いくら貴族の屋敷といえど、パリの敷地には限りがある。
 素通しに見えていた光景の半分が、実は凍った河の景色だと判ったのは、壊れた河岸と穴に流れ込む濁流によってだった。
 晴れ間の増える春や夏ならば、空を映して青く広がるセーヌを背景に、この花園がさぞや美しい姿を見せるのだろう。
 この穴さえ塞がれば、だが。
 穴はかなり深い場所まで崩れ落ちているようで、音を立てて流れ込む水を際限無く飲み込んで行く。
 フェルゼンは、強く拳を握りしめた。
 エメンタールチーズのように穴だらけ、と揶揄されるパリのカリエール。
 パリの内臓だった石灰や石膏は、今や世界的に名の知れた一流品だ。そしてその為に掘り出された後の廃坑が、地下を複雑に延びて放置されていた。
 盗賊がねぐらとし、政府に仇為す不穏分子が逃げ込み、密輸の抜け穴として使われる廃坑。
 頑迷な古老等には、地獄に繋がり、悪魔と魔女が毎夜黒ミサの饗宴を繰り広げている、と信じられている場所だ。
 アンドレは今、その中の一つに居る。
「とりあえず、屋敷に戻りましょう。耳の治療と今後の対策を立てないと」
 そう声が(正確には手帳に走り書きの筆談で)掛けられ、フェルゼンは握りしめた指を開き、腕の中の親友を抱き直す。
 気丈な彼女が、これ程容易く卒倒するなんて彼は初めて見た。
 変貌した庭園の有り様に、糸が切れる様に崩れた姿が痛ましい。
 当然の様に受け止め抱き上げようとしたカリオストロから、奪うようにして取り上げたのは、親友を得体の知れない男に任せたくなかったからだけではない。
 近しい女性を、見知らぬ男に触れさせたくなかったから。
 了見が狭いがそれがフェルゼンの本音だ。
 連れ去られる幼馴染へ叫んだ声が、耳鳴りしか聞こえなくなった耳に蘇る。
『アンドレ!』『アンドレを離せ!』
 その声は、彼には『行かないで』『奪わないで』という懇願に聞こえた。
 今朝もそうだ。
 オスカルではなく、姉妹の誰かだと言われても納得してしまいそうな程、儚く寄る辺無い不安に包まれた女性がそこに居た。
 彼の訪問に、すがるかのごとき視線を投げ掛けて来た時、思わずその手にくちづけて、憂いを晴らしましょうと騎士の誓いをぶち上げたくなった程だ。
 あれこそが、剥き出しにされた彼女なのだろう。
 常に見る凛々しい近衛連隊長は、アンドレに守られ支えられているからこそだと納得する。
 長い付き合いでアンドレの気持ちは見えてきていた。友情や忠誠や信頼等々、いろんなものに包んでいても、その根底にあるのは自分と同じく愛する女性へ寄せる想い。
 オスカルの方に自覚があるかどうかは、甚だ心許ないが、アンドレの存在が大きな位置を占めるのは、間違いは無いだろう。
 あの方が仰っておられた通りだ。と、フェルゼンは思いを巡らす。
『オスカルに、貴女に女性としての心を求めるのは無理なことでしょうか? と言ってしまった事があるのですが…あれはわたくしの醜い嫉妬なのです』
 オスカルは、本当の孤独も本当の孤立も知らない。彼女は思いやりの深い優しい人ではあるけれど、回りが全て自分に悪意と野心と好奇心しか向けない状態も、そこに一人で居続けなければならない状態をも知らないだろうし、知ることもないだろう。
 振り返りさえすれば、絶対の信頼と絶対の愛情が自分を守っているのを確かめられるのだから。
『わたくしには、それが羨ましい』
 フランスで最も敬愛され守られているべき人は、建前しかない自分の周りと真実を得ているオスカルとの違いを、苦笑混じりにそう語った。
 あの時は、このフェルゼンこそが貴女の側で真実となりましょう。などと手を握って誓ったものだ。その気持ちに偽りも変化も無い。
 だが……
 同じ男として、自分にはアンドレの様な愛し方は無理だとフェルゼンは知っている。
 滅私にも見える程自分を押し付けず。かといって無理をしているでもない自然体で守り続けながら、奇妙な事に彼はオスカルを甘やかさない。
 立場もあるだろう。自分とあの方と同じように、二人の間には身分の隔たりがある。
 それでも自分では、ほんの少しの風にもあの方を当てたくはないと思う。立場が許す限り、いや、それすらも越えてあの方をお守りしたい。たとえそれで、彼女の行動や自由を妨げる事になったとしても。自分の守るとは、そうやって全てを包む事だから。
 アンドレは正反対だ。
 彼はオスカルを妨げ無い。野坊主に放置している訳でもない。が、諌めるべきは諌め、止めるべきは体を張ってでも止める癖に、オスカルが熟考と決意を以て出す結論には、どれだけ無茶でも諾と言う。
