聖夜の奇跡

何が起きたのがよく把握しないまま、フェルゼンはオスカルに腕を引かれるように、衛兵隊の司令官室に連れて行かれた。
「まったく、何をやっていたのだ、アンドレ。」
連れ回されたことと、思いも寄らぬ運命の激変にどっと疲れて髪をかきあげたフェルゼンをにらみつけたオスカルは、いつも黒髪で隠された幼馴染みの額の左側があらわになったのを見て、真っ青な瞳を大きく見開いた。
「おい、大きなこぶができいてるぞ。どうした?」

フェルゼンが、あわてて額に手をやると思い切りはれていた。
フェルゼンはしどろもどろになって答えた。
「こ、これは、壁から落ちてぶつかったときに…。」
オスカルの瞳はさらに大きくなった。
「なんと…!フェルゼンは壁を乗り越えるつもりだったのか。どうしようもない奴だな。」
「なんだと?あれを超えれば近道だと思ったのだ。」
フェルゼンはつい自分が今はアンドレであることを忘れて言い返した。
「馬鹿者。あれを超えれば池だ。おまえも知っているだろう。ああ…、そうか、それで止めようとしたおまえの上にフェルゼンが落ちてきたのだな。」
大きなこぶに驚いているオスカルは、フェルゼンの返答がややちぐはぐであることは見逃し、しかしまったく正しい推理を展開した。
さすが、優秀な武官だ、とフェルゼンは一時、事態の深刻さを忘れて感心した。
「おまえにそれだけのこぶができているということは、フェルゼンにも同様のものができたはずだが…。無事帰れただろうか。」

オスカルの言葉にフェルゼンはホロリとした。
せんだって自分はおまえを拒絶した。
二度と会わないとさえ言った。
なのにおまえはわたしの身の上を心配してくれるのか。
ああ、オスカル、おまえはやはり最高の友だ。
と、感激しながら、フェルゼンはふと気づいた。
自分の格好をしたアンドレはどうしたのだろうか。
後頭部を強打したまま、馬に乗りフェルゼン邸に無事にたどりつけただろうか。
「心配だな。」
フェルゼンはポツリとつぶやいた。
「まあ、あれで一応陸軍連隊長だ。いくら極度の方向音痴とはいえ、自宅に戻るのに迷うヘマはすまい。」
オスカルは目の前に本人がいるとも思わず、遠慮なくフェルゼンの弱点を指摘した。
最高の友とは、痛いところをつくものだ。

「アンドレ、しばらく仮眠を取る。いつもの時間になったら起こしてくれ。」
オスカルは、そう言うと隣室に引き上げた。
「え?いつもの時間って?」
フェルゼンはあわててあとを追いかけた。
「どうした?頭を打って一時的な記憶喪失にでもなったか?いつもの時間といえば午前7時だ。」
「あ…あ。そうだった。いや、ちょっと強く打ったみたいで、まだぼーっとしている。すまなかった。」
オスカルはうさんくさそうにフェルゼンをながめた。
「できれば、目覚めたときにはいつものやつも飲みたい。」
「?」
「頼んだぞ。」
「あっ、すまん。意識が飛んでいて、いつもの飲みたいやつ、がわからん。」
「…。いつものといえばいつものだ!」
オスカルは怒って扉をバタンと閉めてしまった。

フェルゼンは司令官室にひとりになった。
オスカルが、朝飲むいつものやつってなんだろう。
普通は夜明けのコーヒーだが…。
いやいや、変わり者だから、午後の紅茶かもしれん。
あっそうか、酒豪だから、案外朝っぱらからいっぱいひっかける、というのもありだな。
仕方がない、忘れていたと言おう。
間違えるよりはましだろう。

夜中も夜中、深夜のこんな時間に、衛兵隊ベルサイユ駐屯部隊の司令官室でひとり、何をしているのか。
大体、今夜はどこで寝ればいいのだろう。
この部屋には横になれそうな場所はない。
椅子に座って寝るのか?
だが、身体に何もかけずに寝れば間違いなく風邪をひく。
いつも爺に耳にたこができるほど言われているから、それはできない。
アンドレはいつもどうしているのだろう。

