朦朧とした中、アンドレは甘い夢を見た。
 オスカルが自分の手を握り締め、死ぬなと泣く。
 死なないよと応えようとしたが、声が出なかった。
 次に気が付くと、彼はガウン姿のオスカルに膝枕をされていた。指が髪を梳いてくれる。
 息をする度、焼け付くような痛みが胸から全身に走ったが、柔らかな膝と細い指の感触が心地良く、気持ちいいと呟いた。
 が、やはり声は出なかった。
 次に目を開くと、オスカルは植民地風なゆったりした白いレースのローヴを着ていて、お前の為に着たんだと言う。
 綺麗だと言った声は老人の様に嗄れ掠れていたけれど、彼女ははにかみ頬を染め、熱い視線を返してくれる。
 どうだ? と聞きながらくるりと回って見せる少女の様な仕草を、彼は愛しく見つめていた。
 そして次に目を開くと、柔らかな腕の中に居た。
 オスカルが添い臥ししている。
 驚きはしたものの、酷く眠くて。彼はひたすら睡魔に抗った。
 柔らかな胸に抱き締められる至福を手放したくないから。
 闇に包まれる瞬間、オスカルの紅い唇が自分のものへ落とされるのを感じた。
 以前、堪えきれずに眠ったオスカルから掠めとった薔薇の唇。
 あの時と同じに甘く、まったく違う熱さの深い口づけ……
 夢だと判っているのが辛かった。



 アンドレが消えて、五日が経った。
 ばあやは茹でた海老の様に赤くなって怒っていたのから、そろそろ血の気が引いて青ざめてきていたし、ロザリーの眉は八の字から戻らない。
 ジャルジェ夫人は日に何度も門の方を見ながら、友人や娘達に行方を訊ねる手紙を書く。
 ジャルジェ将軍ですら、知人にそれとなく怪我人の行き倒れが無かったか訊ね、手が空いた者は探しに行くよう使用人達に言い付けた。
 その使用人達も、率先して心当たりを探して歩き、以前奉公していた者達に連絡を取ったりしている。
 屋敷中が彼を案じ、落ち着かない。
 彼の人望も有るのだろうが、それ以上に皆が災厄に不安感を高めているのだ。
 なにしろアンドレの消え方は尋常では無かった。
 夜明け前、ハーネスの切れ端をぶら下げた馬が門前で嘶いた。
 驚いた門番が馬を見れば、確かにジャルジェ家の紋章の刻印が留め具に刻まれているのが確認できた。
 大慌てで馬丁を呼ぶと、馬の名前まで判るし、ついでに恐ろしい事実すら判ってしまった。
 前夜、この馬を連れ出したのはアンドレで、一人乗りの馬車を御してパリへオスカルを迎えに行った、と。
 青くなった二人が執事に報告し、自分の手に余る事態と判断した彼は、早朝ではあったが即座に主に知らせた。
 事態を聞いた将軍が、臨戦態勢に入った機敏さで馬と馬具を自ら調べれば、鋭利な刃物で切断されたのだと見て取れた。
 それはすなわち、アンドレ、もしくはアンドレとオスカル。二人の身に何らかの異常が降りかかったと云う事に他ならない。
 悪ふざけで、こんな真似をする二人ではないのだ。
 職業柄オスカルは、極力家族に心配をかけないよう心がけていたし、アンドレはそんなオスカルを気遣い、さらに心配りを欠かさなかったのだから。
 将軍は若い者を昨夜のパーティー会場に走らせて状況の把握を図った。
 斥候となった若者は、未明の街道に馬を飛ばし、打ち捨てられた馬車の車体を発見して。白墨の中、惨劇の跡を見たのだった。
 馬を切り離されて傾いだ馬車の中も周囲にも、夥しい血痕が飛び散り、一つなど靴先を濡らす程の血溜まりだったのだから堪らない。
 彼はすっかり縮み上がり、馬首を巡らして一散に屋敷へと逃げ帰った。
 ただ、さすがは将軍家の小者と誉めても良いのは、車体がジャルジェ家の物なのを、しっかり見届けてきた点だろう。
 若者が逃げ帰ったのと、王宮のオスカルからアンドレに『どこで油を売っている?』という叱責の伝令が来たのが同時だった。
 これで少なくとも二人共が変事に見舞われたのでは無いと判った訳だが、アンドレの安否は杳として判らないまま。
 彼の履いていた靴が片足だけ、馬車の下から見つかった。
 そしてオスカルは五日目の朝、いきなりの訪問者とカフェを飲んでいる。

