言って声を落とす。
「内親王殿下は以前から、各地を慈善の為に訪れては、現地の状態を陛下にご
報告されていらっしゃるのだ。先日シャンパーニュの霜被害を視察されたから
な」
慈善家の妹君がそんな活動もしていたのかと目を見張る。
「夜会で呼ばれて、使者の先導役を仰せつかったのだ。十二月は行事が立て込
むからな、お会いする機会が見つからないらしい」
「なるほど。了解しました」
それで夜の伺候は理解した。しかし解せないのは、鏡の中の憧れの君が何や
ら思い悩む様に目を伏せ眉を寄せている事だ。
「何か問題でも有りますか?」
不躾にならないようにそっと促せば、うむと軽く頷く。その仕草がどこか可
愛らしくて、どきりと心臓が跳ねた。
副官の心拍数など知らない上官は、ゆっくり言葉を続ける。
「先日、宮廷で奇妙な貴族に声をかけられた。四十とも三十ともつかない年の
判らん男で、なんとサン・ジェルマンと名乗ったのだ」
思わず苦笑が出る。
「なんとまあ」
サンジェルマン伯爵とは伝説の人物だ。
何処かの女王の隠し子だとかいう出自の噂に始まって、科学と錬金術を極め
三百歳だの四千歳だの煙に巻かれている様な話ばかりで、素行に関しても謎だ
らけ。
先王ルイ十五世がやたらに気に入り、シャンボール城で研究室を与えられ
『人類が知る中で最も豊かで希有な発見』をしていたなどと実しやかに語られ
る。
何分自分は生まれて間もない頃なので、本人を見た事は無いのだが。
「彼は今年のはじめ頃、身を寄せていたヘッセンで亡くなったとか聞きました
よ。不老不死も年には勝てぬ。などととあるサロンで話を聞きました」
聞きかじった噂を言うと、私も知っていると返された。
「その男は、名乗った後『偽者にご用心』とだけ言い残して去っていった。私
は眉唾だと思い気にも留めて居なかったのだが……」
そこで言葉を切り、考え込む。
やがてゆっくりと口を開いた。
「今夜は、ロザリーを連れて、パリでデュプロ女伯爵のパーティーに招かれて
いた」
なる程ロザリー嬢の移り香か、と菫の薫りに納得する。上官はシャボンの香
りだけなのが常だったから。
「夜会とはそちらでしたか。かの未亡人はご母堂のご友人でしたね。まぁ、私
の母ともそうなのですが」
「ああ、そうなのか。では貴公が居てもおかしくないな」
少しだけ妙な返事に鏡越しの表情を伺えば、厳しいというより寧ろ困惑して
いるかの様に未だ眉を寄せている。
「母共々今夜の招待はいただきましたが、この通り任務でありますから私はお
断り致しました。行けましたならば、隊長とお会いできたのですね。残念で
す」
わざと軽口で返せば、眉間の皺が深まっていく。
「貴公に会ったのだ」
「は?」
一瞬意味が解らず、聞き返してしまった。
鏡の中の彼女は、頓狂な返事に気を悪くした様子もなく伏せていた視線を上
げる。
互いの視線が、鏡を介して絡み合った。
燃え上がる焔の如き紺碧の瞳に射抜かれて彼は思わず息を飲み、紅の一筋も
引かれてはいないのに、より鮮やかな紅い唇が自分の名に動く様を見つめた。
「ヴィクトール・クレマン・ド・ジェローデル」
柔らかな音階で呼ばれる至福は、次に告げられる言葉で打ち砕かれる。
「そう名乗り、姿形も貴公そのものの男に、夜会の会場で会ったのだ」
「何ですと?!」
甘美な妄想はあまりな告知に吹き飛び、彼は思わず隣の上官を直に見た。
「私は王宮に居りました」
任務を疎かになどしていない、これだけは何があっても判って貰わねばと、
彼は強く主張した。
「案ずるな。貴公が任務を放り出して、夜会に等行く筈がないのは私が一番よ