 彼女が怖じ気付いたら、背中を突飛ばしてでも前に進ませる。
 並みの男には、できない芸当だ。
 愛情と決意と精神力。
 アンドレという優れた男を、ジャルジェ将軍が何故従者のままに捨て置くのか、フェルゼンには何時も不思議だった。
 霙が強くなってきた。
 濡らさないように抱え込みながら、フェルゼンはその儚さに痛みを覚える。
 雪道を抱えて歩くのに、何の支障も無いほど軽い体。
 背丈に比べて、骨格が華奢なのは知っていた。
 酒とショコラを同等に飲める豪快さに誤魔化され易いが、どちらかといえば食も細い。
 どれだけ鍛え上げても筋肉が着かない、と以前ぼやいていたのを思い出し、本来はたおやかな女性なのだと、改めて認識した。
 こんな彼女を今まで守り、性質を損なわせずに人生を突き進めさせたのは、ジャルジェ家の事情以上にアンドレの功績なのだろう。
 そしてこれからも、オスカルの人生にはアンドレが不可欠だと、フェルゼンは思う。
 この稀有な親友を守る為にも、自分としてはもう一人の親友と思っているアンドレを、必ず助け出そう。
 腕の中の女性の想い人など露程も知らないで、本質だけを真っ芯に捉えた北欧の騎士は、親友の救出を心に誓う。
 地中に何が待ち受けるのか? しかし、どれ程の困難があろうとも、ディアブル・ヴォヴェール(緑の谷の悪魔)の手中からアンドレを取り戻す。
 決意を胸に、彼は足早にカリオストロが開けてくれた扉をくぐり、屋内へ飛び込んだ。

さてその頃。ジェローデルは困惑して上司を見ていた。
「? どうした?」
 柔らかな声が柔らかな視線と共に寄越される。
 問題はその視線と口元の微笑みで、それは未だかつて彼に向けられた事は一度もないものだったから。
「いえ……今日は休日でいらしたかと、記憶しておりましたので」
 上官の勤務予定を把握するのも、副官の勤め。これくらいは当然だ。
 それに昨日は付属品の不在で難渋していた彼女の補佐をして、休日は一日従者の行方を探すと聞いていた。
 目を輝かせて心待ちにし、しかも自分が行けばたちどころに見つかると信じている様子がみてとれたのを、内心残念に思ったものだ。
「ああ、そうだとも」
 はたしてにこやかにうなずいた上官は、優雅な動作で自分の執務机に手を乗せて、今しがたジェローデルが持ってきた書類に目を落とす。
 彼は、明日一番で承認を貰う必要のある書類を、上官の机に置いておく為に彼女の執務室にやって来た。
 上官不在の時は、そうやって急ぐ書類を予め届けておくのが彼の常だったからだ。その為に留守中閉ざされる執務室の鍵も、預かっている。
 先程も、書類を携え鍵を開けたのだが、執務机の向こうに見慣れた背中が窓辺に佇んでいたの見て、かなり驚いてしまった。
 目を見張る彼に、上官は優しく微笑みを向けて来て、それがジェローデルをさらに困惑させている次第だった。
「手掛かりを掴んだのでな」
 さらさらと書類にサインを認めながら、彼女は言葉を続ける。
「ある貴族が、あいつの行方を知っているらしい」
 細い指と羽ペンが、窓からの薄日に濡れ、机上に淡い影を踊らす。その机の上はというと、昨日までの混乱振りは影もなく、何時も通りにすっきりと機能的に整えられていた。
 まるで、付属品がしたかのように。
「今其奴を捜させているのだ。宮殿内に居ることだけは、間違いない」
 机の秩序を回復させたのは、現在手掛かりの捜査に出ている人物だろうか?
 埒もない考えを巡らせる。
「待たせたな」
 ジェローデルがはっとして顔を上げると、上官はサインした書類を見直しながら身体を起こしたところだった。承認の終わった書類に、もう一度目を通してから返してくるのは、職務に強い責任感を持つ彼女の常だ。
「まだしばらくはここに居る。急ぐ承認書類が有れば持ってきてくれ」
「了解しました」
 書類を受け取り、しかしこのまま帰るのも惜しい気がする。
「隊長、もし差し支えなければ、昼食かカフェをご一緒して下さいませんか?」
 駄目で元々、今日の彼女の柔らかな雰囲気に期待して誘いを掛けた。
「貴公が誘うとは珍しいな」
 きょとんと目を見張った上官は、少し思案して見せてから頷いた。
「そうだな、珠には良いだろう。貴公の手が空いたら、ご相伴するとしよう。声を掛けてくれ」
 昨日に引き続き、幸運は我が頭上で微笑んでいる。
 ささやかな勝利の喝采を心の中で聴きながら、そんな中身は曖気にも出さずに、ジェローデルは静かに会釈した。
「楽しみにしております」
 微笑んで背筋を伸ばした時、ノックの音が室内に響く。
「開いている。入れ」
 休日中の連隊長執務室に、一体何の用なのか?