 目の前の客へ失礼の無いよう気を付けながらも、オスカルは深い息をゆっくりと吐き出した。
 いつも彼の訪問は、心を掻き乱す。
 その磊落な笑顔に心ときめき、深い知性を表す機微に富んだ会話は、響きの良い声音と相俟って強く惹き付け。その明るさと聡明さに反する暗い悲劇を背負った身の上は、誰よりもその真実を知る者である彼女を酔わせた。
 更に建て前上性別詐称している自分のこだわりによる拘束と、親友としてしか見られていない片恋への陶酔、更には王妃への忠誠心との板挟みになるわけだから、恋する『乙女』としては、甘い痛みを享受するのに十分な対象というわけだ。
 後に運命の半身なるものを手に入れた彼女が、ウブな未通娘の片思いを振り返って、実も蓋もなくそう言い切ったりするのだが。
 まあ、それは遥か未来の事。
 その片思いの真っ最中の彼女には、痛みを持て余すしかない。
 だが、今日彼女にため息を吐かせ、心を掻き乱しているのは、目の前の想い人ばかりでは無く。居るのが当たり前過ぎて、ともすれば忘れる程の幼馴染も一緒だった。
 居る時は忘れるくらいなのに、居ないとなると途端に存在感のでかさを誇示するとは奇妙な男だ。
 彼は、いつも側に居る防風壁。
 本当の風も世間の風も彼が半分受け止めて、直接当たらないようにしてくれているから、自分は近衛連隊長でございと肩肘張って居られるのだと、しみじみ痛感する。
 事務的な面に於いても、彼が居ないとインク壷のしまい場所すら判らないのだ。
 アンドレ失踪初日。
 大半が物探しに費やされ、ついでに執務室に一人なのを思い知らされ、儀仗訓練に逃げ出した。
 隊士達にはいい迷惑だったろう。
 次の日からは、ジェローデルの提案で従卒をつけた。
 が。アンドレの事務能力には遠く及ばず、しかも気が利かない。
 勤務中は物を探しているか、オスカルに見惚れているかのどちらかだった。
 それでも三日は我慢したのだ。
 アンドレの早期帰還を願い(勿論捜索も手は尽くし)ながら。
 アンドレ失踪四日目にはさすがに堪忍袋の緒が切れて、使えない従卒を執務室から叩き出した。
 そうしたら、非番の筈のジェローデルがやって来て、手伝ってくれたから何とかなった。
 さすがに彼クラスとなると、文官やアンドレ程では無いにしてもそれなりに仕事をこなしてくれるもので、それまでが酷かった分有能さに感謝したものだ。
 だが、ふと冗談などを交わして笑い合う時、これがアンドレとであればもっと気の置けない話で楽しいのに、などと考えている自分に気が付いて、ジェローデルの好意へ申し訳ない気がしてしょうがなかった。
 そして五日目の今日、待ちに待った休日である。
 今日は朝から捜索を始めよう。そう意気込んでいたところに、前触れもなくフェルゼンがやって来た。
 奇妙な報せを携えて。
「……またもやサンジェルマンか」
 テーブルの茶器の合間に開かれた、一通の手紙。
 品の良い淡い紫色の封書には、やはり品良く落ち着いた菫色のインクを使った流麗な文字が『ジャルジェ大佐殿』と綴られてある。
「面妖な」
 広げた書面を睨み付け、今度は隠し様のないため息が出る。
 内容はアンドレの行方の手掛かり。サンジェルマンが何を狙っているのか、アンドレは何に巻き込まれたのか?
 なんとも測りかね、出るのはため息ばかりだ。
「貴女の許嫁の行方は、カリオストロ伯爵がご存知でしょう。逗留先をお訪ねなさい…か」
 ふむと文面を読み上げてフェルゼンが首を傾げる。
「カリオストロか……サンジェルマンといい。アンドレの失踪は錬金術絡みなのかな?」
 手紙は昨夜遅く、夜会の会場でいつの間にか側に来ていた男から、届けて欲しいと手渡されたのだという。
 男の人相は、先日オスカルに話しかけてきた男と同じだった。
 フェルゼンが封書を見れば、宛先はオスカル。そして裏面の差出人はサンジェルマン。
 親友と伝説の人物という奇妙な取り合わせに、理由を問い質そうとしたものの、男は既に消えていた。
