「まあ、とにかくそこに座りたまえ。ニコーラ、ブランデーを一杯ついでくれ。もちろんアンドレにもだ。聞くに当たってはそれ相応の心構えが必要だからね。」
先日、ルイ15世の隠し子について聞かされたばかりのアンドレは、今度は何の話を聞かされるのかと、一瞬、背中にゾクリとしたものを感じた。
御曹司ながら、何かにつけて器用なニコーラが鋭く察して、暖まるよ、と手早くブランデーを作り、グラスを差し出した。
もちろんアンドレは手を付けない。
このような、命が助かったという大慶事のあとに、あそこまで深刻な顔をしていたのだから、よほどの一大事のはずである。
オスカルならともかく、到底酒を飲む気にはなれなかった。
「ニコレットの誕生日の祝賀会なのだ。」
重々しく侯爵が言った。
が、すでに知っている話だ。
そのためにアンドレも来て、楽しいひとときを過ごしだのだから…。
反応のないアンドレにニコーラがあわてて補足した。
「ああ…、違うんだ。アンドレ。今日のことではない。父上がおっしゃっているのは明日の…いや、もうすぐ夜が明けるから今日の祝賀会のことなのだ。」
「今日の?」
「そう。今日の…。大勢の人を招待してある盛大な…。」
ようやくアンドレは合点がいった。
自分たちがよばれた誕生会は、ごくごく身内のものだっのだ。
訳ありの妹を、人前にさらしたくはないが、さりとてこれほど近くに住んでいるのに、招待すらしないのも不義理だという判断で、祝賀会は二回計画されたのだ。
一回目が自分が出席したもの。
そして二回目が翌日。
いや、もう今日だ。
だが、この状況下、無事帰港できるのはいつになるか見当も付かない。
揺れが収まったのは島影にいるからで、今ここを離れるのは愚の骨頂、自殺行為である。
「父上は長らくニコレットの誕生祝賀会に出席されていなくてね。」
ニコーラが、自分のグラスから口を離した。
「商用が入ってしまうのだ。なぜかこの時期に…。」
「すでに三年連続ご欠席だ。」
「もちろん故意ではない。わたしだってニコレットを祝ってやりたい気持ちは充分にある。」
侯爵が苦虫をかみつぶした顔でグラスを取った。
「そう。故意ではない。けれど大勢が集まる催しがお好きでないことも確かだ。だから入ってきた商用をあえてはずそうとはなさらない。むしろご自分からここに入れられたのではないかと思える時すらある。」
「まさか!」
「これはわたしではなく、母上とニコレットの推測です。」
「…。」
父をやりこめたニコーラは再びアンドレにブランデーを勧めた。
「今年こそは何としても御出席いただきます、という母上のお達しが出た。去年の祝賀会のあと、父上がご帰還なさったときに…。」
母子の怨念が感じられ、アンドレの背を再びぞくりとしたものが走った。
今度は彼もブランデーを手に取った。
「しかるに、この有様だ。」
「なんとか夜には間に合うのではありませんか?」
きつい酒を飲んで勢いをつけてから、アンドレは恐る恐る提案してみた。
船のことも海の天候のことも無知だが、まだ明け方である。
午後には雨風が収まる可能性もある。
盛大な祝賀会なら、当然、日が暮れてから始まるだろうから、今から希望を捨てるには早すぎる。
「祝賀会は夜会ではないのだ。」
侯爵がブランデーを一気飲みした。
「ニコレットの誕生会は、近隣貴族だけではなく、教会で教えている子供たちもよんでいる。彼女のたっての希望でね。だから日の高い間に開催されるのだ。」
舞踏会に衛兵隊の部下をよんだオスカルの姿がちらりと脳裏をよぎった。
血筋は争えない。
招きたいものを招く。
かわいいニコレットの希望とあれば、侯爵夫妻は一も二もなく許可したのだろう。
「なるほど…。では我々に残された時間は…。」
「開会のファンファーレは正午だ。あと数時間だな。だが、陸の風はやんでも海の上はまだまだ激しい風にさらされる。ここを離れられるのが正午頃だろう。」
「では間に合わないということですか?」
「おそらくね。」
ニコーラがからになった父のグラスにブランデーを注いだ。
「商用で出ていた方がよかった。なまじ昨夜までいたのに、肝心の時に不在だなんて…!」
侯爵が頭を抱えた。
侯爵が恐れているのが夫人と娘であることはわかった。
だがそれが命を落とす以上に危険なことだろうか?
アンドレが首をかしげていると、またもやニコーラが補足した。
「こういう風にたとえるとわかってもらえるのではないか?アンドレ、もしオスカル・フランソワとの一年越しの約束を不注意で違えることになったとしたら…?」
脳天を雷が駆け抜けた。
「今日の昼から行って晩餐に出たとすれば、翌朝には出立できるから、帰宅は午前中だな。」
単なる確認というよりはほぼ命令に近いオスカルの出発時の言葉。
思うように動けぬいらだたしさが彼女の心情を険しくさせているのは明らかで、それゆえにこそ、ほんのひとときそばを離れることに解放感を感じてしまっているようなアンドレに、まるでシンデレラと魔女との約束のごとき時間制限をかけてきたのだ。
嵐の中で完全に忘れ果てていた。
なんということだ。
「一刻も早く船を出して下さい!わたくしはすぐにも帰らなければなりません!!」
一年越しどころか一日越しの約束だって違えられない。
無意識に立ち上がったアンドレを、侯爵とニコーラが深い共感と満足感でもって見つめていた。
深き河はあれども…