それを表現するなら、地獄の門が開いた、とでも云うのだろうか?
アンドレは粗野な怒鳴り声に深い眠りから引き上げられた。
途端に全身がじくじくと痛みだす。
昏睡から覚めたばかりの朦朧とした状態の彼には、回りの喧騒と相まって悪魔の黒ミサの祭壇に縛り上げられているかのように感じた。黒ミサがどんなものかは知らないが。
何故自分はこんなところに居るのだろう?
熱でもだして寝込んでいて、おばあちゃんの怒鳴り声がこんな風に聞こえるのかも。
埒もない事が頭を掠めた。
だが、覚醒していくにつれ、現実はもっととんでもないと判ってくる。
何しろかなり肌寒く、毛布や寝台の感触はない。しかも体の下にあるのは寝台では無く明らかに砂利を被った岩だったし。うっすら目を開けば、見覚えのない白い剥き出しの石柱が見えるのだから。
聞こえる声も野太い。男が何人も同時に声を張り上げているもののようだ。
罵り威嚇し、相手を制圧しようと被せ掛ける。穏やかな話し合いとは程遠い。
起き抜けの混乱が収まると、なんとか状況を冷静に把握しようという意識が強まってくる。
哀しいかな彼には、目が覚めれば異常な状況。という経験が、一般人より多少は多かった。
主な原因は、突発的な思い付きを彼にだけは遠慮無く付き合わせる、幼馴染兼女主人のお陰だ。
朝目を開けたら隣で寝ていたり、とか。遠乗りの日ともなれば、馬乗りになって叩き起こしたり、はたまた真夜中、酒壜抱えてこそこそと、耳許で酒盛りへの誘いを囁きに来たり。等々
そうして培われたのは、まず自分の状態を確認し、回りの状況を把握し、対処を考える糞度胸。
何はともあれ、体が動かなくては始まらない。
鈍痛に眉を寄せながら、そろそろと指を動かしていく。
手から始めて足の指、肘、膝、腹と胸に腰、最小限の動作と力の抜き差しで異常が無いかを確認する。
手足をおざなりにくくられている以外は、大した拘束は無い。
鈍痛は打ち身だろう、骨にも異常はなさそうだ。
明らかに負傷していると思われるのは左肩。
動かす度に鋭い痛みが走り、何か巻かれているらしく圧迫感がある。
そういえばと、思い当たる節もあった。
夜襲を受けて狙撃された時、弾が肩を掠めて怪我をしたような……
ぼんやりした記憶にアンドレは眉を寄せた。
夜襲を受けて狙撃され、自分は捕まったのだろうか? でも誰かが、助けてくれたような気がしてしょうがない。
年上の、精悍な男…だったような?
しかし助けられたなら、何故自分はこんなところに転がって居るのだろう?
それに、オスカルがずっと側に居たような気がする。
いや、あれは夢だ。
柔らかな感触を生々しく思い出して、アンドレはあわてて思索を打ちきった。
とにかく、体は動く。
では次にするべき事は?
ここは何処なのか、向こうで喚き合っている男達に聞くべきか?
