ここに一つの任務があるとしよう。
重大任務だ。
下命を受けたメンバーは十数人。
他の部署からの援軍はない。
さて、どのような組織立てが必要か。
当然、指揮官が要る。
これは一人だ。
続いて指揮官の補佐官。
指揮官の手足となって動く役割を担う。
これも、この人数なら一人で良かろう。
また、任務の大きさによって、あるいは統括すべき事柄の範囲によって、指揮官の他に、代理を務め得る副官が必要である。
衛兵隊で言うならば、班単位の人数だから、ここまで大げさに割り振る必要はない。
しかし、乗船中の船が大しけで沈没の危機、となると、これより大げさな設定はないわけで、バルトリ侯爵が酔狂で命名した大型帆船「Argent et noir(金と黒)」では、まさにこの人員配置が抜群の働きを見せていた。
では、ここまで完璧にできたシステムの中で、外部の人間であるアンドレはどこに配置されるのがもっとも効率的か?
もちろん指揮官など務まるわけはない。
これはバルトリ侯爵以外ない。
補佐官は、指揮官たる父のことを知り尽くした息子ニコーラが適役だ。
もしオスカルが指揮官なら、アンドレは絶対にこの役職を他人に譲ったりはしなかったはずだが…。
副官は、場合によっては船長を務めるアラン・ルヴェに決まっている。
彼の航行の技術と知識は侯爵に並ぶのだ。
三役はこれで決まりだ。
とはいえ、甲板を駆け回り、揺れるマストを猿のように登って帆をはずすという芸当などアンドレは持ち合わせていない。
とすると、仕事は…。
アンドレは、最も下っ端である水夫によろめきながら近づき、その動きを観察した。
念のため、二回じっくり見る。
そしてすぐに自分も手近にある桶をつかむと、水夫と同じ動きを始めた。
甲板にたまってきた海水を掻き出すのだ。
激しく揺れる中ではなかなか困難な作業だが、これを惜しむと一層船が傾く。
彼は若い水夫たちとともに、びしょ濡れになりながら床を脅かす水をくみ続けた。
「グランディエのだんな!万一のためだ。これを腰にくくりつけておきな!」
ひとりの水夫がマストに端を結んだロープを差し出してくれた。
そんなものをしている者はないが、そこはプロの水夫とにわか水夫の差である。
アンドレは見てくれの悪さを捨てて、自分の腰にロープを結んだ。
やや動きは規制されるが、船から振り落とされる心配がない分、思い切って動くことができる。
ここにいたってようやくアンドレに仕事の手を休めることなく周囲を見渡す余裕がうまれた。
バルトリ侯爵の指揮は、この状況下で取り得る最高のものもであることは疑いない。
彼は、とりあえず船を島影に導こうとしていた。
余興の船遊びであるから、沖に出てきてはいなかった。
湾内周遊が関の山であったところに嵐が来たのだ。
港まで帰れれば問題ないが、それはかなり難しい。
次善の策は、風を避けられて船を繋留できる場所として、肉眼で確認できるもっとも近い島に船を寄せることだった。
ただし岩礁に乗り上げれば元も子もない。
熟練した水先案内人が必要だが、幸いなことにこの地で生まれこの地で育った者ばかりで固めた水夫は全員が有資格者だった。
ニコーラは風でかき消される父の声をまるで拡声器のように大声で復唱し、指示を全水夫に伝えている。
アランはマストの下で、風を読みどの帆をどの向きに張るか、事細かに指示し、率先して動いている。
危険を避け、生命を守り、無事帰ること。
Argent et noir号は木の葉のように舞い踊りながら、全乗組員がこの任務のために全力で挑んでいた。
それぞれの脳裏に浮かぶのは、それぞれの家族の顔であったろう。
侯爵父子は、クロティルドとニコレットに、アンドレはオスカルに、再び生きて会うために、渾身の働きをした。
その姿を神が愛でられたのであろう。
どれほどの時間が経ったかは皆目見当もつかないが、とにかく初期の目標は達成された。
船は湾内では大きい方の島に身を寄せた。
この島はかなり切り立っていて、周囲に岩礁がなく、しかもおあつらえ向きに小さい湾を持っていた。
島に近づきすぎて打ち付けられることがないよう、けれども離れすぎて風避けの意味がなくならないよう、ぎりぎりの距離を保って海底に碇が降ろされた。
「これで一安心だ。」
だれかがホーッとつぶやいた。
船の揺れは続いているが、先ほどに比べればものの数ではない。
慣れた水夫なら踊りのひとつも披露できそうなほどである。
アンドレもようやく人心地ついた。
まったくえらい目にあたものである。
「侯爵とニコーラは?」
ともに戦った同志である水夫の訪ねるとすでに部屋に戻っているという。
アンドレは祝意と謝意を表すべく、すぐに階段を下りた。
「ありがとうございました。おかげさまで命拾いをいたしました。」
満面の笑顔で話すアンドレに、葬式のような暗い表情でニコーラが答えた。
「アンドレ、現在父上は命を落とす以上の危地に直面されているのだ。」
言われてみれば、船内とは思えぬ豪華な室内の、これまた揺れた時には凶器となるのではないかと案じられるほど立派な細工の椅子に、沈み込むように座る侯爵は、まさに身体とともに心まで沈み込んでいるような有様だった。
「侯爵!いったいどうなさったのです?」
ただならぬ気配にアンドレは思わず歩み寄った。
「アンドレ…。ああ、アンドレ。」
聞いたこともない力ない声だ。
「どうしよう…。ああ、なんたることだ…。よりにもよって、こんなときに…。」
顔を両の手のひらで覆い、侯爵は呻いた。
が、すぐに顔を上げた。
「アンドレ!そうだ、アンドレ。君もいたのだ。」
侯の目が輝き始めた。
そして心配そうなアンドレの手をぐっと握りしめた。
「同志アンドレ!!君こそ救い主だ!」
アンドレは握られた両手をそのままにあっけにとられている。
「こ、侯爵…?」
だが返事はなく、両手を上下に振られるのみだ。
答えを求めてニコーラに振り返る。
すると彼も又ニコニコと笑っている。
「なるほど!確かにアンドレはこれ以上ない同志ですね。これでこちらは三人。なんとかなるかもしれません。」
深き河はあれども…