く知っている。第一、その男は泥酔寸前だったんだ、貴公が一滴も酒を飲んで
いないのは匂いで判る」
微笑んでくれはするものの、それはそれで別の問題を提示する。
「私の偽物……」
「ここで貴公に会うまで、あれが本人だと思って居たほどそっくりだった。見
た目も声も、言動以外は全てだ」
サン・ジェルマンの予言とあいまった薄気味悪さに、背筋がぞくりとざわめ
く。
「いったい何故私になりすましたのか」
「判らん。だが、ひとつ嫌な想像はできるぞ」
「私もです」
本人不在を狙って偽物がやって来れば、それは易々と王宮の奥まで入り込め
る。それどころか、この広い王宮内で二人のジェローデルがうろうろする喜劇
まがいも、場合によっては有り得るのだ。
そんな様を想像して、お互いに薄ら寒さで顔を見合わせる。
「アンドレを呼ぼう。あれに偽物を貴公の自宅へ送るように言い付けた、何か
判ったかも知れない」
薔薇の唇からするりと出てきた付属品の名に、心の中でため息を吐く。
「それが最善かも知れませんな。お屋敷に使いを出しましょう」
そう返事を返して、その場を離れようと敬礼しかけた副官を、連隊長は片手
を上げて制した。
「あれなら、どうせ王宮に来るだろう。殿下の侍従に、私の行き先を伝えてく
れる様頼んできた。謁見の間にはまだ陛下がおわされる、我々は離れてはいか
ん」
「はっ!」
思わぬ幸運の延長だ。彼は微笑みを隠すように顎を上げて姿勢を正すと、再
び扉を背にして待機姿勢に入った。
鏡の中に並ぶ二人に、ささやかな未来の夢を見ながら。
後にショコラをぶっかける羽目になる相手が、そんなささやかで甘い夢に浸
っている頃。
付属品ことアンドレ・グランディエは、振り下ろされた長剣を自分の剣で受
け止め、柄に絡めてへし折ったところだった。
レイピアの装飾過多な柄の複雑なラインは、梃子の原理で粘性のない鉄剣を
へし折る為にあるのだが、もちろんそうして相手の戦闘力を削ぐには、それな
りの技量と年期が必要だ。
幸いというには不運過ぎるが、彼には過激で戦闘好きな主人の、長年に渡る
護衛兼剣術練習用の役割があったので、相手の剣を折る戦法が得意だった。
しかも、左手に構えたマンゴーシュという短剣が、剣をへし折った相手の利
き腕を切り裂き、戦力を確実に削ぎ落としていく。
彼の主人が敏捷さと技巧において秀でた剣豪なのに対して、彼は優れた洞察
力と的確な判断を持った上に、並外れた体格を駆使した剛力の剣士といえる。
しかも身が軽い。
品の良いお仕着せの優男に見える従僕が、これほどの戦闘力を持っているな
ど、剣を交えるまで分かりはしないだろう。
アンドレを取り巻いた男達は、その意外性に怯み攻め倦ねているようだ。
既に二人が腕や肩を押さえてのた打ち回っていて、月夜の冷え切った闇の中
に呻き声だけが響いている。
月明かりに透かし見る人数はざっと十八人。
従僕一人、名指しで殺すには多すぎないか? そんな疑問が掠めはするが、
今はそれどころではない。
初手の攻撃で三人は沈めたかったのにと臍を噛みつつ、包囲を突破し脱出す
る算段を考え始めた。
オスカルが謎の呼び出しで消えた後、アンドレはロザリーを連れて一旦屋敷
に帰った。
王宮で偽者と判明した泥酔男は、馬車寄せで従者と名乗る者が迎えに来たの
でそのまま引き渡してしまっていたが、真相など知らないアンドレはいたって
常識的な対処をしただけである。
ロザリーを降ろすと自分もお仕着せに着替え、執事に簡単な事情を説明した
後、今度は自分が馬車を御して再び会場へ戻ったのだが。
