アンドレは、田舎道をおよそ馬車ではあり得ない速度でぶっ飛ばした。
侯爵とニコーラがさぞ座り心地悪くているであろうことは、容易に想像できたが、この際、あえて忘れることにして、ただただ一刻も早く帰り着くことのみを最優先にした。
あのクロティルドでさえ、ご夫君を閉め出したのである。
自分がオスカルからどういう扱いを受けるか、想像するだけで戦慄する。
水夫が調達してきた質素な馬車は、すさまじい音をたてて、どんぐり屋敷の門前で止まった。
見事な走りっぷりだった。
よろよろと下車した侯爵が馬の横に立ちその頭をなでた。
「無事、屋敷に戻れたらこの馬は買い上げてもよいな。」
「なるべく早くその日が来ませんと…。馬が老いてしまうようでは困りますよ。」
ニコーラが冷たく父に返した。
許しが出るのは、この馬が老いさらばえるほど遠い未来なのだろうか。
父子の会話に怯えながら、アンドレは大きく頭を振り、門前に立った。

「開門!」と叫ぶより前に、マヴーフが出てきた。
ああ、バルトリ邸とは違う…。
それだけで不覚にも涙がにじんだ。
「だんなさま!お帰りなさいませ!!」
大声で叫びながら、マヴーフは即座に門を開けてくれた。
アンドレは恐る恐る屋敷地内に一歩踏み入れる。
そしてキョロキョロと見渡す。
もしかすると門番小屋からオスカルが飛び出してくるかもしれない。
そして、しっかり戸締まりを、とマヴーフに命じるかもしれない。
だが、誰も出て来なかった。
ホーッと深いため息が思わず知らずこぼれ出た。

バルトリ侯爵とニコーラの姿をアンドレの後ろに発見し、マヴーフは驚き慌てて、進み出た。
「これはこれは…!」
「やあ、マヴーフ。久しぶりだね。ちょっと世話になるよ。」
鷹揚な侯爵の声に、またもやニコーラが突っ込んだ。
「ちょっとかどうか、今のところは判じがたいのだけれどね。」
「…??」
首をかしげるマヴーフにアンドレはたずなを渡した。
「とにかく中に入りたい。入れるか?」
「もちろんでございますよ。オスカルさまが首を長くしてお待ちでございます。」
曲がりなりにも自分の屋敷に帰って来て、なんと不思議なお尋ねもあるものかと、マヴーフはさらに首をかしげた。
勢いのついたアンドレは、屋敷に向かって駆けだした。
バタンと扉を押し開け、ホールに立つ。
「オスカル!オスカル!」
何度か呼んでみたが、返事がない。
「二階か?」
安静にしているはずのオスカルだ。
きっと寝室に違いない。
今度は階段を駆け上がった。

「オスカル、オスカル!」
扉の前で再び呼ばわり、取っ手に手をかける。
だが、扉はしっかりと鍵がかかっていた。
屋敷には入れたが、部屋には入れてもらえないらしい。
ニコーラが少し息をきらしながら追いついてきた。
「なるほど、部屋からの締め出しか、いいな。これならとりあえず雨風はしのげる。」
冗談ではない!
確かに屋敷には入れたが、オスカルの顔を見られないのなら、帰って来た意味がない。
アンドレは、ドンドンと扉をたたいてオスカルに呼びかけた。
「オスカル!すまん。これには諸々事情があるのだ。とにかくここを開けて、おれに釈明の機会を与えてくれ!」
繰り返し扉をたたくものの、反応はない。
しつこく呼ばわっていると、ふいに背後から肩をぐいっとつかまれ、後ろにはずされた。
バルトリ侯爵だった。

「オスカル・フランソワ、わたしだ。アドルフ・レオポル・ド・バルトリだ。」
長い正式名称を名乗った元上司兼義兄の登場に、しばらく間があいてから返答があった。
「アンドレ、援軍を引き連れての帰還とは卑怯なり!」
身も蓋もない。
アンドレはがっくりと肩を落とした。
だが、侯爵は余裕綽々である。
「オスカル・フランソワ、わたしの来館はアンドレの援軍のためではない。むしろ君たちに援軍を依頼するためのものだ。」
よく聞けば情けない話なのだが、このようにかいつまんで要点だけ述べられると、オスカルには何やら秘密めいても聞こえて、以前に聞いた王家の隠し子の話かとも思われ、つい自分から扉を開けた。

