マヴーフが来客を告げたとき、オスカル当然ながら侯爵の問題の相手だと思い、客間に通すよう指示した。
そして、いつもの癖で、着ているはずのない軍服の襟元を引き上げる所作をしてしまい、我ながら苦笑した。
あの義兄が難儀している相手だ、ということで、つい緊張してしまったのだ。
さあ、どんな奴だ。
まずは面だけでも拝んでやろう。
オスカルは意を決して客間の扉を開けた。

だが、そこで待っていたのは、華やかな衣装に包まれた姉と姪だった。
そして姪の手には、侯爵がオスカルを騙って書いたと思われる手紙が、しっかり握られていた。
呆然とするオスカルに、クロティルドは満面の笑みを寄越した。
「懐妊で随分繊細になっているようね。あなたが寂しいなどという言葉を使うなんて…。」
「きっとアンドレが二晩も帰らなかったからではありませんか?鬼の霍乱という言葉もございますし…。」
小憎らしい母娘の会話に、オスカルは引きつる顔をどうにもできない。
完全に謀られた。
元上司にして義兄でもあるバルトリ侯爵が、窮余の一策として考え出した計画に、物の見事に嵌められた。
オスカルは、歯ぎしりするほど己の人の良さを悔いた。

もはやどうにでもなれ、と腹をくくったアンドレは、かろうじてオスカルの背後に控えているが、すでに心はあの世に行ったかのようなありさまだ。
そして、実際にこの場を離れ、あの世とまではいかないが、しっかり別室に引っ込んでしまったのがバルトリ侯爵である。
馬車が着いたと聞くやいなや、彼は逃げた。
「ちょっと失敬するよ。わたしは同席しない方がことがうまく行くと思うからね。あとはくれぐれもよろしく頼む。きみの仲介を、心から期待し、その成功を神に祈っているからね。」
餞だったのか、励ましだったのか、よくわからない言葉が退室の際に残された。
妻との一戦だけは避けたかったのだろう。
今、ニコニコとした2人の顔を見て、オスカルはようやく義兄の言葉の真の意味を理解した。

「さて、オスカル。どうやらアンドレは無事帰って来たようですし、少しは気分も落ち着いたのではありませんか?」
アンドレは、とあえて強調するあたりが、侯爵は無事ではないことを暗示していて、アンドレには空恐ろしいことこの上ない。
「無聊をお慰めできるものを、と色々考えて、あれこれ持ってきましたのよ。よろしかったらご一緒に楽しみません?」
ニコレットが、卓上にカードを並べ始めた。
なかなか凝った作りの逸品である。
「ステキなカードでしょう?おばあさまの嫁入り道具なんですって。ナポリからはるばる海を渡ってきたカードですのよ。」
無邪気に説明するニコレットを見ながら、ここでようやくオスカルは自分を取り戻した。

「姉上。まず、お断り申し上げます。」
極めて真面目にオスカルは切り出した。
クロティルドの切れ長の目が大きく見開いた。
「その手紙はわたくしが書いた物ではありません。その証拠にわたくしのサインがございません。どうぞご確認下さいませ。」
ニコレットが手紙を開き、母に見せた。
「あら、本当。この署名はオスカルのものではないわ。」
「はい、そうです。それは義兄上のたってのご要望により、わたくしの名前を使って書かれました。したがって書き手は義兄上でございます。」
「それは違います。夫の筆跡ならわたくしにはわかります。これはあの人のものではありません。」
間髪入れずクロティルドが返してきた。
「さすがですな。では正確に申し上げましょう。それは義兄上の命を受けて、マヴーフが書きました。」
「それなら、了解しました。それで?」
「義兄上は、さる方との間に誤解が生まれ、大変困っている。そこでわたしに仲介してほしい。ついては君の名で先方をここに呼び寄せたいとおっしゃったのです。」
「なるほど。で、誤解を生んでいる先方というのがわたくしだというわけですね?」
「おそらくは…。わたくしも、たった今、姉上のお顔を見て、やっとそのことに気づきました。」
「だとすれば見当違いもいいところです。わたくしと夫との間にはなんの誤解もありません。」
「そうなのですか?」
「そうです。」
「では、わたくしに仲介せよ、というのはいったい…?」
「何のことでしょうね。わたくしもさっぱりわかりませんわ。」