そこで例の銀髪の従者が待ち構えていて、オスカルが王宮へ向かったと聞か
された。
やれやれと思いつつ夜半の街道にカンテラを揺らし、帰りの足が無い彼女の
為にベルサイユへと馬車を走らせる。
が、しかし。
いきなり飛び出した人影に、慌てて馬車を止めたのが始まりだった。
『アンドレ・グランディエか?』男に訊かれそうだと応えて『では死ね』とき
た。
瞬く間に二十人程に囲まれてしまい、しかも馬と馬車を繋ぐハーネスが切ら
れ、有効な脱出手段の一つを失った。あの太い革帯をどうやって瞬時に切った
のか、未だに謎だが。
途端に解き放たれた馬たちが走り去り、彼は残された馬車から降りざるを得
なくなった。
勿論、高い位置にいる利点を使って襲撃者を蹴り飛ばすなど、容易に絡め獲
られるのは防ぐ戦法もあるが、風に乗って火薬の匂いがした。
即座に標的になる動かない高台からの退避を選ぶ。
護身用の剣を掴み、敵の群れの中へ飛び込めば、意表を突かれた連中に動揺
が走る。
もとよりそれが狙い目で、反撃が来ない内に一気に襲いかかって二人の腕を
切り裂いた。
正規の剣術というより喧嘩殺法に近いのは、彼が掻い潜ってきた実戦の種類
の所為だろう。
性別に反比例した荒事専門家、下手な男より血の気の多い彼の主人には敵も
多い。
正真正銘の政敵から、女が幅を利かすのが我慢ならない男尊女卑の権化に、
夜会でオスカルにポ〜っとなった女に振られた逆恨みまで様々で、目障りな近
衛連隊長を失脚させようと虎視眈々と狙っている訳だ。
そんな連中からは、闇討ちや襲撃もたまにはある。
不穏な輩は勿論徒党を組んでやって来る。一人で来る勇者は皆無だし、大抵
が金で雇った夜盗崩れか傭兵あがりだ。
相手をする方も正規の術法は踏まえた上で、大人数を効率的に捌く事になる
のが道理。
必然、喧嘩紛いの戦闘法となる寸法だ。
先手必勝で二三人沈めて剣を折れば、金で動く奴らなど自分の命を可愛が
る。今だって数に頼んでまだまだ強気だが、どこか及び腰なのが見て取れた。
「怪我しない内に消えた方が身のためだぞ」
相手の怯みへ舌刀で斬りつける。
大柄な男が強さを見せつけてこう言えば、根性の無い野盗崩れなら大抵逃げ
始める。
それがアンドレの常套手段だった。
だが今回その効果はあまりない様だ。怯み、慎重にはなっているが、脅えて
はいない。むしろせせら嘲う気配もあり、人数による自信以上にアンドレを仕
留められると確信している雰囲気がある。
最前感じた火薬の臭いに思い至たった。
「あんた等、何で俺を狙うんだ?」
オスカルと一束一絡げで襲われるなら慣れっこだが、自分単品なのが解せな
いからだ。
ぼやきにならないよう気を付けながら、問い掛けるが鼻で嘲う気配が返って
くる。
まあ、もとより返事は望んでない。単に時間を稼いで、逃げ易い所を探して
いるだけだったから、失望もしなかった。
いくら戦闘力が高く体力的にも恵まれているとは言え、彼は一人。大人数を
相手にするには不利過ぎる。
それにできればこれ以上人を斬りたくないし自分も怪我をするのは避けた
い。どこかに潜んで居るらしい狙撃手の事も気になる。
相手が悪漢と言えど、斬り捨てたり盾にしたりなどとは考えない。この期に
及んでも、どちらも最小限の被害で済ませたいと考えるあたりが、彼の主人親
子が口を揃えて軍人に向かないと断言する所以だろう。
さて難儀だと、底冷えする夜風の中一筋冷や汗が伝った時。男達の後ろから
声がした。
「何だよ。この頭数でまだ終わらねぇのか?」
からかう口調で人垣を割って現れたのは、三十絡みの精悍な男だった。