いくらなんでも、それが愚策なのは間違いない。
今にも殺しあいが始まりそうな凄まじい怒声の応酬に割って入れるとしたら、よほどの強者か阿呆だ。
それに良く響く岩壁が伝える争いの内容は、拾った寝間着の男をどこぞに売り払い、その代金の分配についてのようだった。つまり、靴どころかキュロットさえ履かずに、薄い布だけを纏った自分の事だろう。
若い娘ならいざ知らず、大の男をどこに売るのかとは思うものの、カレーで軍船か奴隷船にとか聞こえては大人しく寝ては居られない。
まだまだ人命が軽い時代だから、うっかりしていては未来は無い。
もっともこの頃のアンドレには、平民の命が重くなる時がくるなど、思いもよらない事だろうが。
そんな詮のない時代に生きる者として、彼は迅速に身を守る行動に出た。
すなわち、目の前の石柱の影に身を寄せたのである。
素人丸出しの縄の結び目を歯で緩めながら、彼は回りをゆっくり見回す。
奥で焚かれているらしい焚き火の明かりが、等間隔に並ぶ石柱の影を不安定に揺らしていた。
地下のワインセラーに似ているそれらは、アーチを連ねた石天井から受ける印象の処為らしく。床はと見れば、石切場の様に粗く削り取られた跡が見て取れる。
広い穴蔵だ。何となく場所の見当として、パリのカリエールではないかと思った。
根拠としては、岩壁は明らかに人の手がかけられた跡を曝していたし、彼が身を潜めた石柱は、形を揃えた石が組み合わせて積まれれた、人為的なものだから。
それにこの石は、明らかに石灰岩だった。柱にして残される位だから、他の石が混じった質の悪い部分なのだろう。
カリエールではないのなら、他の坑山か? だとしても、遥かな遠方に自分が連れてこられた挙げ句に、坑道に放置されて盗賊に拾われた経緯と理由は何なのだろう?
さっぱり判らない。
判らない尽くしだが、ひとつだけ解っている事が重要だ。
ここから逃げなければ、オスカルの元へ帰れない。 夜襲を受けたあの夜は、昨夜なのか何日も前なのかわからない。もし何日も経っているなら、オスカルはきっと心配しているだろう。
屋敷の仲間や旦那様や奥様にも迷惑を掛けたに違いない。何より祖母の怒りに震える姿や、散らかり捲った執務室で途方に暮れたオスカルが目に浮かぶ。
それはとてつもない恐怖だ。
オスカルはインク壺の場所すら知らないのだから。今頃どんな有り様になっている事か。
アンドレは大きな息をゆっくりと吐き出し、朧気な記憶しかない月の凍夜へのもどかしさを、今は必要無いと切り捨てた。
彼にとって、オスカルに関わる事が最優先事項で。極端な話、他は全て切り捨て可能だと言える。
そのあたり、彼の祖母の教育の賜物なのか恋心の成せる技か。
とにかく、アンドレはあれこれ疑問点をつつくよりも、目の前の脅威に集中する事にした。
まずは身の安全の確保。そして脱出方法。
素足の上に、徒手空拳。改めて己が様を見下ろせば、なんとも頼り無い毛織りの寝間着一枚で、脛がにょっきり付きだし間抜けでしょうがない。
それでも肢体は問題無く動くし腕の怪我も大したことなさそうだ。包帯の巻き方は、素人の仕事ではないのが解るしっかりしたもので、少々動いてもずれそうにない。
立ち回りさえしくじらないなら、脱出は可能だろう。
怒鳴り合いはまだ続いている。連中がこちらに関心を向けない内に、この場所から逃げおおせねば。
アンドレはゆっくり回りを見渡した。
自分の居る場所は、かなり広く長い空間になっている。焚き火の光が届かない暗がりがアンドレの左右に見えた。
どちらかか、または両方に出口があるはずだ。
石柱は等間隔に並んでいるから、柱の陰を伝えば暗がりに身を潜める事が簡単にできるだろう。
そうして安全を確保できたら、そこからが勝負になる。
素早くざっとした計画を立てると、極力姿勢を低くして、なかば四つん這いになりながらそろそろと柱の陰から這い出て行った。
「ヴィク、次の角を右に」
不意に背後から声が飛び、オスカルははっと息を呑んだ。
