聖夜の奇跡

射撃場で、さんざんとんちんかんな受け答えをしたフェルゼン伯爵が、オスカルの白い目に、身の置き所のない思いをしながら、ようやく午前の勤務を終えて二人で一つ馬車に乗り、帰路についた頃には、幾分冷え込みが緩み、風も止まっていた。


わずか半日ではあったが、彼はアンドレとして絶対にしてはならないことを骨身に染みて学習した。
アンドレというものは(れっきとした人間をもの扱いするのはどうかと思うが、フェルゼンにはそうとしか表しようがない。)、オスカルのそばを決して離れてはならない、ということだった。
これはオスカルにとって定理のようなものらしく、きっと彼女はまったく意識していない。
どうやら半歩下がって、できればオスカルの右後ろあたりが、アンドレの定位置らしい。
そこにアンドレの姿がないと、容赦ない叱責がとんできた。
しかも控えているだではなく、こまごまとした用をせねばならないのだ。
書類を書くときは、ペンと紙。
ペンにつけるインクの量まで決まっているのだ!
出かけるときは馬の支度。
そのときの気分を察して飲み物を出すのは至極当然で、上着を着ないで馬に乗ってから、寒い、と怒り出し、なぜ出がけにコートを渡さなかったのか、とにらまれるにいたって、フェルゼンは、いい加減にしろ、と怒鳴りつけそうになり、それを馬首をくるりと反対向きにして肩を震わせながら耐え抜いた。
そして、本当にえらいのは、おそらくずーっとこの状況に甘んじているアンドレ・グランディエなのだと、心底同情した。


一事が万事、日頃使わぬ神経をめいっ使いまくって疲労困憊したフェルゼンは、馬車に乗ると一瞬で眠りに落ちた。
午後の陽気も彼を応援してくれて、ついに到着までまったく目を覚ますことはなかった。
「アンドレ。着いたぞ、起きろ。」
と声をかけられても、自分に言われているとは思わないから、一向に起きる気配がなく、たまりかねたオスカルが肩を強く揺さぶってフェルゼンを起こした。

「随分、疲れたようだな。大丈夫か?」
ぐらぐらと肩をつかまれて、ようやくフェルゼンは目を開けた。
「ん…?オスカル?どうしたんだ?」
寝ぼけ眼で尋ねてから、あわてて思い出した。
自分が今はアンドレ・グランディエであることを…。

「ああ、すまない、もう着いたのか?すっかり眠ってしまった。悪かった。」
言葉を尽くして謝罪するフェルゼンを置いて、オスカルはさっさと馬車を降りていった。
フェルゼンも急いであとに続く。
扉があき、ばあやと侍女が出迎えに出てきた。
「おかえりなさいませ。」
頭を下げるばあやの横で侍女が大きな花かごを持って立っていた。

「なんだ?」
とオスカルが聞くと、ばあやが、フェルゼン伯爵からアンドレへの見舞いの品だ、と説明した。
少し驚いて、オスカルはフェルゼンに振り返り、見舞いの品とともに伝えられた口上を聞くと、大きくうなずいた。
「そうだったのか。よほど強く頭をうったのだな。今日のおまえの不可思議な態度はそのせいだったのだろう。わかった。今日明日は仕事を免除してやる。ゆっくり休め。」
得心がいったオスカルは即座に言い、ばあやにも屋敷の仕事をアンドレに与えないよう命じてくれた。

フェルゼンはあっけにとられながら、侍女から花かごを受け取った。
だが、その中に一通の封書を見つけると、それがアンドレ・グランディエからのものだとすぐに理解し、とっさに話を合わせた。
「ああ、実はそうなんだ。どうもズキンズキンと痛みが激しくて…。悪いがお言葉に甘えさせてもらうよ。」
そう言うと、いかにも痛みをこらえるようにこめかみを押さえた。
そしてばあやに花かごをさしだし
「おばあちゃん、悪いけど、部屋まで持ってきてもらえないかな?」
と頼んだ。

フェルゼンは、今までに何度もジャルジェ家を訪問している。
だが、通されるのは必ずオスカルの客間で、アンドレの部屋がどこにあるかなど知るわけがない。
このまま、花かごを渡されて、オスカルが自室に引き上げれば、どこへ行けばよいかわからず、立ち往生せねばならない。
人間、追い詰められるとなにがしかの智恵が湧いてくるもので、フェルゼンはとっさに、マロンに一緒に行ってもらうことを考えたのだ。

だがこれはあまりにも怖いもの知らずの行動だった。
ギロッと孫息子をにらみつけたマロンは、豊かな胸を張り出し、
「どこの誰に向かってものをお言いだい?」
と言い放った。
どこの誰って、アンドレのおばあちゃんでしょう、あなた、と思わず言いかけたが
「このあたしに荷物もちをさせるなんざ、おまえも随分えらくなったもんだね!」
との罵声に立ちすくんでしまった。
こう面とむかって悪し様に言われるのは生まれて初めてだ。
幸いにも、オスカルが何も知らないまま助け船を出してくれた。
「ルイーズ、わたしの世話はばあやに頼むから、それを持ってアンドレに付いていってやってくれ。」

