パリの歴史は、ガリアを征服したローマ人が、セーヌの河畔にルテシアという街を築いた事に始まる。
物資の流通に最適の広い河と防御に適した中洲、そして彼等の街造りに欠かせない、豊かな石灰岩の地層。好条件が全て揃った北の要衝だった。
彼らは石灰岩を切り出してユピテル神殿を建て、街を広げ街道を舗装し、更に砕いてコンクリートへ加工してコロッセウムを作った。
やがてローマと文明が衰退し、一度は征服されたフランク人やその他ヨーロッパのバーバリアン勢が力任せに勢力を増していく間も、街は成長を続けていく。
パリと名を変え、樹が根を張るがごとく、地下の空洞を広げながら。
抜群に安定した、ヨーロッパプレートのど真ん中という、地殻変動を知らない磐石の地盤なればこそできた、無計画な都市建設だったが、十八世紀ともなるとさすがにツケが回ってきた。
パリの各地で地盤沈下や地下崩落が起こり、人々はウェハースの上に住んでいるのに気がつく。
それなりに聡明で真面目な国王ルイ16世は、地下の補強工事に着手し。それは約数百年以上続く、崩落との地道な戦争の始まりだった。
そして時期を同じく、飽和状態で疫病の温床となっていたパリ各所の墓地から、遺骨を地下道に移す作業も開始された。
いわゆるパリのカタコンベの始まりである。
後にこの地下世界は、フランスを蹂躙するナチスとそれに対するレジスタンス双方の拠点となったり、地下を愛する変人達(カタファイル)の憩いの場となったり、観光名所になったりと、数奇な歴史を積み上げて行くのだが。
か細いカンテラの明かりを頼りに、いつ天井が崩れるかとヒヤヒヤしながら進む四人組には、今のところ補強工事以外は関係なさそうだ。
「現在のように本格的で大掛かりな採掘は、十二世紀からなのだそうですよ。特に、ルイ十五世からこっちの建築ブームが拍車を掛けたお陰です。あ、そこ頭を気をつけて鍾乳石です」
ゴンドラの舳先に陣取ったワカメ頭が、得意気に講釈を垂れながら気儘にカンテラを振り回す。
お陰で影が異様に揺れるので、オスカルは悪酔いしそうだった。
「…おい」
「ヴィク、そんなに明かりを揺らされると、岩盤に激突してしまうよ」
彼女が堪りかねて文句を言う寸前、深いバリトンがやんわりと彼を制した。
「おお、これは失敬」
とぼけたワカメが前方へと光を固定させ、安定した視界にオスカルは小さく息を吐く。
そして自分の背後、船尾に立つ男の気配に首を傾げた。
長身の男は淡い金髪をカンテラの光に煌めかせながら、危なげなく竿を繰り船を漕ぐ。そのタイミングも船を伝う力加減も、なにもかもがデ・ジャ・ヴを呼び起こすのだ。
幼い頃の舟遊びの思い出と、ここしばらく失っていた安心感を。
「……解せん」
思わず呟けば、隣に腰を下ろしていたフェルゼンが振り向いた。
「どうした?」
「いや…」
後ろの男が、見た目以外の気配や仕草はアンドレにそっくりなので混乱しているんです。とも言えず、オスカルは曖昧に首を降る。
「そう心配するな。きっと見つけ出してやろう」
にっこりと、少々見当外れな励ましをくれる親友兼想い人。優しい言葉に苦笑で頷けば、彼は優しく背を叩き励ましをくれた。
何時もなら平静を保つのにかなり苦労する不用意な接触も、今日は全く動じること無く、彼女は目を閉じて唇を噛んだ。
今この瞬間も、命の危険に直面しているだろう幼馴染を思って。
四人の珍道中が始まったのは、二時間程前。
パリのセーヌ河畔に瀟洒な佇まいをみせる、とある貴族の別邸を訪れてからだった。
カリオストロ伯爵の逗留先と聞き、フェルゼンと二人で赴いた。
怪しい手紙に踊らされている気がするものの、実在するかも定かではないサンジェルマンを名乗る男を探すより、在住の確実なカリオストロをまず当たってみる方が堅実だからだ。
門番に訪問理由を話し家人への取り次ぎを頼む。ほどなく門が開かれ、まず現れたのは鮮やかな金髪の女性だった。
品良く柔らかな物腰のどこか少女じみた若い女性は、カリオストロ伯爵夫人のメイドでディアンヌだと名乗り、丁寧な挨拶をしてくれた。
柔らかで可憐な笑顔が、ロザリーに似ているとオスカルは思った。
彼女の案内で応接の間に通されしばらく待てば、にこやかな金髪の男性が現れて自分がカリオストロだと挨拶した。
彼は、オスカルが記憶する容姿とも一致する。