「開け護摩」の呪文でもここまでの効果はあるまい。
アンドレは入室できた喜びで、侯爵の手を取りたいほど感激している。
昨夜の嵐の中、死にものぐるいで揺れる船から海水を掻き出したのは、ひとえにオスカルの顔を再び見るためだったのだ。
侯爵とニコーラがいなければ、オスカルの反応などお構いなしにその場で抱きしめたに違いないのだが、さすがにそれは慎んだ。
「オスカル、遅くなって悪かった。」
簡潔に謝罪だけを述べるに留めた。
結局のところ言いたい言葉はそれだけだったから。
オスカルはチロリとアンドレをながめたが、五体満足かつ精神も頭脳もいつも通りであることだけを一瞬で確認すると、長椅子に戻りゆったりと腰掛けた。
どれほど心配したか。
どれほどイライラしたか。
言いたいことは山ほどあるが、こちらも侯爵とニコーラがいるので控えた。
そして好奇心に従った。
「わたしに援軍のご依頼とは?」
軽く手を差し出して、侯爵にも椅子をすすめた。

「実はのっぴきならない戦に巻き込まれてね。」
口から出す言葉と裏腹に、侯爵はゆっくりと答え、近くにある肘掛け椅子に座った。
「昨夜の急な船出はその戦のためですか?」
オスカルはあくまでも真面目である。
真剣にに侯爵がどこぞの誰かと一悶着あったのだと理解している。
案外昨夜の船出もそのためで、たまたまアンドレも同行しただけだったのかもしれない。
バルトリ家のものたちは、その事情を聞かされていないから、侯爵が酔狂で船に乗ったと誤解しているのだろう。
オスカルの完全に見当違いの理解に、誤解をとかねば、とアンドレは思うのだが、何をどこから説明してよいものやら、途方に暮れて言葉が出て来ない。
ニコーラにいたっては、完全に高みの見物である。
実際には自分もしっかり巻き込まれて帰宅不能になっているのだが、こちらは原因をつくったのが父だ、という確信があるため、早晩許されると高をくくっている。
夫と息子では、女性の対応が格段に違うということを、ニコーラは20年の人生でしっかり学習していた。
得てして母親は息子に甘いのである。

侯爵はそんな息子にチロリと視線をやってから、オスカル・フランソワに向き直った。
「前後がちょっと違うが、まあ、そんなものだ。とにかくひどい言いがかりというか、誤解から始まった諍いでね。わたしとしては穏便に収束させたいのだが、相手が応じないのだ。」
「それはお気の毒に…。」
「だが、しかるべき者を間に立てればうまくいく、とわたしは踏んでいる。」
「ほう…。それがアンドレだとでも?」
「いやいや、アンドレではない。オスカル・フランソワ、君だよ。」
「わたくしですか?」
「やはりこういうものは戦の場数を踏んだ者でなければつとまらない。君がいかに有能な軍人であったかはわたしが一番知っているからね。ぜひ仲介の使者を請け負ってほしい。」

ここでさすがにアンドレが口を挟んだ。
「侯爵、オスカルは普通の身体でございません。バルトリ家のお屋敷に伺うのは無理です。」
だが、自分の軍人としての履歴を激賞されたオスカルは大乗り気である。
除隊後の穏やかではあるが刺激のない日々に、腐りきっていたところでもある。
この依頼は、まさに願ったり叶ったり。
自分の本領発揮てせきるまたとない機会だ。
「アンドレ、仲介というのは、何もバルトリ邸でなければできないというものではない。むしろ第三者の提供する場所の方がうまく進む場合も多い。わたしが動けないならここに先方を呼ぶという手もあるのだぞ。」
アンドレはひっくり返りそうになった。
クロティルドをここへ呼ぶというのか?!
ニコレットをここへ?
ではここが戦場になる…。

「それは名案だ。オスカル・フランソワ。ぜひそうしてもらいたい。わたしが君の名前を借りて、相手に書状を送ることさえ許可してもらえれば、この屋敷で平和条約成立ということもあり得る。」
「おやすいご用です。わたしの名前が義兄上のお役に立つなら、どうぞご自由にお使い下さい。」
「感謝するよ。オスカル・フランソワ。ではさっそく仕事にとりかかろう。」
ニコニコと握手を交わす二人を、アンドレは呆然と見つめ、ニコーラは笑いを押し殺して眺めていた。












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深き河はあれども…

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