 訝しむ彼に頓着せず、上官が凛とした許可を出す。
 短い応えと同時にドアが開かれ、彼のささやかな幸せの空間は破られた。
 ずかずかと入って来た間の悪い無粋な男に寄せた眉は、ハテと疑問視に変わる。
 見知らぬ男だ。白い近衛士官の制服を身に纏い、黒髪を奇妙な程短く苅った三十絡み。
 記章は少尉。
 目鼻立ちが悪くないのは近衛の条件としても、引き結ばれた口元や大柄で均整のとれた体つきには典雅さよりは野性味が溢れている。何より、拳を額に付けて敬礼した動作と黒い目からは、精悍さと隙の無さが見て取れた。
 それらは実戦を潜った者だけが持つ、独特の凄みを滲ませる。
 アメリカ帰りなのかも知れない。義勇軍には、近衛からも多数志願者が出たから。
 ほんの数舜の観察でそう読み取り、更に困惑を深めた。
 こんな男、自分達の連隊に居ただろうか?
「どうした? ジェローデル」
 不機嫌に新顔を見つめる副官に、上官が苦笑する。
 俄に我に返ったジェローデルは、一瞬この男の事を問おうか逡巡したが、上官に説明する意思がないのを読み取り、そのまま胸に手を当て会釈した。
「では、後程お迎えに上がります」
 男を目の端で捉えつつ、敢えて親密さを強調する。
「ああ、よしなに頼む」
 直立姿勢を崩さずに上官からの指示を待つ男は、にこやかに微笑む上官にも、その手を今にも押し戴いて口づけでもしそうな副官にも、眉ひとつ動かす事はなかった。
 やはり説明のない上官に、いきなり線を引かれた気がするが、これ以上留まる理由も見出だせず、ジェローデルは踵を返して扉に向かう。
 退出するまで、上官の微笑みが見送ってくれたのが、せめてもの慰めだった。
 自分の執務室に向かいながら、ジェローデルは見知らぬ士官を考える。
 机を整えたのは彼だろうか?
 男が入って来た時に上官が一瞬浮かべた、待ちかねていたような喜びの笑みが無性に気にかかるのだ。
 あの笑みは、男の来訪を喜んだのか、それとも男が携えているだろう捜査の報告を期待したのか?
 なんにせよ、自分と彼女の間に、付属品以外が挟まってくるのは不快に思えた。
 俄に焦りを感じる。
 付属品が彼女の側に居るのを是とできるのは、有能さや彼女との近さを差し引いても絶対に埋める事の無い身分の隔たりがあるからだ。
 近習、もしくは腹心の共が限界で、彼女と並び歩く『男』にはなりえない。神が分けた隔て。
 だが、あの男には曲がりなりにも身分の違いはない。近衛士官なのだから、貴族なのは間違いないのだ。
 家格の違いは有るかも知れないが……
 ふと廊下の途中で彼は立ち止まり、苦い笑みで唇を歪めた。
「卑小な」
 ジェローデルは、自分が並べ立てた『個人の及ばぬ異差』に激しい羞恥心と嫌悪感を掻き立てられる。
 これではまるで、弱者を虐げ特権にしがみつき、自らを省みすらしない愚かな貴族そのものではないか。
 彼女が何より嫌う愚昧な輩。
 そんなモノに成り下がるなど、彼は真っ平だった。
 彼女と付属品を考えると、いつもこれの繰り返しだ。と、ジェローデルは深く息を吐く。
 他人の欠点を、ましてや能力に関係の無い生まれそのものをあげつらう、全く以て恥ずべき卑怯。
 そんなもので自己評価をかさ上げしてどうなる?
 まだまだ鍛練が足りないと、彼は自嘲を口元に浮かべた。
 砂上の楼閣よりなお脆い虚構にすがるよりも、己を磨き実力で彼女を得れねば意味はない。
 国王陛下を護る騎士団たる近衛の隊長の伴侶に、実力の無い自尊心だけの男を並べるなど、例えそれが自分だとしても許せない。
 彼女が背負うすべての重積を取り除き、穏やかな平穏を与える事ができるだけの度量と実力。そして公平で秩序正しい者でなければ、彼女には相応しくないのだから。
 騎士としての高潔さと誇りを胸に刻み、彼は顎を上げて歩きだす。
 これが、後に斜陽の兆しを見ようとしないブルボン王朝の中に於て、善良にして気高い最後の近衛連隊長となるジェローデルの、最良の資質にして時代に沿えない限界であると言えるだろう。




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カリオストロの罠

熊野 郷さま 作

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