おそらくすべてはフェルゼン伯爵の方向音痴が原因なのだ。
王妃さまとの密会の帰り、不運にも夜間警備中のアランたちに発見された彼に近道を教えるため、ほんの少しアンドレが側を離れただけで、オスカルは部下達に拉致・監禁という身の危険にさらされた。
あのときの当事者のアランたちとともに、遠因となった伯爵のこともアンドレは相当恨めしく思ったものだった。
それなのに、それなのに、ノエルを目前に控えた今夜、性懲りもなく伯爵はまた庭園をウロウロしていたのだ。
もう何度も通った道であるはずなのに、なぜそのたびに迷子になるのか、アンドレには皆目わからない。
自分も、もちろんオスカルも、大抵は一回通れば頭に入り、二回目にはおおよその地形を理解できる。
しゅっちゅう通っていれば、もう目をつぶっても行けると思う。
片眼を失って、時々視界が消えてしまう今、こういう天性の資質にどれだけ感謝しているかしれない。
だが、フェルゼン伯爵は、完全に違うようだ。
何度通っても、彼にとっては初体験と同じで、こと、道に関しては、彼にとって学習ということは、ない。
こんなんでよく異国の地、海の彼方アメリカで戦ってこられたものだ。
案外帰国が遅れたのは、道に迷っていたからではないか、とアンドレは半分本気で考える。
いや、どこでも初体験だとすれば、そしてヨーロッパから向かった義勇軍が全員初体験だとしたら、初体験慣れしている彼には案外有利だったのだろうか。
とにかく出会ってしまった以上、案内せねば、彼は朝になっても庭園から出られないだろう。
オスカルは、ややあきれた顔をしながら、アンドレに再び道案内をしてやってくれと頼んだ。
幸いなことに、今日の当番は一番おとなしい3班だったし、すぐ近くにダグー大佐の姿もあった。
それでアンドレはやや安心してオスカルの側を離れた。
暗闇の中、木立を少し走ると、ガサガサと石壁付近の茂みで音がした。
今宵は新月で、手持ちのランプ以外灯りはない。
犬か?
いや、それにしては音が大きい。
そっと灯りを向けると、そこには、壁をよじ登ろうとしているフェルゼン伯爵の後ろ姿があった。
どうやら外への出口がわからず壁を乗り越える気になったらしい。
王妃の愛人が壁にはりついている姿が、とてももの悲しかった。
だが、哀愁に浸っている場合ではない。
アンドレは知っていた。
壁を超えた先が池であることを…。
「フェルゼン伯爵!」
急いで近寄り声をかけた。
「え?」
グルッと振り向いた伯爵がバランスを崩した。
「あっ、手を離してはいけません!」
と、叫ぶまもなく、伯爵はアンドレの上に真っ逆さまに落ちて来た。
ゴチ〜ン!
目の前に星がチカチカときらめいた。
ああ、星がきれいだ…と思った瞬間、アンドレは意識を失った。
「アンドレ!アンドレ!」
オスカルが呼んでいる。
それも相当怒った声で…。
だが、まだかなり遠い。
きっとアンドレにしか聞こえないほど遠くの小さな声。
だが、確かに呼んでいる。
急いで起きなくては…!
アンドレは頭を上げた。
あっ…イテテ…テ。
頭がべらぼうに痛かった。
あわてて手で触ると大きなこぶができていた。
「イッテ〜!」
思わず声が出た。
頭を打ったせいでそれは自分の声ではないように聞こえた。
するとアンドレの身体の上で何かが動いた。
それではじめ彼は自分が何かの下敷きになっていたことに気づいた。
「い、いたい…!」
それがうめいた。
「フェルゼン伯爵!」
アンドレはようやく思い出した。
上から伯爵がふってきたんだ。
人影がようやく身体の上から離れ、ゆっくりと立ち上がった。
アンドレも服についた汚れを払いながら、身体を起こした。
「うわぁ!」
目の前の人物が奇声を発した。
驚いてアンドレが顔を上げると…。
そこにはアンドレ・グランディエが立っていた。
アンドレ・グランディエが立ち上がったばかりのアンドレを指さし、大きな口を開けてワナワナと震えていた。
目の前の奴がアンドレ・グランディエなら、ここにいる俺は誰なんだ?
