闇夜とはいえ、両目の視力を得たアンドレは、難なくフェルゼン邸に到着し、迎えに出たじいに、無言で微笑んだ。
遅くまで待たせてすまない、と声をかけるべきだったかもしれないが、それは日頃の二人の関係をある程度さぐってからにすべきだと、とっさに判断した。
この屋敷は、かつてオスカルとともに何度か訪問している。
フェルゼン伯爵がフランスに留学してきたばかりの時は、母国出身の使用人が相当数いたが、何度かの行き来を繰り返す内に、スウェーデン人はほとんどが帰国し、今はじい以外はすべてフランス人だったはずだ。
従って廷内の会話も、フランス語で大丈夫だったとアンドレは記憶している。
オスカルのおともで二、三度尋ねたことのあるフェルゼンの部屋に、すんなり入った。
しつこいようだが、アンドレは一度来たことがあれば、地図が頭に入る。
フェルゼン邸の見取り図を書くくらいは朝飯前である。
だが、衛兵隊舎やジャルジェ邸のフェルゼン伯爵は…。
アンドレは恐ろしい想像を脳内から無理矢理追い払った。
上着を脱ぎ、近くの椅子に腰掛けると、じいが入ってきた。
なんとかこの場をしのがねばならない。
とりあえずフランス語で話しかけた。
「じい、どうやら風邪をひいたらしい。すまないが明日の予定はどうなっていたかな?」
頭をフル回転させて無難な言葉を選び、怪しまれないように振る舞う。
参考にしたのは、オスカルがおばあちゃんにする態度だ。
フェルゼンとじいの関係は、おそらくオスカルとおばあちゃんのそれと似たようなものだろう。
であれば、主人の体裁を取りつつ、若干の甘えを含み、少しうるさい小言に閉口している、という風にふるまえば、間違いなかろう。
案の定、狙い通りで、じいはすぐさまフランス語で答えた。
「それはいけません。やはり冬になりますと夜のおしのびは少しお控え下さいませんと…。」
主人のことを知り尽くしていて、事情に同情しつつも、それでも釘をさすことは忘れない。
育てて来たものとして、主人の頑固さは充分理解しているが、さりとて、他国の王妃との秘めた関係に諸手を挙げて賛同できるはずもない爺の立場が、この一言で感じ取れた。
やはりどことも‘じい’やら‘ばあや’やらというものは同じだな、とアンドレは感心した。
「じいの言う通りだ。しばらくは控えよう。ところで明日の予定だが…。」
アンドレは、おばあちゃんをまるめこむオスカルの常套手段である、必殺の媚びを含んだ笑顔で、指示に従うことを受け入れた。
こうすれば、二の矢、三の矢が飛んでくることはない上、破格の待遇を手にすることができる。
これは以前オスカルがこっそり教えてくれた方法だ。
おまえもやってみろ、と言われ、一度おばあちゃんに使って、こっぴと゜く叱られえらい目にあったことがあって覚えていた。
祖母と孫では絶対逆効果だが、今は主人とじいだ。
使ってみる価値はある。
「ああ、さようでございました。明日は特にご予定はございません。一日ゆっくりなさってはいかがか。ここのところお忙しゅうございましたからな。」
またも計算通りだった。
じいはすぐさま叱責の態度を引っ込め、寛大かつ慈愛に満ちた提言をしてくれた。
「ああ、そうだったね。ではそうしよう。ゆっくり休みたいので、朝の世話係はわたしが呼ぶまでよこさないでくれ。」
アンドレは心底ホッとして言った。
じいは、承知しました、と一礼して出て行った。
第一関門突破だ。
一番フェルゼン伯爵の身近にいるじいをごまかせたのだから、当分は屋敷のものに疑われることはあるまい。
さらには、明日一日の執行猶予がついた。
なんの執行かはこの際考えないことにする。
とりあえず、この身辺の激変に対し、これからうつべき手を死にものぐるいで考えねばならない。
オスカルはどうしているだろうか。
考える先から、オスカルの顔が思い浮かぶ。
今宵の夜勤は無事にすんだだろうか。
フェルゼン伯爵がついているのだから、万が一何かあってもスカルの身の安全を第一に動いてくれるはずだとは思う。
今まで、何度もオスカルの窮地を救ってもらっていることからして、そのことは確信できた。
一方で、だからこそ、オスカルの恋情が彼に向かって募っていったわけで、この確信はアンドレにとってなんともほろ苦いものでもあった。
一旦立ち上がり、室内を見渡した。
窓際の一角に豪華な両袖机があった。
高品質の紙と羽根ペンが几帳面に置いてある。
王妃さまへの恋文用だろうか。
と思ってから、気づいた。
フェルゼン伯爵に連絡をとらねばならないことに。
とにかく何としても会わねばならないのだ。
二人が会わないことには、もとには戻れない。
なんとか、二人っきりで会う算段をしなくてはならない。
考えてみれば、ジャルジェ家の従僕から他家の主人に連絡をとることは不可能だ。
オスカルの指示で、といえば簡単だが、オスカルに知られずに、となると理由が見あたらない。
であるならば、自分から行動をおこすよりほかない。
アンドレは智恵を絞った。
そして、フェルゼンからアンドレに連絡できる唯一の方法を思いついた。
彼は、お借りします、とそこにいるはずのないフェルゼンに小声で律儀に言うと、ペンをとり、紙の上をサラサラと走らせた。
ときどきペンを止め、宙を見つめて推敲し、また紙に向かう。
何度かそれを繰り返した。
やがて、一通り書き終えると、もう一度読み返し、満足げにうなずいた。
机の引き出しを適当にあけて封筒を探し、あまり華美でない手頃なものを見つけて、今書いた手紙をその中に入れ、丁寧に封をした。
これでよし、今できることはした。
オスカルは夜勤明けということで、明日は午前の勤務を終えれば帰宅するはずだ。
ということは、アンドレであるフェルゼン伯爵も午後には屋敷に引き上げている。
帰宅した彼が、すぐにこの手紙を受け取れるよう、時間を見計らって、誰か使用人に届けさせよう。
「昨夜は、思いがけずぶつかってしまい悪かった。わたしも相当の打ち身であるから、アンドレの方はもっとひどいことになっているはずだ。できればアンドレを一日休ませてやって欲しい。ささやかだが、詫びと見舞いを兼ねた品を贈るのでアンドレに渡して欲しい。」
との口上をオスカルに対して述べさせれば、オスカルも怪しまず、見舞いの品だけをアンドレに渡してくれるだろう。
その中に、今書いた手紙をしのばせておく。
うまくすれば、フェルゼン伯爵も一日休暇と称して部屋にこもれるはずだ。
オスカルの優しさにつけ込むようで気が引けたが、この際、そこには目をつむった。
その上で、伯爵にこの手紙に書いた通りに動いてもらえれば…。
ようやく、当面なすべきことをしたアンドレは、豪華なフェルゼンの寝台に潜り込んだ。
すべては明日だ。
明日中にことを解決しなければ、ノエルに間に合わない。
こんなところでノエルを過ごすなどまっぴらだ。
アンドレは焦る心を鎮めるため、静かに目をとじた。
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