もう一度額に手をやる。
い、いたい!
無理もない。
壁から手を離した自分がアンドレを直撃したのだから。
知らなかったが自分は相当な石頭だったのだな。
ふと額にかかる髪がうっとうしくてかきあげた。
だが、視界は広がらなかった。
そうだった。
アンドレは、左眼を失明していたのだ。
フェルゼンはあらためて周囲を見回した。
壁や窓の遠近感がつかみにくい。
あたりまえだが、左横は完全に盲点にはいる。
不自由だな。
アンドレはいつもこんな世界を見ていたのか。

混乱していて寝付けないと思っていたが、いつの間にかウトウトしていたようだ。
このあたりが育ちのよさゆえのおおらかさなのだろう。
しっかり熟睡していた。
そして、肘掛け椅子に腰掛けたままのところを、オスカルに揺り起こされた。
「アンドレ、こんなところで寝たのか?」
「ん…。あ…あ。」
フェルゼンは意味不明の返事をした。
何か話せばボロが出る。
いつもどこで寝るかがわからなかった、などと言えるわけがない。
「よほど疲れていたんだな。これからは無理にわたしの夜勤につきあって寝ずの番をしなくてもいいぞ。」
オスカルが同情をこめた声で言った。
寝ずの番?
アンドレはいつも夜勤のときは寝ないのか?

フェルゼンは思い出した。
衛兵隊はなかなか統率がとれず新任の司令官が苦労していると、この間誰かが言っていた。
前任者は、極秘にされてはいるが、部下に狙撃されたとの情報もある。
アンドレはオスカルの睡眠を確保するために徹夜で番をしているのか。
従卒というのはなんと激務だな。
ん…?
フェルゼンは首をかしげた。
ということは、これからはわたしがそれをするのか?
それは、それは困る。
今度は大きく首を振った。
それから思い出した。
「すまん、オスカル。いつものやつを入れていない。」
とっさに謝った。
「ああ、ショコラか。眠っていたのなら仕方あるまい。」
ショコラだったのか…。
よかった、酒にしなくて…。
よくぞ寝過ごしたぞ、わたし!とフェルゼンは自身を賞賛した。

だが毎度このようにうまくかわせるとは限らない。
大体、このわたしがオスカルの護衛などとは笑止だ。
まあ、それで言えばアンドレだってそうだろう。
剣の腕は絶対オスカルの方が上に違いない。
だが、腕っ節は…。
あんないでたちでもオスカルは女だ。
本来は華奢な身体つきなのだ。
あ…、思い出してしまった。
ドレス姿のオスカルを。
細い腰、白い手…。
もし初めて会ったとき、あいつがあの格好だったら…。
フェルゼンは最大級に首を左右に振った。
いかん、いかん!
自分の人生はすでにアントワネットさまのものだ。

「アンドレ、本当に大丈夫か?」
様子の明らかに面妖な幼馴染みに、オスカルが心配そうに尋ねた。
そしてつかつかと近づいてくると、すっと右手をフェルゼンの額に伸ばした。
細い指が皮膚にそっと触れる。
ち、近い!
一緒に踊ったときと同じ距離だ。
「フー!」
オスカルがいきなり額に息をふきかけた。
驚いて固まってしまったフェルゼンに
「おでこのこぶはフーフーしてれば治ります、っていつもばあやが言っていただろう。」
と、オスカルが笑った。
「あ、ああ。そうだったな。」
たった今、女性としてのオスカルを思い浮かべていたことを見透かされたのかと引きつったフェルゼンは、あわてて適当にうなずいた。

ああ、驚いた!
幼馴染みの二人は、こういう距離感なのか。
まるでガキ、あ、いや、子どもだな。
早く慣れなければ…。
そしてとにかくアンドレと連絡を取り、何とかもとに戻らなければ…。
だが、どうやって?
せめて手紙でも書きたいが、こうずっとオスカルがそばにいると、それもできない。
一体このふたりはいつ離れるのだろうか。
早くひとりになりたい。
そして今後のことを考えたい。

思わずため息が出たフェルゼンにオスカルは容赦なく言った。
「アンドレ、今日は射撃の訓練日だ。いくぞ。」
早足で出て行くオスカルのあとを、フェルゼンは小走りで追いかけた。

とにかく今日一日が無事に終わりますように…。

フェルゼンは胸の前で十字を切った。



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