彼は急いで自分を見た。
軍服ではなかった。
袖口にやたらとレースのついた豪華な衣装だった。
これは…。
そう、さっき石壁によじ登っていたフェルゼン伯爵の着ていたものだ。
ということは…。
そのとき目の前のアンドレ・グランディエが叫んだ。
「なぜ、なぜわたしがそこにいるのだ?」
フェルゼンのいでたちをした俺を見て、わたし、と言うからには、この人物は見てくれはともかく中身はフェルゼン伯爵にちがいない。
アンドレは思いきって聞いた。
「あなたはフェルゼン伯爵ですか?」
「ああ、いかにもフェルゼンだ。だが、き、きみはいったい…?」
「アンドレ・グランディエです。」
「アンドレだって?」
「はい。ただ、今はあなたが俺の格好をしています。なぜだかわかりませんが…。」
フェルゼン伯爵は、急いで自分の姿を見た。
彼は、衛兵隊の軍服姿であることを確認し、
「なんてことだ…!」
と叫んだ。
「どうも、何かの弾みで、身体が入れ替わってしまったようです。」
「……。」
「いそいで元に戻らなければ…。」
言っているうちにもオスカルの声が近づいてくる。
「どうやって戻るのだ?」
彼は呆然として聞いてきた。
「わかりません。」
アンドレは正直に答えた。
大体、こんな状況下で誰がわかります、と答えられるんだ?
「もう一度わたしが君の上に落ちよう。」
フェルゼン伯爵が決然と言った。
アンドレは思わず頭のこぶに手をやった。
もう一個、これを作るのか?
いや、背に腹は代えられん。
今、考えられる手だてはそれしかないことは確かだった。
「わかりました。では伯爵、急いで壁を登ってください。」
アンドレが言うと伯爵はコクリとうなずき、壁に飛びついた。
そして少しずつよじ登り始めた。
そのときガサガサッと大きな音がしてオスカルが現れた。
「アンドレ、何をやっている?」
アンドレはあわててオスカルを止めようと近づいた。
「フェルゼン、なんだ、おまえ、まだいたのか?」
オスカルがアンドレを見て言った。
そうだった。
今はフェルゼン伯爵の姿なんだ。
オスカルはつかつかと壁に歩み寄り、壁にしがみついているフェルゼンの肩にぐいっと手をかけた。
「アンドレ、何をしている?さっさと降りてこい。」
途中まで登っていたフェルゼン伯爵は驚いて壁を蹴り、地面に飛び降りた。
「いつまでたっても戻って来ないと思ったら、何で壁登りなんかしているのだ?職務怠慢だぞ、アンドレ。」
いくらおとなしい3班が当番兵とはいえ、ついこの間あんなことがあったばかりだ。
自分がついていないのを心細く思ってくれたのだろうか。
いや、そんな都合のよい解釈をしてはならない。
オスカルの心は今目の前にいるフェルゼン伯爵にあるのだから…。
アンドレは切ない思いに身を浸した。
あれ?
今は自分がフェルゼン伯爵だ。
ということは、オスカルの思い人は…俺?
いや、俺ではない。
ああ、ややこしい!
アンドレは頭をかきむしった。
オスカルは、アンドレの格好をしたフェルゼン伯爵の腕を引っ張りながら言った。
「フェルゼン、出口はすぐそこの分かれ道を左に曲がったところにある。迷いようもないほど簡単な道だ。ひとりで行けるな。」
初恋の人に言うにしては随分冷淡な言い方だが、やはりこの間何かあったのだろう。
あの暗闇にひとりいた日…だめだ、あれを思い出すと自身のおぞましい行為を思い出してしまう。
アンドレは悪夢を振り切るようにその場を離れた。
格好はフェルゼン伯爵でも、実はアンドレだから、もはや迷うはずもなく、出口はすぐにわかり、木陰でひっそりとつないであるフェルゼンの馬も容易に見つけることができた。
それで気がついたのだが、身体が別人になっているおかげで両目が見える。
これはありがたかった。
だが、突然片眼が見えなくなった伯爵はさぞ困っているだろう。
誰にも絶対に知られないようにしているが、ときどき、一瞬だがまっくらになるときもある。
下手にころんでケガなどされたら、身体が戻ったとき痛いのは自分だ。
アンドレは、馬の顔をなでてやり、えいっと騎乗して、それからハタと考えた。
これからどこへ行けばいいのだろう。
ジャルジェ家の屋敷に帰るわけにはいかない。
夜中にフェルゼン伯爵が尋ねてくれば大騒動だ。
とするとフェルゼン邸か…。
アンドレは先行きの全くみえない展開にただただ困惑していた。
が、こんな月もない夜、馬上でぼーっとしていてもどうしようもない。
彼は、とりあえず馬の脇腹を蹴り、フェルゼン邸へ馬首を向けた。
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