バルトリ侯爵家の令嬢ニコレットの誕生祝賀会は、例年通りに、滞りなく開催された。
当主である侯爵の不在はいつものことで、気品漂う夫人と、慈愛に満ちた令嬢が、繊細な気遣いをもって接待していれば、なんの問題もなかったのである。
「ご令息は侯爵に付いてご修行中とか…。こんなご時世でもこちらさまだけはご安泰ですわね。」
悪気のない貴婦人たちの言葉に、侯爵夫人はにこやかに応えている。
ニコレットも、大広間にしつらえられたテーブルを回り、ご馳走をほおばる領地内の子供たち一人一人に声をかけていた。
例年子ども用のテーブルは庭に設置されるのだが、今年は昨夜遅くからの嵐で、全て邸内に用意された。
嵐は、時間的にはそう長くないものだったが、とにかく雨風が異常に強かったのだ。
突然のことで驚いたものの、こればかりは自然界のなせる業。
誰が誰に不満を言い立てることもなく、バルトリ家の使用人たちは、皆そろって夫人の指示に、粛々かつ迅速に従って、正午の開会には余裕で準備を間に合わせていた。

「アンドレが帰らないことで、オスカル・フランソワに連絡をいれなくてもよろしいのですか?」
ニコレットが母にさりげなく話しかけたのは、祝賀会が始まって一段落したときである。
前夜の晩餐のあと一泊し、午前中には帰る予定だったアンドレは、侯爵父子とともに行方不明である。
船がなく、アラン・ルヴェたち水夫もいないため、おそらく昨夜遅くに出航したと思われるが、あの明け方からの嵐で、安否はまったくわからない。
無事ならばこの祝賀会に間に合わせて戻ってくるはずだから、きっと何かあったのだろう。
難破したとまではいかないが、遭難はほぼ間違いない。
何もよりによって娘の祝賀会のときに、とは思うが…。
「そうね。わたくしがアンドレを引き留めていると思われるのは心外だわ。誰か手の空いているものに事情を話しに行かせましょう。」
夫と子どもが行方知らずになっているとは思えぬほど落ち着いた夫人の態度だった。

祝賀会の最中に、手の空いているものを探すのはなかなか難しいことではあったが、厩関係のものなら、一人抜けてもかまわないということで、下っ端の少年に白羽の矢が立った。
ご馳走は取り置いてやるから、と厩番頭に言い含められ、少年は夫人からの手紙を持って屋敷を出た。
手紙といっても祝賀会の最中に走り書きしたものである。
要点だけを簡潔にまとめてあるだけの一枚きりの便せんを折りたたみ、少年は懐にいれて馬を走らせた。
侯爵邸とどんぐり屋敷は馬をとばせば半時間である。
少年は午後一時半には、どんぐり屋敷に到着した。
馬の音が聞こえたマヴーフが、てっきりアンドレの帰宅だと思ったのだろう。
屋敷から飛び出してきた。
夏に風変わりな屋敷に務め始めて、ようやく慣れてきた。
だんなさまの遅い帰宅に奥さまの機嫌が随分とお悪いことも、察せられるようになっている。
マヴーフはだんなさまのためにも、一刻も早い帰宅を待っていたのである。
「お帰りなさいませ!」
そう言ってから馬上の人が、主とは似ても似つかぬ少年であることに気づいて、次の言葉を失った。
「あの…。うちの奥さまがこちらにって…。」
まだ仕事に慣れぬ少年はまともに口上もあげられぬまま馬から飛び降りた。
そして無造作に手紙をマヴーフに差し出した。

マヴーフは少年を屋敷内に招じ入れると、そこに待たせたまま二階のオスカルの部屋に向かった。
扉をノックして用件を伝えようとする間もなく、中からはあきらから不機嫌な声がした。
「随分遅かったではないか。」
一瞬躊躇したマヴーフは、勇を奮って入室し、事情を告げ手紙を女主人に渡した。
できれば即刻退室したかったが、もしかして女主人が使いの少年に聞きたいことがあるかもしれないと思い、踏みとどまった。
案の定、声がかかった。
「使いのものをここへ。」