途端に足が縺れ、身体が沈む。すぐ前のフェルゼンを巻き込むまいと咄嗟に壁へ手を着こうとしたものの、僅かに届かず。伸ばした指が空を掻く。
このまま無様に膝を着けば、採掘跡の切り立った角が目立つ足元で怪我を負うのは必至。オスカルは覚悟してきつく目を閉じた。
「やっぱり」
膝を割く筈の石の尖牙は、すんでで腰を抱えた大きな手に阻まれていた。
崩れる彼女を、背後からしんがりの男が抱き止めたからだ。
「意地を張らずに、疲れたなら言えばいい」
ぼやきにも似た呟きが耳元で囁かれ、オスカルの背に表現の難しい戦きが走る。
「離せ…」
なんとか上体を立て直して身を捩れば、あっさりと手が離れていく。
何故だかその素っ気なさを残念に感じてしまい、自分の気分にカッと頬が熱くなった。
普通の自分なら、男などに簡単に触れさせはしない。唯一の例外を除いて。
そしてその例外は、子供の時分ならいざ知らず。それなりの分別を翳す歳になり、よほどの緊急事態では無い限り腕や肩位にしか触れる事など無い。
それなのにこの男は、いとも当たり前と手を伸ばしてくる。
この炭坑探険の始まり、セーヌから流れ込む地底河の船を降りる時からしてそうだった。
催合代わりに鍾乳筍石に綱を繋ぐと、揺れる船底に難儀していた彼女の前にカリオストロは手を差し伸べてきた。
しかもそのタイミングや力加減。挙げ句に感触が、またもや同じなのだ。
幼い頃の舟遊びどころか、常日頃の馬車から降りる時の手助け等々。あまりにもそのままで。オスカルは条件反射で手を乗せては、見返す顔だけが違う違和感に愕然とする。
この繰り返しだった。
一体この男は何者なのか?
気味悪さともどかしさに唇を噛みしめ、極力後ろのでかい男を頭から追い出そうと鉛の様に重い足を前に出した。
「ほう…これは」
カンテラに照らされ、浮かび上がる光景に、フェルゼンが感嘆の声を漏らす。
それほどに目の前の泉は美しかった。
白い石灰岩は深い青に水を染め上げている。泉の淵には、どのような石工の手になるものか、簡素ながら洗練されたレリーフが刻まれており、パリの街角のような佇まいだ。
雑踏の土埃を被ること無く造られたまま、地の底で時を止めたかのごとき湧水。
さながらコキュートスに隠された憩いの場、と言ったところか。
泉の側には石壁を削ったベンチまである。
カリオストロが、その内の一脚に持参した毛布を敷き広げて、貴人二人を招いた。
「休憩にしよう。どうぞこちらに」
にこやかに示される座面へ、オスカルは緩慢に首を振る。
そんな暇はない。一刻も早くアンドレを助けに行かねば、手遅れになるかも知れない。
そう言いたかったのだが、声を出すのも億劫で、しかも首を廻らすのさえ辛いのを自覚してしまう。
実際体は鉛の如く重く、未だ傴男の爆発で受けた痛手が、回復叶わず尾を引いているのだと痛感した。
「言われてみれば些か疲れたな。オスカル、すまんが少し休ませてくれ」
フェルゼンがそう言い、さっさとベンチに腰を下ろす。
素直になれないオスカルを気遣ってくれたのだろうが、座って直ぐに深いため息を吐いた。
口実だけではなく、慣れぬ地底探険で彼もかなり疲労していたらしい。
親友兼想い人にこうまで言われては、彼女も意地を張り通す訳にも行かず、肩をすくめると隣に腰かけた。
途端に体から力が抜け落ちていくのを感じ、御同様に深いため息が漏れかけるのを呑み込む。
付き合っているという姿勢を崩さないが為の意地だった。
「さ、どうぞ」
笑みを含んだ声と共に、金属製のカップが二つ目の前に差し出された。
「特性ブレンドティーです。疲れが取れますよ」
見覚えのある顔が、見覚えのない表情でにこやかににカップを薦めてくる。
「メルシーヴィク。有難い」
またもやフェルゼンが気前良く受け取り、勢いに釣られてオスカルもカップを手に取った。
紅茶とは違う爽やかな薫りがして、それだけでも息苦しい程の疲労が軽くなる気がする。
「ほう…この香りは緑茶かな?」
