晩餐がお開きになってから、この酒を冷ましておかなくては明日帰れない、と思うほど、アンドレの足下はふらついていた。
このまま寝台に入れば酒臭さが残り、帰宅後、オスカルの機嫌をそこねてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
アンドレはフラフラとしながらも、庭に出ることにした。
風にあたろうと思ったのだ。

夏の夜とはいえ、風が木々を揺らすと、涼やかさが感じられてなんとも気持ちがよい。
少し歩くと噴水を備えた池に出た。
水を渡る風は湿気を含んでひんやりとしている。
酔い覚ましにはもってこいだ。
池の縁に腰を下ろした。
見上げれば、月がまもなく満ちようとするときで、豊かな光が木の葉の間から差し込んできた。
幸せなひとときである。
このノルマンディーに来ていること自体が不思議なくらい幸せなことだと自覚しているが、今夜はまたその思いが一層格別だ。
それもひとえに心広いバルトリ侯爵のおかげである。

アンドレがそう思っているのを察したかのように、池の向こうに侯爵父子が現れた。
「酔い覚ましの仲間があそこにもいますよ、父上。」
ニコーラの声が風に乗って池を越えてきた。
「気持ちよい酒でほろ酔い気分になるほど幸せなことがこの世にあるか?もう何もかもがどうでもいいと思えるほどの心地よさだ。」
めずらしく侯爵が雄弁だ。
これもまた酒のせいであろうか。
息子の方が苦笑している。
「今夜は月がきれいですね。」
ニコーラが空を見上げた。
侯爵がつられて顔を上げる。
アンドレも再び天をあおいだ。
「こんな晩に船を走らせると最高ですよね。」
ニコーラが何気なく言った。
そう、まったく何気なく、何の意味もなく、ただ思ったことを口にしたのだ。

だがこの一言が第二幕の幕開けファンファーレになってしまった。
「ニコーラ、船を出そう!月に向かって水面を走るのだ。」
おやおや、という顔でニコーラはアンドレを見た。
すでに二人はアンドレの所まで歩を進めてきていた。
「父上の悪い癖が始まった。」
アンドレは意味がわからずニコーラを見返した。
侯爵に悪い癖などあるのだろうか。
気持ちよく酔った頭では到底想像できない。
「船だ、船…!ニコーラ、アランを呼んで用意させろ。」
「仕方ありません。アランにはかわいそうですが、行ってきます。いつものところで待っていて下さい。」

驚くアンドレと、至極当然のしたり顔の侯爵を置いてニコーラは馬小屋のあるほうに歩いていった。
「アンドレ、こう見えて父上はあまり酒がお強くない。後を頼んだ。」
数歩先から振り返ったニコーラはやれやれという顔でアンドレに依頼した。
あわててアンドレは侯爵のもとに駆け寄った。
「いつものところってどこですか?」
「船を出すのだから船着き場だろう。決まっているじゃないか。」
豪快に侯が笑い飛ばす。
「さあ、行くぞ。アンドレ、ついてこい!」
元近衛連隊長ということで、似たような口調になるのは致し方ないことなのだろうか。
この台詞にはどうにも逆らえないアンドレは、ニコーラの依頼もあり、とりあえず船着き場までお伴することにした。
侯爵の口からは陽気な歌声が漏れ始めた。
イタリアの恋歌だ。
月夜にふさわしい曲だと、アンドレは侯の低い、染み渡るような声に聞き惚れた。

程なく船着き場に着いた。
こんな時間の急な呼び出しにも関わらず、アラン・ルヴェに指揮されて、数人の船乗りが忙しそうに立ち働いている。
もしや、本気でこれから船を出すのだろうか。
「なに、港まで出てクルリと湾を一周したら戻ってくる。父上のご趣味だ。」
アンドレの不安を察したかのように、ニコーラが説明してくれた。
「なるほど、格好の酔い覚ましということか。」
「まあ、そういう類のものだね。一緒に乗るだろう?」
ニコーラが当然のように誘ってくれた。
さっきまで足下が覚束ないようにも見えた侯は、スタスタと縄ばしごを登っていく。
パリから下ってきた時に乗った船が、バルトリ家の船着き場まで来ていることにアンドレは今さらながら驚いた。
ノルマンディーに着いた当初も随分驚いたのだがが、何度見てもスケールの大きい光景である。
いかにセーヌの河口で河幅が広くなっているとはいえ、庭先にひいた水路がこの船を通すほどとは、桁違いの土木工事があったことを推察させ、アンドレは侯の行動力と財力に感嘆せざるを得なかった。

この船ならば慣れている。
ニコーラに続いてアンドレも縄ばしごをのぼり甲板に降り立った。
夜風が一層心地よい。
月の明るさで満天の星とは言い難いが、それでもどこまでも広がる夜空は得も言われぬ美しさをもって、小さな人間を圧倒する。
様々な懸念事項が一瞬、アンドレの脳裏から吹き飛んだ。
身分や立場、あるいはオスカルの体調や生まれ来る子どものこと、泥沼状態の社会情勢などが、天に吸い上げられていく。
「出航!」
侯爵の朗朗とした号令が当然のことと受け止められ、アンドレはアランたちが用意した美酒を堪能した。

アンドレが気づいたのは、随分と身体が揺れたからである。
上下にうねるような動きだ。
そこでハタと気づいた。
うねるのも当然、船の上だった。
いつもオスカルが使用していた寝台に寝ている。
自分の定席はハンモックだったが、したたかに酔ったこともあり、空いている寝台を使わぬ理由もないと思って、甲板から引き上げるなり、ここに転がった。
再び宙に浮くほど身体がはねた。
驚いて起き上がるが、バランスがとれない。
壁を頼りに立ち上がりあわてて部屋を飛び出した。
甲板に上がるまでに何度も膝をついた。
それほどの揺れである。

外は雨だった。
水夫たちがこの風の中、見事な手さばきでマストを降ろしている。
侯とアランが船首と船尾に別れて指揮を取っていた。
ほどなくニコーラも甲板に駆け上がってきた。
その顔色を見て、アンドレはこれは大変なことになったと悟った。
酔いは一瞬で消し飛んだ。



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深き河はあれども…

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