オスカルに対する深い感謝をとともに、アンドレは抜け目なく侍女の名前を聞き取り、早速習得したことを応用した。
「すまないね、ルイーズ、頼むよ。」
妙齢の女性を見たときの紳士の条件反射でにっこりと微笑むことも忘れなかった。
オスカルとアンドレの二人から頼まれたルイーズは大喜びで承知した。
マロンは、何様のつもりなんだか…とブツブツこぼしながらオスカルと二階に上がり、ルイーズはわざとらしく危なっかしげに歩くフェルゼンを、アンドレの部屋まで極上の笑顔で誘導してくれた。

長い廊下をしばらく歩き、ルイーズは同じ扉が並ぶ一画まで来ると、一番端の部屋の前で立ち止まった。
ここか、とフェルゼンは扉をあけた。
そして、またもや大げさにこめかみを押さえながら中に入った。
ルイーズも花かごを抱えてあとに続いた。
「はい、お花、ここに置くわね。アンドレの部屋って初めて入ったけど、きれいにしてるのね。」
ルイーズは興味津々で室内を見回している。
長居されてはかなわない。
「ルイーズ、頼んでばかりで申し訳ないんだけど、頭を冷やしたいんだ。何か持ってきてくれないか?」
適当に口実を作って体よくルイーズを追い出した。

扉が閉まるや、フェルゼンは花かごから手紙を取り出した。
探せばペーパーナイフくらいあるはずだが、気がせいて、手で破いた。
文面は以下の通りだった。



フェルゼン伯爵さま

ご無事ですか?
こちらはなんとかばれずに伯爵邸に戻りました。
夜風にあたって風邪をひいたということで、二・三日は屋敷にこもることにしました。
わたしの口上で、伯爵も一日くらいは休暇を取れると思います。
この間に、ぜひお目にかかり、なんとか元に戻らねばなりません。
「わざわざのお見舞いが申し訳ないので、自分も御礼かたがたお見舞いにいってくる。」
と口実をつくって、こちらにおいでください。
そして今後のことを相談いたしましょう。
すぐに戻れない場合に備えて、双方の日常のことなど情報交換もしておかなければなりません。
なにとぞよろしくお願いいたします。
アンドレ・グランディエ







見覚えのある紙だ。
わたしの机の上にあったものだな。
封書のほうは引き出しに入れていたと思うが、探し出したのだな。
さすがアンドレ。
自分はペーパーナイフもさがせないのに…。
などと、感心している場合ではないことに気づき、フェルゼンは、もう一度じっくりと手紙を読み返した。


なるほど、うまい作戦だ。
オスカルはさっき今日明日は休んでよい、と言ってくれた。
ならば早速明日、オスカルの出勤後に、フェルゼン邸を訪問しよう。
というより、自邸なのだから訪問ではなく帰宅のはずなのだが、考えるとややこしくなるので、フェルゼンはそこは封印し、手紙を誰にも見られないところにしまうべく、そこら中の引き出しを開けた。
ガタガタ開けたり閉めたりしているところに、ルイーズが手洗いおけとタオルを持って戻ってきた。
フェルゼンはあわてて手紙を適当な引き出しに放りこんだ。
怪訝そうに見つめるルイーズを、最大級のお愛想笑いで誤魔化すと、親切にもタオルを絞り、額にあててくれようとするのを、丁重にかつきっぱり断り、世話になった礼をしつこいほど述べて引き取ってもらった。

この侍女はアンドレに気があるのだろうか。
使用人同士の恋愛は貴族の屋敷ではよくあることだ。
自分のところでも、故国から連れてきたコックが、フランス人の侍女を連れて帰ったこともあった。
そういえばアンドレは自分より一つ年長だから、とっくに妻帯していてもいいはずだが、いまだ独身だ。
自分も独身だから、あまり人のことは言えないが…。
自分の場合は、絶対報われない人を愛してしまったため、結婚など考えも出来ないわけだが、アンドレの場合も何か理由があるのだろうか。
いやいや、昨夜来のアンドレの行動を体験してみれば、色恋に浸っている暇などどこにもないことが明らかだ。
何せすべての行動がオスカルとともにあるわけだから…。

オスカルの従者である以上、オスカルが結婚するまでは、アンドレも独り身だな、気の毒に…。
と思ってから、ふと気づいた。

オスカルが結婚?
オスカルが恋愛?

いかん、またドレス姿のオスカルを思い出してしまった。

オスカルはどんな思いでいるのだろうか。
自分と決別したのち、彼女は近衛を辞め、衛兵隊に移り、自分の言葉通り二度と会うことはなくなった。
庭園で迷子にさえならなければ、ずっとこのままのはずだった。

アンドレ・グランディエの格好だからこそ、こんなにそばにいられるわけで、これがフェルゼンのままだったら、気まずくてたまらない。
いやいや、アンドレ・グランディエの格好だからこそ、そばにいるわけでフェルゼンのままだったらこんなことはあり得ないのだ。

またまたややこしくなってきたので、フェルゼンは一旦思考をストップし、寝台に転がった。
ルイーズの絞ってくれたタオルを額にあてるとスーッと気持ちが楽になった。
あまりの環境の激変で幸い食欲もない。
今日はこのまま、ここで過ごし、明日の計画をしっかり考えよう。
フェルゼンは、しつけのよい子どもの典型のように、寝具をしっかり肩までかけて目を閉じた。




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