ここで黙って聞いていたニコーラが声を上げた。
彼は、父が逃走したあと、オスカルとアンドレの背後霊のように、ずっとついてまわっていたのだ。
「母上!わたしと父上を屋敷から閉め出しておいて、何もないということはないでしょう?!」
アンドレが、大きくうなずいた。
「おまえと義兄上は閉め出されたのか?」
オスカルが素っ頓狂な声を上げた。
「いや…、まあ…、その…。」
歯切れの悪い甥の返事にに、オスカルは、閉め出しが事実だと確信した。
では、昨夜、アンドレについて2人がやってきたのは、自邸を追い出されたからだったのか。
そして、姉との仲を取り持ってもらって、なんとか家に帰れるよう援軍を頼みに来たというわけか。

夫婦喧嘩は犬も食わぬ。
犬も食わない不味い物を、どうして自分が食わねばならんのだ。
とんでもないことだ。
オスカルは突然立ち上がった。
そしてつかつかと姉に近づいた。
「姉上がお話になるべきお相手の場所に御案内しましょう。それともお相手をこちらにお呼びしましょうか?」
クロティルドの顔が一瞬凍り付いた。
それまでの余裕の色が消え、とても悲しげな様子が浮かんだ。
だが、すぐに体制を立て直し、彼女は、きっぱりと言った。
「わたくしからお話すべきことは何もありません。もしあちらにその気があるなら、あちらからおいでになるべきでしょう。それが姿も見せずということなのですから、当然、その気がないということですわね。」
クロティルドはチラリと息子に目をやり、続けた。
「オスカルからの呼び出しだと思ったから来たのです。ご用がないなら、わたくしたちは失礼いたしましょう。ニコーラ、一緒に帰るなら、構いませんことよ。」
二十歳を超えた立派な若者が、母の問いかけにシュンとなってうなだれた。
両親のけんかに巻き込まれたときは、絶対母親につかねばならない、と学習してきたはずだったのに…。
だが今回は、好んで父についたわけではない。
成り行きというか、行きがかりというか、とにかく、母と対立することは、本意ではない。
閉め出しは、母からのお仕置きだったのだ。
息子だからこれですんだ。
だが夫である父は…。

ニコーラが苦悩していると、突然アンドレが走り出した。
皆がびっくりしているのを尻目に、部屋を飛び出し、隣室に駆け込むと、侯爵を引っ張ってきた。
めったにない感情のほとばしりが出たらしい。
めったに出ない分、出た時はインパクトが強い。
同じ男として、また夫という立場にあるものとして、ここでなんとかしなければ、侯爵があまりに哀れである。
しかも、しばらく侯爵が新婚生活中のここに滞在するなど、とんでもないことだ。
自分のまいた種ではないか。
男らしく自分で刈ってこそ面目も立つというもの。
アンドレは嫌がる侯爵を無理矢理クロティルドの正面に引き立ててきた。

「さあ、直接お話なさってください。ご夫婦でしょう!」
切れたアンドレの迫力はさすがである。
この場でその実態を知っているのはオスカルのみ。
残りのものは、初めて見るアンドレの正体に圧倒されている。
「侯爵!なにはともあれ、まずはきちんと謝罪なさらなければなりません!!」
オスカルが賞賛の瞳をアンドレに投げかけている。
自分に向けられるのでなければ、この激情はなかなかに刺激的でほれぼれするものだと、オスカルは思った。
これなら大抵のものは言うことを聞くはずだ。