そこで二人は、訪問の理由と事情を切り出した。
「怪我をした男性? ええ、保護していますよ」
こちらの探し人を訊ねれば、拍子抜けするほどあっさりと彼は頷く。
「五日前に、路地に血塗れで倒れていたんです。そのまま、まだ意識が戻っていません。頭を強く打っているようなので、寝かせています」
落ち着いた深いバリトンの声を持つ男はそう言って微笑み、なぜジャルジェ家に連絡しなかったのかという問いには、申し訳なさそうに首を振った。
「彼は意識が戻りませんし、仕立ての良い服を着ている事以外、素性を示すものは一切身に付けてはいませんでした。まあ、いくら仕立てが良くても絹ではありませんから。ブルジョアの使用人か貴族の従者かとは思うものの、生憎パリにはまだ知人も少なく、私はベルサイユへの出入りは許されておりませんので、ジャルジェ家のご事情も、知らなかったのです」
すらすらと話す状況説明はどれも当たり前の対応で、なにもおかしなところは無い。
なのになぜ、何かが奥歯に引っ掛かっているような、すっきしない気がするのだろうか? オスカルは眉を寄せる。
何かに似ている。
男の口調、喋る速度、言葉の選び方。ついでに息遣い、視線の動き。
そうだ、アンドレが私を誤魔化そうとしている時に似ている。彼女は強烈にそう思った。
これが、オスカルがカリオストロにデジャ・ヴを感じた最初だった。
言い訳をしていても始まらない。どうぞ、本人を確認してください。と、カリオストロは立ち上がり扉へ向かう。
詰問の機会を逃したオスカルは、釈然としないままフェルゼンと共にカリオストロに続いた。
階上から女の悲鳴が響いたのは、彼女が扉をくぐった時だった。
悲鳴に弾かれ、三人が階段に走る。
しかし階段の上から身を乗り出したディアンヌは、まっすぐ庭を指差した。
「庭です! 彼が拐われました! ヴィクさんが追ってます!」
それにまず反応したのはフェルゼンで、持ち前の反射神経を披露して機敏に走る進路を最寄りのフランス窓に変更し、庭に飛び出す。
継いでオスカル。
少々遅れてカリオストロの順となった。
この館の持ち主は低い草花が好みらしい、生垣すらも腰までで広い庭が見渡せる。
冬枯れて雪にうっすら埋もれたほぼ素通しの遥か前方に、フェルゼンの背が見えた。
さすがは北国の男、滑る凍土をものともせずに駆け抜けていく。
酒の席で、自分はバイキングの子孫だと豪語していたのは、あながち見栄だけでは無いらしい。
走るバイキングのさらに前で、短い悲鳴を上げて誰かがコケた。
雪煙を上げて宙に舞うアッシュブラウンの髪に見覚えがある気もしたが、オスカルの意識は更に前方、何やら長い袋を担いで走る男に向かう。
四本の太い紐がぶらぶら揺れる長い袋。に、見えたものが、人間なのだと気が付いたからだ。
風花混じりの突風に見慣れた黒いポニーテールが翻る。
「アンドレ!」
悲鳴に近い叫び声が、オスカルの喉を突いて出た。
意識も無く、寝間着姿のままのアンドレを担ぐのは、奇妙な程背の曲がった傴男。
大荷物を担い、多少滑りながらも雪道を走って行く。
「アンドレを離せ!」
我ながら子供の様な恫喝だとは思うが、咄嗟に出た言葉ほど本心だ。探し求めた幼馴染みを確認して、オスカルは走るスピードを上げた。
何しろ地元民である。バイキングに負けてはいないし、ましてや大荷物を担いで滑りがちな犯人など逃がす気はない。
追跡の距離は確実に縮まって行き、傴が焦りだしたらしく、滑る数が多くなった。
後一歩だとオスカルは、踏み込む足に力を入れる。
だが、傴男は紐と杭で囲われた中に駆け込むと、おもむろにアンドレを肩から放り投げた。
やっと観念したかと思えたのは一瞬で、敵の真意に彼女は再び叫んでいた。
「アンドレー!」
叫び声は地面にぽっかりと口を開けた穴に響き、声では掴めないアンドレの体を深い闇が飲み込んでいく。
杭と紐で囲われた穴。
パリの現状を知る者ならそれが間違いなく奈落への入り口だと解る。
アンドレは、崩落した穴から地下へと落とされたのだ。
沸点は臨界を突破した。
「貴様! よくもアンドレを!」
腰のサーベルを引き抜き走る勢いに体重を乗せて、背を向けたままの傴に躍りかかった。
「ぶった斬ってやる!」
