波が落ち着き、船を港に戻す事が出来た時、陽ははるか下方に姿を隠していた。
下船したアンドレは青い顔で力なくバルトリ侯爵の後に続いて歩を進めた。
本当なら全力疾走したいところだが、侯爵より前に出ることはためらわれた。
当の侯爵の足取りはいたって重く、なかなか前に進んでくれない。
アンドレは焦燥感にかられながらも、侯爵の立場が理解できるだけに、その背にぶつからないようにしつつ、ため息をつくしかなかった。
たどり着いた港近くの小屋で待つことしばし、水夫が馬車を回してきた。
遠慮すべきところだったかとも思うが、一刻も早く帰りたいアンドレにすれば、馬を一頭借りてこのままどんぐり屋敷に駆けつけたいくらいなのだ。
ニコーラに勧められるまま、アンドレは馬車に乗り、侯爵の向かいに座った。
ニコーラは当然のように御者台に座った。

車内での会話はない。
あろうはずもない。
頭の中に浮かぶのはそれぞれの妻の顔、それだけだ。
そして耳に聞こえるのはその叱責の声。
いかに謝罪するか。
いかに説明するか。
そしていかに許しを得るか。
声に出すまでもなく、二人は同じ事を考えていた。

馬車を御すニコーラは、この際、二組の夫婦に対する完全な傍観者に徹することを決意したらしい。
両親のパターンはある程度知っている。
母は当分父に対して口をきくまい。
父のもの悲しげな瞳を完全に無視して、まるでそこに誰もいないかのようにふるまう母の優雅さは、氷の衣装をまとっているかと思うほど冷ややかだ。
こんな場面でとりなすような台詞をはけば、たちまち自分も同罪になり、同じ罰を受けることになる。
まっぴらごめんである。
次期当主として、彼にはすでにあちこちから結婚の話が持ち込まれているが、丁重にお断りしているのは、かかって両親の姿を見て育ったからである。
あの父ですら、ああなのだ。
父よりも器量の小さい自分が妻帯すれば、末路の哀れさは言うに及ばぬ。
ニコーラは、したがって結婚だけでなく、恋というものに対してすら懐疑的で、それ故、降るような縁談を片端から蹴っているのである。

そのニコーラからすれば、アンドレ・グランディエは、まさしく理解不能な生物である。
何を好んでオスカル・フランソワに恋し、あまつさえ結婚までする気になったのか。
母でさえ、結婚生活であの強さを発揮するのだ。
オスカル・フランソワがどうなるか、身近でジャルジェ家の女性軍を見て育ったならば、容易に想像できたはずである。
蓼食う虫も好き好きとは言うが、この場合、まだ蓼の方がマシだとすら、ニコーラには思える。
もちろんこのようなことは、決して女性軍の前で口外しないが。

馬車は、侯爵から見れば随分急ぎ足で、そしてアンドレからすれば亀の歩みのごときスピードで、侯爵邸の門前に到着した。
ニコーラが飛び降りるのと同時にアンドレが馬車から転がるように出てきた。
ニコーラが門番に開門を要求する。
だが、反応がない。
今日は祝賀会で大勢の馬車が出入りしたから、疲れて寝入っているのだろうか。
しかし、なんといってもご当主さまのご帰還である。
門番が御曹司の呼びかけに答えないなど考えられない。
ニコーラはみずから脇門に回り門番小屋に向かって再び声を張り上げた。

反応はない。
静まりかえった屋敷は、まさに嵐の後の静けさで、不気味なほどである。
ニコーラは脇門に手をかけた。
だがかんぬきがしっかりかかっていて、ビクともしない。
やがて侯爵も馬車から降りてきた。
アンドレが大門のかんぬきをはずそうと鉄柵の隙間から手を入れてみるが、当然ながらこちらもしっかりと錠がかかっている。

