聖夜の奇跡

晩餐の席で見渡してみてもアンドレの姿はなかった。
相当ひどい打撲だったのだろう。
司令官室で、久しぶりにアンドレの顔の全面を見た。
あのケガ以来、左半分は常に黒髪に覆われていた。
残された右眼の黒い輝きは、当然左眼にもあったものなのに…。
不自然に閉じられた左眼、皮膚に残る傷跡、それらすべてが自分のせいだとオスカルは知っている。
自分の愚かな作戦の無惨な結果を彼がひとりで負ったのだ。

今日はその閉じられたまぶたの上が大きく腫れ上がっていた。
フェルゼンとぶつかったというが、なんとも間の抜けた話だ。
上から落ちてきた、と言っていた。
信じられない。
あの壁の向こうは池だ。
おそらくアンドレはフェルゼンを止めようとしたのだろう。
そして…。

アンドレに道案内を頼んだのは自分だ。
そしてアンドレは負傷した。
フェルゼンのせいだと言う資格は自分にはない。
自分が行ってもよかったのだ。
だが、できればフェルゼンと顔を合わせたくなかった。
あのような別れ方をして、今さら、どんな顔で会えるだろう。
だから前回も今回もアンドレに頼んだのだ。

その結果、前回は…。
自分がアラン達にひどい目に遭わされた。
アンドレが側に控えてなければ、奴らはああいうこともしでかすのだ。
いい教訓にはなったが、やはり、自分はひとりでは何も出来ないのだ、と思い知らされもした。
あのときアンドレが飛び込んでこなければ…。

そして今回…。
アンドレがひどい目に遭った。
見えない眼の上にさらに大きな傷を負って…。
それならいっそ自分がそうなるほうがよかったのに。
フェルゼンが上から振ってくるなど、想像だにできないが、自分なら身の軽い分、かわせたかもしれない。

意味不明の言動もあやしいが、大抵の場合、こちらが休息を勧めても、大丈夫さ、と笑って隣にいる彼が、あっさりと引き下がり、それきり自分の前に現れないのはどうにも異様だ。
相当の痛みなのだろう。
知らずに、射撃訓練に連れ回して悪いことをした。
オスカルは、小さくため息をついた。

ジャルジェ夫人が、娘の嘆息を鋭く聞きつけ声をかけてきた。
「オスカル、元気がありませんね。」
いいえ、そんなことは、と笑って誤魔化そうとするが、少し頬が引きつっている。
「ばあやに聞きましたけれど、アンドレがケガをしたのですって?」
早耳である。
というか、ジャルジェ家内で起こったことで、その日のうちに夫人の耳に入らないことなど、何一つないのだ。
「ええ。よくご存知ですね。」
嫌味に聞こえただろうか?
だが、夫人は一向に気にせず答えた。
「ルイーズが水で冷やしたタオルを持って行ってやったそうですが、なんだかいつもと違う様子で心配だ、とこぼしていました。」
さすがである。
オスカルよりも詳しい。
オスカルは彼が部屋に引き上げてからのことまでは知らない。
「そうですか。」
「ええ。食事もいらないと言ったそうで、さすがのばあやも心配していました。明日のミサへの御者は誰か別のものを頼んだ方が良いかも知れませんね。」
屋敷内情報戦は夫人の圧勝だった。



最近ではめったにないことだが、オスカルは晩餐後、使用人棟に向かった。
小さいときは、このあたりも遊び場だったが、成人してからは足を踏み入れることもない。
薄暗い廊下の突き当たりまで来ると、扉を軽くノックした。
「はい。どなたですか?」
という声に黙っていると、中から扉があいた。
「オスカル…。」
扉を開けたフェルゼンは、びっくりして後ずさり、近くの椅子にぶつかった。
そんなに驚かなくとも…と、思ったが、考えてみればこの部屋にも久しぶりだ。
「どうだ?まだ痛むか?」
と言いながら、室内を懐かしそうに見渡した。

フェルゼンは非常にあせっていた。
とりあえずアンドレの部屋に逃げ込めば、当面の危機は回避できると思っていたのだ。
まさか最大の危機が、心配顔でやってくるとは…!
というか、ここの家では使用人がケガをすると主人が部屋まで見舞いに来るのか。
「あ、ああ。いや、まだ痛いので、これから休もうと思っていたところだ。」
嘘だ。
帰宅するなり眠ってしまって、さっき起きたばかりだ。
当分寝られそうにもないのだが、こうでも言わないとオスカルが帰ってくれないと思い、わざと素っ気なく言った。
「そうか。すまなかったな。わたしがフェルゼンへの道案内を頼んだばかりに…。」
オスカルの顔がつらそうに曇った。
「いや、そんなことはない。あれは不可抗力だ。」
と答えつつ、実は自分のせいだから、忸怩たる思いがフェルゼンには痛い。

「明日は無理をせず休んでよいぞ。」
「ああ、助かるよ。」
心から嬉しそうに彼は答えた。
その笑顔もオスカルにはなぜか寂しい。
「食事もいらないそうだが…?」
一緒に食事などしたらアンドレでないことがばれてしまう。
「ああ。食欲もなくてね。」
「そうか。」
「あの、オスカル。まだ何か用でも?」
出て行って欲しいという本音があまりに露骨に現れていた。
「いや、邪魔して悪かったな。」

オスカルは部屋を出た。
明日には大丈夫だ、という言葉を自分は欲していたのだと、再び薄暗い廊下を戻りながらオスカルは思った。
あの兵士達の中に、ひとりで切り込むくらいの気概は充分に持ち合わせているつもりだし、負ける気もない。
だが、アンドレがいないということは、そういう問題ではなく、うまく言葉にはならないが、何かポツリと心中に欠けた部分があるような、そんな思いがするのである。

だが、本人が休みたいと言うのなら無理強いはできない。
それならば、むしろしっかり休んで明後日には復帰できるよう養生してもらおう、とオスカルは自分に言い聞かせた。



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