「お楽しみはこれからよ」
こんな男達でも見栄があるらしい。一人がそう言い訳すると、嘲笑とも苦笑
ともつかない笑いが周りから聞こえた。
「なかなか腕の立つ兄さんでな。ゆっくりあそばせて貰うところさ」
及び腰の本音を露呈させているのに気付きもしないで、別の男が後に続く。
月明かりになお黒く影を伸ばし、黒い髪を短く刈り込んだ変わった髪型の男
は、野盗崩れ達の言い訳を愉しげに聞いていた。
そんな様子を見ながら、アンドレは身構えた剣を強く握り直す。
他の男達とは違う。
この男、かなりの腕だ。
直感だったが確信できた。
案の定男は、アンドレを値踏みするように眺めると小さく笑って肩を竦め
る。
「良いねぇ、面白そうだ。俺も助っ人するぜ」
その言葉に横に居た野盗崩れが首を振る。
「今から咬んでも、分け前なんてねえぜ」
分け前を支払う奴が何者か知りたいと、足場を確認しながらアンドレは思っ
た。
断りを入れられた男の方は、ニヤリと笑う。
「分け前なんざ要らねえよ。なにせ助っ人は、そっちの兄さんになんでな!」
「ぶぎゃ!」
奇妙な悲鳴とゴキリと鈍い音が月夜に響く。
男が、言い終わりもしないで横の野盗崩れの顔面に拳を叩き込んだからだ。
次いで鼻を押さえてのた打ち回る絶叫が響き渡ったが、それは仲間にも敵に
も聞いて貰えなかった。
なぜならその一撃を吉書に、全てが動いたからだ。
殴られた男が倒れていく一瞬。
呆気に取られた野盗崩れ達の虚を逃さず、アンドレが手近な相手に踊りかか
った。
剣は敢えて使わず、長い足を有効に使った強烈な蹴りを腹にめり込ませば、
決して小柄ではない男の体が簡単に後ろに飛ぶ。
開いた突破口へ彼が突進するのを遅蒔きに追い掛けしようと、左右から剣が
突き出された。が、虚を起こした野盗達は互いに刺し合い悲鳴を上げる。
「あんたも早く逃げろ!」
突破脱出を果たしても、背後で斬り結ぶ気配にアンドレは振り向いた。
「阿呆! とっとと逃げやがれクソガキ!」
心なしか愉しげに、男が怒鳴る。
何時の間にか彼は二丁の剣を握って二人一度に相手をしていた。
振り返った事で追いすがる敵に切りかかられて、アンドレは的確に細い刀身
を柄に絡めながら更に怒鳴る。
「ピストルか銃が狙ってる、気を付けろ!」
「てめぇもな!」
ぶっきらぼうな返事が返ってきて、彼は苦笑しながら剣を持つ手を捻り込ん
で絡めた剣に力を加えた。
硬質な金属音を立てて剣が折れ、同時に相手の剣を握っていた腕を短剣で切
り裂く。
斬られた男が腕を押さえて悲鳴を上げた瞬間、思い出したように敵が一歩退
いた。
「!」
月夜の街道に、二発の銃声が響く。
そして、静寂。
「ぐぁ…」
肩を押さえたアンドレと、腕と腹から血を流した男が地に膝を突いた。
「俺達もかよ!」
うろたえた誰かが叫び、
「逃げろ! 撃たれる!」
と、誰かが応えて。
散を乱して黒い影が走り去るのが、痛みに歪めた視界に見えた。
じわりと染み出る生暖かい感触に、弾が肩を掠めて行ったのだと冷静に判断
する。
目の前の男は腹を押さえて呻き、体の下に血溜まりを作りつつあった。早く
止血しないと危ないだろう。
腕の傷だって深い筈だ。
呻き声が他にしないのに気がついて、まだ狙っている射手を刺激しないよう
ゆっくり顔を上げれば、死にかけた男以外は影も無い。
人間とは現金なものだ。
腕を斬られたり鼻を折られた程度の『軽傷』の者は、確実な命の危険には痛
みも吹き飛んだらしい。怪我を押さえてこけつまろびつ逃げていく様を想像し
て、アンドレは弱く笑った。
そういえば、さっきの男も逃げたんだろうか?