しかし、猛然と突進する彼女の腰を誰かが背後から抱き止め、次いで掬い上げられるように足が地を離れてしっかりした胸が背中に当たる。
刹那、オスカルは身を捩り叫んでいた。
「離せアンドレ! あいつを叩っ斬る!」
自分の台詞の奇妙さに気が付く前に、強い腕に抱きしめられた。
ふわりと、雪と深緑の薫りが混じり合う。
「武官が感情だけで行動するな!」
鋭く制され、息を呑むのと、傴が振り返ったのが同時だった。
人とは思えぬ真っ黒な顔面の真ん中に、望遠鏡の様なレンズが一つだけある奇怪な顔。そのレンズが横にスライドして、確かに自分を見た。
人外の嫌悪感にざわつく背筋は、次の瞬間冷たい雪原に押し付けられた衝撃に取って変わる。誰かがオスカルを押し倒し、背中に覆い被さって来たからだ。
「何を……!」
咄嗟の抗議は、轟音と閃光に掻き消された。
音が凄まじ過ぎると、耳が麻痺し身体に響く。一斉砲撃の演習で知ってはいるものの、これ程のものは初めてだった。
そして光が頬をなぶる。
うつ伏せてしっかり目を閉じていても、光が視界を白くする程の光量は、しかし不思議と肌は焼かず、雪と深緑の薫りに、今度こそ全て包まれた。
彼女にとって、無条件の安心感をもたらす幼馴染みと同じ薫り、そして頭を守る為置かれた大きな手。跳ね除けようと、もがく力を奪っていく。
後のサベルヌで、オスカルは似たような経験をするのだが。今はまだ、知る由もない。
光と火力の衝撃波が伏せた四人の頭上を荒れ狂ったのは、瞬く間だったかも知れない。しかし最中に直面した者にとっては、果ての見えない恐怖の時間だった。
全てが通り過ぎ、静寂が戻っても、しばらくは誰も身動ぎすらしなかった。
やがて、慎重な動作でオスカルの上から男が退いた。
彼女も身を起こしはしたものの、頭痛に襲われて思わず頭を押さえた。
衝撃波の余韻だろう。目眩と頭痛が酷く、挙げ句に麻痺した鼓膜が作る耳鳴りで頭がぐらぐらする。
米神を揉みながら、前を見もせずに手を出す。するといつも通りの場所に手が差し伸べられてきたから、当たり前に自分の手を乗せしっかり掴んだ。その手はこれまたいつも通りの力加減でオスカルを引き起こしてくれたので、彼女は何の疑問も持たずに立ち上がる。そして手を離し、やはりいつもの場所にある肩に感謝を込めて軽く叩く。
視覚に頼らずやり取りされる、ほぼ条件反射な一連の動作の締めは。『どういたしまして』と聞こえて来そうな優しさの込められた大きな手が、ポンポンと頭を撫でていってくれる、まったく何時も通りのものだった。
非日常の後の日常的な動作は、緊張と緩和の法則に乗っ取ってオスカルに笑いをもたらした。何だか大袈裟な出来事が、滑稽に感じられたのだ。
クスクスと笑いながら米神を揉む手を外し、当然あるはずの優しい黒い瞳へ目を向ける。
「なあ、お前どう思う……?!」
だが、そこにあったのは、同じく優しいけれど正反対の明るい薄荷色の瞳。
オスカルを取り巻いていた、日常の幻想が消え失せ、非常識な現実が戻って来る。
幼馴染みとばかり思い込み、しかも彼だけのリアクションを返していた相手が、得体の知れないカリオストロ。
あまりにも意外な状況に、ただ目を瞬かせた。
ではアンドレは?
爆発のショックで、空白のできた思考をまさぐれば、闇に呑まれるアンドレが脳裏に浮かぶ。
「そう……だ」
傴がカリエール(地下)へ放り投げた。
耳鳴りに心臓の音が重なり、頭痛と目眩が悪化し、吐き気までしてきた。
グラリと視界が傾いたのは、自分が斜めだからだと自覚する。
だが今倒れる訳にはいかない。
アンドレを助けに行かなければ。
必死で足に力を入れて、アンドレが落とされた穴を見る。
そこには池があった。
オスカルの直ぐ目の前から地面はさっくりと切り取られた様に消え、霙の降り始めた曇天が、泥混じりで渦を巻く水面に映り込む。
柵も杭も生け垣すら無く、眼前にはセーヌの流れが池に吸い込まれていた。
その光景が奇妙に歪んで見えて、次いで曇り空が暗くなる。
オスカルの意識は、それで途切れた。
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カリオストロの罠
熊野 郷さま 作
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