だが侯爵は言葉を発しない。
クロティルドは、小さくため息をつくと、くるりと夫に背を向け、扉に向かって歩き始めた。
ニコーラとニコレットが、粛々とその後ろに続く。
ひとり取り残される形の侯爵は、それでも黙っている。
ついにアンドレは、クロティルドの前に進み出て、ひざまずいた。
「クロティルドさま。お約束を違えた侯爵へのお怒りはごもっともです。けれども、お屋敷に入れないという仕打ちはあんまりでございましょう。いやしくも侯爵はご当主でいらっしゃるのですから…!」
目の前で頭を低くしつつ、自分の顔をまっすぐに見るアンドレに、クロティルドはやや圧倒され、立ち止まった。
そしてほほえんだ。
「なかなか勇気のあること…。」
かわいい弟を見るようにクロティルドはアンドレを見つめた。
そしてゆっくりと口を開いた。

「アンドレ、勘違いしてはなりません。わたくしはだんなさまを閉め出したりはいたしておりません。もしだんなさまがお帰りになったら、すぐにもお迎えいたします。」
「…?」
「昨夜、あなたとともに当館にいらっしゃった方は、だんなさまではありません。息子でもないと思いましたが、どうやらこちらはわたくしの勘違いだったようで、ただいま息子と確認できました。」
「ここにおられるのは侯爵ではないとおっしゃるのですか?」
「少なくともわたくしの…、わたくしの夫であるアドルフ・レオポル・ド・バルトリではありません。とても残念で悲しいことですけれど…。」

本当は「わたくしの愛する」と言いたかったのだ。
もしくは「わたくしのアドルフ」と…。
オスカルは瞬時に察することができた。
姉の真意も、水が砂に染みこむように理解できた。
だから、聞いた。
「姉上、姉上の夫である侯爵とは、どういうお方なのですか?」
不意に妹に問いかけられたクロティルドは、少し目を見張り、それから静かに瞳を閉じた。
「堂々としたお方です。嘘や偽りのない、誠実な…。」
「では、今、ここにおられる侯爵は、そうではないと言われるのですか?」
「あなたはどう思います?あなたの名前を騙って、わたくしに手紙を書く方に、嘘がないと思いますか?誠実であると…?」
室内は重苦しい沈黙に包まれた。

「クロティルド。」
深い、低い声が侯爵の口から発せられた。
「あなたがわたしを評して送ってくれた言葉をそのままあなたに返そう。堂々として、嘘、偽りのない誠実な人間、それはまさにあなたのことなのだ。」
思いがけない言葉だった。
「…?」
「華やかなベルサイユから、このような辺境に来て、どんなにか不自由で不都合であったはずなのに、あなたはいつの間にか、領地の者や、屋敷の者、口うるさい一族の者の心をつかんでいった。ただただその堂々とした態度と、嘘、偽りのない誠実さによって…。」
侯爵はいつの間にかクロティルドの正面に立っていた。
アンドレがあわてて立ち上がり、脇によけた。
「この地の者は、誰ひとり、あなたをよそ者だとは思っていない。今となっては、わたしの方がよそ者だ。」
アンドレは昨夜の侯爵家の使用人の言葉を思い出した。
彼にとってクロティルドの命令は絶対だった。
だからこそ、目の前に侯爵がいても、門を開けなかったのだ。

「侯爵がいるからこその侯爵夫人ではありませんか?!」
叫んだのはオスカルだった。
勇猛果敢で情熱にあふれる近衛の指揮官だった義兄の弱気な発言が、オスカルの癇癪に触れてしまったらしい。
「何を寝ぼけたことを言っておられるのです?正気の沙汰とは思えませんぞ!」
激烈な非難に、アンドレの顔から色が消えた。
それは言い過ぎだ、いくらなんでも…。
だが、オスカルの迫力の前では、口にできる言葉ではない。
思わぬ妹の援軍に、クロティルドの瞳が少し潤んだ。