マヴーフはすぐに指示に従った。
少年は訳も分からぬまま、階上に連れて行かれた。
彼からすれば、予想もしない連行と尋問だった。
「宵闇の中、船出し、帰らず。」
短い言葉が読み上げられた。
クロティルドの手紙は本当に短かったのだ。
「これはどういう意味だ?」
おそらくまれに見る美貌の人なのだろうが、心和む美というよりは、恐ろしく周囲に緊張を強いる美である。
少年は震え上がってしまった。
「これはアンドレのことか?」
オスカルは相手の状態には考慮せず質問を続けた。
マヴーフが優しく促した。
「うちの旦那さまがお帰りにならない理由をお話してくれないか?」
少年は、意を決してオスカルから目をそらし、マヴーフの方を見た。
このおじさんとなら話せると本能が教えたのだろう。

「昨夜、うちの侯爵さまが船を出されたんだ。たぶんちょっと遊びに出られたんだと思う。侯爵さまは月夜の晩に船を出すのがお好きだから。」
「では、帰らず、というのは侯爵のことか?」
オスカルが横から口を挟む。
少年は決して声の主を見ず、マヴーフに答えた。
「たぶん、ニコーラさまとこちらのだんなさまも一緒に行かれたんだろうって、うちの屋敷ではみんな言ってる。水夫たちもいないから…。」
「そこにあの嵐が来た訳か?」
オスカルが腕組みをした。
不思議な三角を描きながら会話が続く。
「侯爵さまのことだから、きっとどこかに避難なすったのだろう。だけど陸はおさまっても海は波の荒れが続くから、すぐにはもどれないんだと思う。」
さすがに船乗り貴族の使用人だけあって、この若さでもいっぱしの見解は持っている。
「難破したということはないのか?」
オスカルの目に不安の影が宿る。
「雨が上がった時点で、奥さまが海岸に人を走らせなさった。船の残骸と思われるものはなにもなかったということだった。だから難破はない…と。奥さまは決して間違わない。うちのものはみんなそう言っている。」
当を得た姉の行動と判断にオスカルは脱帽した。
ジャルジェ家に流れる血脈がうかがい知れる。
「ではいずれ海が落ち着けば侯爵さまの船が戻り、うちのだんなさまもお帰りになるということだな?」
マヴーフが少年に確認した。
「うん。きっとそうだと思う。」
「よし、わかった。しかし姉上は落ち着いたものだな。夫と子どもが行方不明でも、きっとゆっくりお茶などしておられるんだろうな。」
「うちの奥さまは今、お嬢さまの誕生祝賀会でもてなしにおわれてらっしゃる。お茶なんて…。」
少年が不満そうにつぶやいた。
「なんと?ニコレットに祝いは昨夜ではなんかったのか?」
「昨夜のはご家族だけのだよ。うちのお嬢さまの本当の祝賀会は大勢の人が集まってすごいご馳走が出て、俺たちだってみんなおこぼれにあずかるんだ。」
一人使いっ走りに出された恨みがつい口をついて出た。

オスカルは人払いをして、長椅子に座り直した。
色々なことがいっぺんに判明したが、とりあえず頭の中で整理せねばならない。
アンドレは昨夜、家族だけのニコレットの祝いに参加した。
これは自分にも誘いが来たのを断ったわけだから文句は言えない。
そしてその晩、侯爵と一緒に船出した。
ニコーラも同道しているらしい。
なんでわざわざ夜中にそんなことをしたのか。
こっちは皆目わからない。
そして船は嵐にあった。
昨晩の風雨は確かにすごかった。
この雨が明日まで残るなら、アンドレの帰宅が遅れるのも仕方ないと思ったものだ。
ところが朝のうちにすっかり上がり、風だけが多少残るほどに天候は回復した。
これならば予定通り昼までには帰宅できるはずだった。
しかるにあの馬鹿は帰ってこない。
難破だと〜?!
冗談ではない。
姉上の予想では避難しているから大丈夫だということだが、顔を見ていないのだから何とも言えない。
慎重な男だと思っていたが、確かに時々とんでもなく想定外のことをするときもあった。
オスカルは頭を抱えた。
結局、今できることは、ここで待つだけなのだ。
もし無事に帰ってきたら、ばあやが止めるくらいのヤキをいれてやる。
オスカルはすっくと立ち上がると窓から門を険しい目でにらみつけた。



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深き河はあれども…

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