まるで奴らの仲間のような顔をして現れたのに、いきなり自分を助けた奇妙
な男。
彼は何者だったのか?
撃たれると解って、慌て逃げ出すようにも思えない。
すると、ガサガサ音がして街道袖の薮からあの男が現れた。
「最新型の二連発だ。なかなか良いもん持ってやがる」
そう言ってアンドレの前にピストルをぶら下げて見せる。
どうやら射撃の音で射手の居場所を察知して、追い払ってくれたらしい。
「メルシ。助かった」
狙撃の心配が無くなり、彼はようやっと体を起こした。
「多勢に無勢でなぶられてるのが見過ごせなかっただけさ。面白そうだったし
な」
そう言いながら男は、アンドレの傷の検分にかかる。
「掠めただけだな。穴も空いてねぇよ」
あははと笑い、大きな三角巾を取り出してアンドレの肩を縛ってくれた。
「俺よりも、そっちの男が重症だ」
もはや弱々しく喘いでいる男を示すと、ため息とも笑いともつかない息を助
っ人の男は吐き出した。
「あんた、強いくせに戦うのには向いてないな。自分を殺そうとしてた奴だ
ぜ?」
そうは言われても、気になるのだからしょうがない。
「よく言われるよ。でも、目の前で死なれるのは後味悪くてさ」
苦笑しながら肩を回して調子を診る。きつく縛ってくれたお陰で、動くのに
支障はなさそうだ。
そろりと立ち上がり、伏せた男の側に行く。
ぐったりした怪我人を抱き起こせば、腹から下が血でぐっしょり濡れてい
た。
惨状にアンドレは眉を寄せた。朝まで保たないかも知れないと思う。
とにかく手当てをと顔を上げれば、助っ人の男がやって来て怪我人のマント
の裾を裂き、傷を縛るのを手伝ってくれた。彼もきっと軍人上がりなのだろ
う。
応急処置の手際は士官学校で教えているものに酷似していた。
凍った道に怪我人を寝かすのも憚られ、二人掛かりで馬車の床に寝かす。
勿論アンドレはその間ジャルジェ家の全員に、馬車を汚すのを心の中で謝り
倒していたが……
「本当に助かったよ。そういえば名前もまだだったな。俺は…」
馬車の扉を閉めて、改めて礼を言おうと振り返った時、首の後ろをチリチリ
と灼くような嫌な感覚が走った。
多分本能に近いものだろう。
危ないと思った時にはもう体が動いていて、咄嗟に目の前の男を突き飛ばし
た直後、胸の辺りに焼けるような熱を感じた。
途端に息が詰まり、視界が回る。
胸を撃たれたんだ。ぼんやりそう思った。
喉の奥から熱い塊が込み上げて口から流れ出すのを、嫌に遠くなった月を見
ながら感じていた。
襟元が汚れた。おばあちゃんに怒られる。
埒もない考えを巡らせていると、逃げられたと吐き捨てる声がして、あの男
が戻ってきた。
「生きてるか? この馬鹿野郎」
些か乱暴に抱き起こされたが、不思議と痛みは感じない。
「俺まで庇うな! あほんだら」
そこまでがまともに聞こえた最後の言葉で、後はワンワンと耳の中で響く耳
鳴りにかき消された。
助けるとか、移動だとか、ぼんやり聞こえた気もするが、アンドレの意識は
闇の中へ落ちていった。
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カリオストロの罠
熊野 郷さま 作
(2)