「オスカル・フランソワ、君には想像できないだろうが、当家では、わたしがいなくても何も不都合がないのだよ。その証拠に、昨日の祝賀会もきっと滞りなく終わったはずだ。そうだね?ニコレット。」
侯爵は娘に問いかけた。
ニコレットはコクンとうなずいた。
侯爵は寂しそうに笑った。
「ほらね。」
「でも…、でも…。」
ニコレットの声が震えた。
「祝賀会が滞りなく終われば良い、というものではありませんわ。わたくしはお父さまにいらしていただきたかった…。本当にあの席にいらしていただきたかった…。」
「そのとおりだ、ニコレット。よくぞ言った!」
オスカルが俄然、姪の味方についた。
「男というものは、なぜそんな埒もない見栄ばかりはりたがるのだ?どいつもこいつも…!」
一瞬、オスカルの視線が厳しくアンドレに向かった。
「え?おれ…も?」
アンドレは言葉に出さないながら、心の中で問い返してしまった。
おれも男というだけでひとくくりにされるのか?

「自分には何もない、だとか、いなくても不都合がない、だとか…。そんなもの、誰も望んではいない。都合がいいからいてほしいのではないのだ。バルトリ侯爵、あなたは、父として、ただそれだけの理由で、娘の祝賀会に出てやるべきだったのだ。それ以上の理由もそれ以下の理由もない。なぜそれがわからんのか?!」
鋭い言葉だった。
端的でまっすぐで、そしてわかりやすい言葉だった。
クロティルドとニコレットが大きくうなずいていた。

本当に、男というものはどうしようもなく見栄をはりたがる生き物だ。
ただそばにいる、というだけでは価値を認められず、地位や財産や、武力や、そういう別のもので自分を飾りたがる。
ただ出席して娘の誕生日を祝ってやる、ということができなくて、存在感を示したり、一目置かれたり、自分がいるから成功した、と思いたがる。
なぜ、まっすぐに物事の本質を見ないのだろう。
本当に大切なものがわからないのだろう。

オスカルの言葉が、この場にいるすべてのものの心に響いた。
「父上、やはり謝罪なさるべきです。約束を違えた、理由はどうであれ、それは間違いないのですから…。そしてニコレットはもちろん、母上も、父上の御出席を大変楽しみにしていたわけですから…。」
ニコーラがそっと両手を差し出し父と母の双方の手を取った。
「さあ…。」
ニコーラは二人の手を取り合わせた。
侯爵はうろたえ、ためらったのち、やがて妻の目を見た。
「…すまなかった…。」
妻も、うろたえ、恥じらったのち、夫の目を見た。
「…お帰りなさいませ…。」

照れたように見つめ合う夫妻に矢のような叱責が飛んだ。
「お父さま、謝罪の相手はここにもおりますわよ!」
娘の厳しい指摘に、侯爵は、妻の手を取ったまま、あわてて娘に頭を下げた。
オスカルがクスクスと笑った。
「まったく不味い物を食わされたものだ。アンドレ、モーリスに言って、今日はご馳走にしてもらってくれ。口直しだ。」
「よし、わかった。」
「ついでに、うまいワインもな。」
調子に乗ったオスカルの提案は、アンドレに言下に拒絶され、オスカルの頬がプーッと膨らんだ。
その表情に、思わず、バルトリ一家から笑い声が出て、このたびの騒動は、ようやく幕を下ろすことができたようである。

男と女の間には深い河がある。
それは一見、渡りがたく越えがたいものに思われる。
だが、この河は、深いけれども、案外狭い。
だから、勇気さえあれば、飛び越えることができるのだ。
願わくば、深き河はあれども、皆々、末永く幸せに暮らせますように…。




              〜完〜







888888ヒットの折に、まみさまから頂いたリクエストは以下のものでした。

アンドレとバルトリ候の男同士の友情というか、相通じる話で何かタッグ組んで強力女性軍に負けないなにかをと・・・。ばあやさん相手じゃ難しいかな〜?ほのぼのしたの希望です。

このご希望がどれほど取り入れられたか、と問われれば、穴掘って隠れるしかありません。
ましてリクエストをお受けしてから今日まで、どれだけ時間がだってしまったか…(>_<)。
まみさま、恐ろしいまでの遅刻、本当に申し訳ありませんでした。
最後までお付き合いくださいました皆さま、ありがとうござしいました。
心からお礼申し上げます。                さわらび
















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深き河はあれども…

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