 あまりにも奇妙な出来事に、はたして手紙を届けたものか、中身を確認するべきか、一晩悩んだ。
 と彼は語った。
 結果、育ちの良すぎる彼には封書は開けられず、腹心の行方に心を痛めているだろう親友を、更に悩ませるかもしれない手紙を携えて、貴族の訪問としては異例な朝方にやって来たのだそうだ。
 そして悩んだ手紙の内容がこれである、思わぬ判じ物に謎が深まっていくばかりだ。
「カリオストロやサンジェルマンが何を企むのか判らんが、アンドレと錬金術ほど縁の無い取り合わせはないぞ」
 彼も彼女もオートマタは好きだが、錬金術は頭から眉唾物だと考えているのだから。
「まあそうだな。彼は実に良識的な人物だ」
 フェルゼンが受けて頷けば、彼女はパシリと便箋を弾く。
「大体、こやつは間違えている。あいつは幼馴染だ、百歩譲っても竹馬の友だ。間違っても許嫁などではない!」
 鼻息荒く言い切り肩を竦めた。
 それとも他人からはそう見えるのか? ふと疑問が頭を掠める。
 だとしても、フェルゼンにだけは思われたくはない。
 まあ、そんな誤解をするほど浅い付き合いではないが。恋する乙女としては、強調しておきたいのが人情と言うものだ。
「第一、こんな話をばあやに聞かれてみろ、あいつの命が危ないぞ」
 アンドレの為に、一応もっともらしい理由も付けておく。
「それで、どうする?」
 カフェを飲み終えフェルゼンが尋ねた。
「行くしかあるまい。胡散臭いが初めて得た手掛かりだからな」
 言うなりオスカルは、上着を取りに立ち上がる。
「付き合おう」
 さも当然とフェルゼンも立ち上がった。
 その申し出に心臓が跳ねる。
 頼もしげな微笑みを浮かべた精悍な色男に頬が熱くなり、覚られまいと慌てて顔を背けて肩を竦めて見せた。
「物好きだな。今日は謁見を申し込むのではなかったか?」
「親友の難儀を見過ごせまい」
 月に二度、彼は王妃への謁見を申し込む。
 これは十日毎に密かに行われる密会へのカモフラージュで、友人同士である二人を強調する為の姑息な手段なのだと、以前彼が苦々しく語っていた。
 姑息卑怯が嫌いな彼が、敢えてそうまでするのは唯一人と心に決めた愛する人の為。
 彼女を護る為なら、北欧の騎士はどんな事でも笑って耐えるのだ。
 その真摯な愛が心を惹きつけ、自分には決して向けられぬ想いが胸を締め付ける。
 だが今、それを脇に置いて自分について来てくれるとは。
 アンドレが大変な時ではあるけれど、胸の高まりを抑える事が難しかった。
 友情故と判っていても、彼の中に自分が場所を持っているのだと思えて。
「心強い。ご厚意感謝する、フェルゼン。アンドレも喜ぶだろう」
 それでも素直じゃない彼女は、窮地の幼馴染にかこつけて礼を言う。何故今その名を使うのか、自分の本当には気付かずに。
「何を他人行儀な、彼も私の友人だ」
 にやりと笑いを浮かべ、フェルゼンは外套を派手な仕草で羽織るとサーベルを振りかざした。
「では、いざ行かん我が朋よ。悪に囚われし姫君を助けに」
 おどけた姿も凛々しい。惚れた欲目でそう考えながら、自分も外套を着込んだ天邪鬼は、わざと呆れた口調で扉に向かう。
「あいつが姫なのか?」
 相棒のでかい姿と、姫呼ばわりはあまりにもそぐわない。
 しかしフェルゼンは更にニヤリと笑いを深めて、サーベルを鼻先で左右に振った。
「見目麗しく控えめで、芯が強くて健気じゃないか」
 体格はともかくアンドレの性質は確かにそうだ。あまりに的確な表現に、思わず吹き出す。
「まさに! 楚々として可憐、では無いのが実に残念だ」
「なになに。それでも騎士が、二人も駆けつけるだけの価値がある姫君さ」
 本人が聞いたらさぞへこむだろう会話を交わしながら、先ずは厩へ向かうべく、二人は部屋を後にした。





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カリオストロの罠

熊野 郷さま 作

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