「どうやら閉め出されたようですよ、父上。」
ニコーラの言葉に侯爵は目をぱちくりとしている。
「物騒だから、堅固に戸締まりをしているのだろう。門番を起こしなさい。」
「それが脇門も閉まっているから、門番小屋に行けないのです。」
アンドレが必死でガチャガチャと鍵をいじくっているのを尻目に、侯爵は大音声で叫び始めた。
「おい!パスカル!わたしだ。バルトリ侯爵だ。すぐに門を開けなさい。」
アンドレが鍵から手を離して思わず耳を押さえたほどの音量だった。
海の男の声量は桁が違う。
まもなく門番小屋からころがるように初老の男が出てきた。
「パスカル!寝ていたのなら仕方がない。今すぐ門を開けるのだ。」
とがめず命令する侯爵に、パスカルと呼ばれた男は、半泣きになりながら近づいてきた。
「だんなさま。申し訳ありません。どうかお許し下さい。」
「詫びはいい。遅く帰ったわたしも悪いのだ。とにかくここを開けてくれ。」
「申し訳ありません。」
「だから詫びはいい!」
さすがの侯爵もいらついてきたようだ。
だが、パスカルは謝るばかりで、一向に門を開けようとはしない。
そしてチラチラと小屋の方に目をやっている。

侯爵とニコーラとアンドレは門番小屋の扉に視線を移した。
一瞬、門灯の明るさで艶やかな衣装が垣間見えた。
「は、母上…。」
ニコーラが詰まった声を上げた。
侯爵が一歩あとずさった。
「パスカル。どうしたのです?誰とお話しているの?」
メゾソプラノの美しい声が聞こえた。
扉の影になっていて姿は見えないが、間違いなくクロティルドの声だ。
「奥さま、だんなさまが…。」
パスカルが小屋に駆け戻った。
「今宵は物騒だから、しっかり戸締まりしてくださいね。なんならわたくしが自分で確かめましょう。それが一番確かですものねえ、ニコレット。」
ニコレットもいるのか。
ニコーラは父の横ににじり寄った。
男三人が固唾を飲んで見守る中、パスカルの持つ灯りに導かれるようなクロティルドとニコレットが姿を現した。

二人はそれぞれにろうそくを持ち、にこやかに門に近づくとかんぬきを照らした。
「しっかりかかっていますわ、お母さま。これなら大丈夫。」
「ええ、そうね。安心しましたわ。では、わたくしたちは戻りましょう。パスカル、あとはよろしくね。」
二人は門外の男達には目もくれず踵を返した。
「クロティルドさま!」
ようやく自分を取り戻したアンドレが叫んだ。
「クロティルドさま、ここをお開けください。侯爵がお戻りです!」
鈴のようなニコレットの笑い声が、吹き返しの風に乗って門の外に流れてはくるが、アンドレへの返事はない。
二人の姿はあっという間に闇に吸い込まれてしまった。

「パスカル、どういうことなんだ?」
ニコーラが居心地悪げに立ち尽くすパスカルに問いただした。
「申し訳ありません。」
「謝罪はいいから、事情を説明してくれ!」
鉄柵を両手で握りしめてアンドレが叫んだ。
「奥さまは、だんなさまはお帰りにならない。きっとどこかに仕事でおでかけになったのだろう。でなければ娘の祝賀会を欠席されるわけはない。とすればお帰りは随分先のはず。しっかり戸締まりをして、誰が来ても開けないように。ましてだんなさまをかたる輩が来た時は絶対開けてはなりません、と。」
「輩ではない!本物だ。見ればわかるだろう?」
「しかし、本物のだんなさまかどうかは奥さまが判断なさるので、奥さまが違うとおっしゃる以上、わたしにどうにもできないんでございますよ。」
「パスカル!わたしはここの当主だ。妻の指示を尊重してくるのはありがたいが、わたしが戻ったからにはわたしの指示に従いなさい。」
「だんなさま…。わたしもだんなさまのご指示に従いたいのは山々なんですが…。
しかし奥さまにも逆らえないんでございます。だんなさまがお留守のときは奥さまの命令がすべてなんですから…。」

堂々巡りであった。
当主の帰還だという侯爵に、当主かどうかの判断権は夫人にあり、夫人が当主と認めない人間に門は開けられないという門番。
鶏が鳴くまで続きそうな不毛の論争だった。
「侯爵。とりあえずここは引き上げ、わたくしどもの屋敷にまいりましょう。」
アンドレが疲れ果てた顔で提案した。
彼にすれば、無駄な時間が過ぎるのが耐えられない。
一刻も早く帰り着かねばならないのだ。
バルトリ邸に入れないならば、このまま、馬車をどんぐり屋敷にまわせばいい。
アンドレは、今度は自分が御者台に乗り、侯爵とニコーラを車内に押し込んだ。
せめて日付が変わるまでに帰りたい。
アンドレは絶望的な期待を胸に馬に鞭を当てた。









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深き河はあれども…

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