フェルゼンの問いに、茶を持ってきた相手は、改心の笑みを浮かべて頷いた。か
「やはり博学ですね。抹茶を基盤に、生薬を組み合わせた薬草茶です。熱いですから気をつけて」
忠告に従い、よく吹いてからそろりと口に含めば、強烈で爽やかな苦味が口内に広がる。茶とは甘いものだという先入観があった為に少々驚いたが、しかしむしろそれ故に疲労で酢いた口内が洗われて、呑み下すのも抵抗はない。
さらにその後に口内と喉元に感じる仄かな甘味と腹に流れ落ちる暖かさが、体の中に織の様に積み重なった疲れを取り去ってくれる気がした。
堪える暇もなく深いため息が吐き出される。
だが、馬脚を顕してしまった悔しさよりも安堵感のほうが勝り、隣でやはり息を吐いたフェルゼンと苦笑しあった。
茶と『ボタ』という名のモチなる東洋の菓子を食べて、人心地がついてくると、
オスカルはやっと、同行者達を観察する余裕が出てきた。
疲れはあってもまだまだ余裕綽々なフェルゼンの頼もしさに薄く微笑み、次に別のベンチに休む得体の知れない二人を見る。
カリオストロと並ぶのは、ヴィクと呼ばれる男。
正式にはヴィクトル・クレイマン・ド・サニ=アレサ・ジェローデル。と云うらしい。
オスカルの副官、ジェローデル少佐とそっくりな男だ。どうやら先日の夜会に現れたジェローデルはこの男らしい。
何しろオスカルの顔を見るなり、『先日は大変失礼をいたしました。すっかり酔っておりましたので』と、深く腰を折ってきたのだから、間違いはないだろう。
ヴィクの弁に拠れば、遠い昔に分家した傍流の家系だとかで、ジェローデルを名乗ってはいるものの、もはや付き合いすら無いらしい。
かなり眉唾物だ。
しかも錬金術仲間だというのだから、胡散臭い事甚だしい。
緩くウェーブのかかったアッシュブラウンの髪を背に流し、薄い色の瞳に笑みを絶やさぬお調子者。
冷利な顔立ちに浮かぶ人の良さそうな満面の笑みは、違和感の最たるものだろう。
サン・ジェルマンではないが、偽物にご用心とはまさに至言だとオスカルは思った。
そして……
ヴィクと談笑しているカリオストロに視線を流し、薄暗がりに浮かぶシルエットにどきりとする。
長身を折るようにして両膝に肘を付き、両手でカップを包む姿がまたもや既視感をもたらしたからだ。
冬の馬房で差し入れのカフェを飲みながら、たわいのない話をする幼馴染が脳裏に浮かぶ。
カンテラの逆光で髪や顔立ちの違いが目立たなくなると、カリオストロとアンドレの似た部分だけが目立ってくる。
動作だけでは無く、体つきまで彼等は似ていた。
いや。先程の囁きで気が付いたが、声質もアンドレより多少低いだけで良く似ているのだ。
真っ暗闇の中だと、多分自分には区別が着かないのでは無いだろうか?
なんという体たらく。
誰よりも、何よりも近く、長く傍に居たというのに。今日会ったばかりの男と混同するとは。
オスカルは我知らず唇を噛みしめていた。
薪割りの合間の息抜きで、切り株に腰かけていたアンドレを思い出す。忙しい彼を顧みもせず、自分は何度心無い罵倒でからかった事か。
今頃どれだけ辛い思いをしているのだろう?
カリエールに落ちていくアンドレをもう一度思い浮かべ、オスカルはカップに残った茶を飲み干した。
必ず助け出す。
新たな決意を込めて。
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熊野郷さまからのご伝言
亀の歩みな進み具合ですが、なんとかそろそろクライマックス手前となっております。。
ご迷惑をおかけいたしますが、完結目指して頑張りたいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
そして、リクエストまでくださった方に、心からの感謝をさせていただきたいと思います。
熊野郷
カリオストロの罠
熊野 郷さま 作
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