それは、バルトリ侯爵のちょっとした思いつき、いや、思いやりから始まったというべきだろう。
したがって、どこからどう見ても、また誰が見ても悪意のあろうはずがなく、侯の今までの生き方同様、一点非の打ち所のない完全なる善意から発生したできごとだった。
一方その思いやりの唯一の対象となったアンドレもまた、侯の好意には言うまでもなく大変感謝していたし、もったいないことと恐縮すらしていた。
平民である自分を義理の兄弟と認め、身内として遇してもらうことに、感激しないわけがないのである。

どうでもいい前置きはこの辺にしておこう。

ことの始まりは、どんぐり屋敷に届いたニコレットの誕生祝賀会の案内状だった。
これが今回の悲喜劇第一章の幕開けを告げるファンファーレだったのだ。
もちろんこの時点でそれを理解していたものは、ない。
バルトリ家としては、一人娘の慶事に、当然のごとく近所に住む妹夫婦を招待した。
内々ですることなので気遣いは要らないから、ぜひ夕食をともにして、ニコレットの生まれた日を祝ってやって欲しい。
いたってまっとうな文面だった。

だが、オスカルは現在懐妊中でその上、絶対安静の身である。
七月にノルマンディーにやってきてから一ヶ月あまり、夏の終わりとはいえ太陽はいまだ高く、身重の彼女が出歩くには厳しいものがあった。
しかも、いささか、いや相当苦手な姪が主役の会だ。
出て行けば何を言われるかわからない。
できれば欠席したかった。
もちろんバルトリ侯夫妻には筆舌に尽くしがたき恩義がある。
なんとしても不義理はしたくない。
そこで、アンドレだけが訪問する、という案が最近屋敷にやってきた料理人の妻から出された。
オスカルはそれに一も二もなく飛びついたのだった。

晩餐を、ということだから、アンドレは午後にどんぐり屋敷を出発し、その夜はバルトリ邸に一泊させてもらって翌朝に戻る。
これで完璧に義理は果たせるわけだ。
オスカルは長椅子に横たわったまま機嫌良くアンドレを見送った。
そしてアンドレは心づくしの祝いの品とともに馬上の人となった。
久しぶりの外出である。
オスカルにつきあってまるで軟禁状態だった彼も、すこぶる気分が良かった。
夏の陽差しも健康な男性には栄養剤だ。
アンドレは額を伝わる汗をぬぐいもせず足取り軽く馬を走らせた。

そんなアンドレを総出で迎えたバルトリ家の人々は、夫婦に招待状を出しておきながら、誰一人オスカルが来るとは思っていなかったらしく、アンドレの単身での出席をとがめる気配すらなかった。
もともと、絶対安静を医師から厳命されてるオスカルに招待状を出すのがとうか、という家庭内議論になったのだが、クロティルドが、一応出すだけ出さないと、あの子は無視されたと思って機嫌を損ねる、と主張するので、形式的に名前を連名にしただけだったのだ。
「げんこつも当たらなければ欲しいもの。あの子のようなあまのじゃくは砲弾ですらほしがります。招待状に名前がなければ、それこそひがんであとでアンドレが苦労するに決まっています。」
充分説得力のあるこの言葉に、皆、従い、客用の食事は一人分しか用意せずに、一家はアンドレの到着を待っていた。

この時点でのアンドレは、まだオスカルの姉一家に対し、主従という感覚が抜けず、ニコーやニコレットに対しても、オスカルのように呼び捨てするのがはばかられて、応対するときの言葉遣いにも、とても気を遣っていた。
アンドレが心底彼らに対する心の壁を取り除くのはやがて訪れるノエルからである(参照「どんぐり屋敷の三賢者」)。
ために、打ち揃って出迎えてくれた一家に対し驚愕と緊張でもってアンドレは挨拶した。
「お誕生日、おめでとうございます。オスカルからもくれぐれも祝意を伝えて欲しいとのことでした。」
奇妙なことだが、ニコレットへの祝いであるはずなのに、侯爵夫妻へ賀詞を述べてしまっている。
アンドレにとってこちらに敬語を使うのはいわば当然だから、ニコレットに話しかけるよりずっと気楽なのだ。
無意識のうちに、会話をするときは夫妻に向かう癖がついていた。

「わざわざ呼びつけてかえって悪かったね。だがせっかく来たのだから、ぜひ楽しんでいってくれたまえ。」
侯は穏やかにワイングラスをとった。
「そうよ。ここにはオスカルはいないのですからね。たまにはあなたものんびりしなさいな。」
気の良いクロティルドは、手ずからグラスを渡してくれた。
アンドレは恐縮しつつ、ありがたくグラスを受け取った。
いつの間にボトルを手にしていたのか、ニコーラが笑いながら注いでくれる。
「母上、オスカル・フランソワといると、そんなにくつろげないのか、という風に聞こえますよ。そうなの?アンドレ。」
若さあふれる邪気のない青年の言葉に、アンドレは思わずグラスを口元からはずしてしまった。
「まあ、みんなでいじめて…。かわいそうなアンドレ。誰が見ても明らかなことをわざわざ口にするのは、子どものすることよ、お兄さま。」
16歳になったばかりの今夜の主役が、ピシャリと言い放ち、さあ皆さま、乾杯してくださいな、と自分で口火を切った。

さすがジャルジェ家の血をひく女性である。
この身も蓋もない断言ぶりは、ジャルジェ伯爵夫人に始まって、マリー・アンヌからオスカルまでの六姉妹に遺漏なく受け継がれ、ル・ルーやニコレットら孫娘たちにも脈々と流れている。
世間的には相当に有能と評価されている彼女らの夫君方は、こう言われると、借りてきた猫のようにおとなしくなるのが常であったが、次期バルトリ侯爵であるニコーラも例外ではなかった。
子ども扱いされて、唇をとがらせてはいるが、反論はしない。
いや、できないのだ。
グラスを取ったニコーラに、今度はアンドレが笑いを押し殺してワインを注いだ。

なごやかで暖かくて、心地よい祝いの席だった。
少し飲み過ぎたか、と思うくらい、アンドレは杯を重ねた。
本来なら、到底同席できるはずもない場所で、まったく自然に受け入れられていることが嬉しくて、ありがたくて、ニコーラが次々と注いでくれるワインを、きれいに開けていった。
もちろん酔ったとはいえ、分はわきまえているから、会話に失礼などはない。
ただニコニコとほほえみ続けていただけだ。
「わたくしの誕生日なのに、アンドレの方が嬉しそうね。」
ニコレットの言葉に、まったくだ、とうなずき返し、アンドレは
さらに飲んだ。



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深き河はあれども…

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