翌朝、オスカルは単身で出仕した。
見送る使用人の中にアンドレの姿はなかった。
オスカルの顔が少し翳り、だがまったく気にも留めぬ態度で馬車に乗り込んだ。
馬車の轍の音が遠ざかるのを息を殺したようにじっと待って、フェルゼンはすぐクローゼットを開け、適当な服を選んだ。
従僕が他家の主を訪問する際には、こういう格好だろう、と想像して、手早く身につけた。
こういうとき、長いアメリカ暮らしの効が出る。
自分の身の回りのことが自分でできるのだ。
次々おこる出来事に自信喪失気味だったフェルゼンはやや浮上した。
使用人棟から厨房はすぐ近い。
いかなフェルゼンでもこれはわかった。
彼は、主人の朝食を下げて戻ってきた侍女たちの中からマロンを探すと、声をかけた。
「おばあちゃん。」
なんだか面映ゆい言葉である。
「なんだ、起きたのかい?それならオスカルさまのお供をすればよかったのに!このなまけものが!!」
突然罵声が返ってきて、フェルゼンは目を白黒させた。
「あ、あの…。実は…。」
祖母とはこんなにおっかない存在だったろうか。
それとも庶民の祖母というのはみんなこうなのだろうか。
ちょっと、いや、かなり気が引けるが、言うべきことは言わねばならない。
「昨日、フェルゼンさまからお見舞いを頂いたから、御礼に伺おうと思うんだ。どうやらあちらもおけがで寝ておられるそうだから。」
アンドレの入れ知恵通りに言った。
「おやまあ!」
「だから、ね。原因は俺にもあるわけだし、オスカルと懇意の方に頂きっぱなしで御礼も無し、というのはちょっと…。」
「そりゃそうだ。オスカルさまのご体面に傷がつくようなことになっては一大事だね。」
無意識に非常にツボをついたらしく、思ったよりずっと簡単に許可が出た。
だが、二の矢は容赦なく立ち去る彼の背につきささった。
「それならお見送りぐらいしても罰はあたらなかったろうに!帰ったらヤキを入れてやるから楽しみにしておいで!」
ヤキとは何だろうと不思議そうに首をかしげながらフェルゼンは裏口を探した。
勝手口というのは、食材納入のため、どこの屋敷でも厨房のすぐそばにあるものだから、これも簡単にわかった。
フェルゼンは表に出ると、キョロキョロとあたりを見回し、厩を探した。
屋敷から少しはずれた所に馬場があるのが見えたので、そちらに向かって歩いていくと、折良く馬小屋から男が馬を引き出すところに出くわした。
「アンドレ、起きて大丈夫なのか?」
厩番らしき男が親切に聞いてくれた。
名前を知らないので、適当に挨拶して、事情を説明し、引き出された馬を借りることにした。
栗毛色のなかなかいい馬である。
「頼むぞ。」
と馬の顔を撫で、一気に騎乗した。
「その様子なら、明日からはお供が出来そうだな。まあ、たまに休みたくなる気持ちはよくわかるよ。」
暗にずる休みを指摘されたようで、フェルゼンはひきつりながら会釈して、馬を走らせた。
自邸に着くと、どうにも不思議な気持ちがしながらも、門番に、ジャルジェ家のアンドレ・グランディエだと伝えた。
すると、驚くほど簡単かつ親切に中に入れてくれた。
そして玄関に出迎えに出た侍女がすんなりと自室に導いてくれた。
わが屋敷の防犯対策は全然なっておらんな、と憤慨してから、どうやらアンドレが、話を通しておいてくれたらしいと気づいた。
当家では主人の意向は最優先されることが、こういう機会に実感され、悦に入りつつ勝手知ったる自室に入った。
侍女が下がったのを確認すると、
「フェルゼン伯爵!」
と、アンドレが泣かんばかりに駆け寄ってきた。
「アンドレ!」
フェルゼンもおのが姿のアンドレに思わず手を伸ばし、二人は互いに二日ぶりの自分の身体を抱きしめた。
「後頭部はどうだ?」
フェルゼンがまず聞いた。
「いえ、それほど大したことはありません。目立った外傷もありませんから。」
「そうか。わたしの方はこんな感じだ。」
フェルゼンが左眼にかかる髪をかきあげ、額をあらわにした。
紫に変色し晴れ上がった皮膚が痛々しい。
「これはまた…!相当強打なさったのですね。」
「ああ、そのようだ。」
だが、強打したときにアンドレの身体に宿っていた精神が果たしてアンドレとフェルゼンのどちらであったかがわからないので、痛かったのは一体誰だったのだろう。
二人は、ややこしいことを考えているヒマはないことに気づき、すぐに本題に入った。
「使用人たちにあやしまれてはいないか?」
フェルゼンは最大の気がかりを尋ねた。
「大丈夫です。昨夜、夜風にあたって風邪をひいたことにしておりますので、今朝から誰もこの部屋に入ってきてはおりません。」
「なるほど。うまいこと考えたな。確かここ二、三日は大した用はなかったはずだ。」
「はい、じいやさんからそのように聞きました。」
「そうか。じいの目もあざむけるとはなかなかだな?」
フェルゼンが笑った。
オスカルがおばあちゃんに接するように相手をしています、とは言わず、
「いえいえ。ただし、夜遊びは控えるようお小言を頂きました。もし元の身体に戻りましたら、覚えておいて話のつじつまをあわせてください。」
「承知した。」
「ところでそちらはどうですか?」
誰が考えても、アンドレがフェルゼンを演じるより、フェルゼンがアンドレを演じるほうが数倍困難だ。
何と言っても、勝手に休めないし、仕事で接する人間の数も多い。
不自然な行動がすぐに目に付いてしまう。
「いや、これがなかなか…。オスカルが何かと用を言いつけてくるので参っている。」
ああ、やはり…。
本当なら言いつけられる前に動いているはずなのに、とアンドレの顔が曇った。
「元に戻ったときのために、できるだけ詳しくお聞かせ下さい。」
アンドレは懇願した。
「うむ。まずは、君と別れて司令官室にひっぱっていかれた。それから仮眠するからいつも通り起こせ、と言われ、いつもがいつだかわからないので、正直に尋ねて叱責された。」
「で、起こしてやれたのですか?」
「いや、あまりの環境の激変に疲れ果てて、眠りこけているところをオスカルに起こされた。」
はぁっとアンドレはため息をつく。
「だがオスカルは怒ってはいなかったぞ。寝ずの番はしなくてもいい、とかなんとか言ってたくらいだ。オスカルの夜勤のたびに徹夜しているのか、君は…?」
「ええ、まあ、何が起こるかわかりませんから。」
オオカミの巣窟に子羊を放っているのだ。
のうのうと寝ていられるわけがない。
フェルゼンならオスカルを守ってくれると思ったが、過信だったのだろうか。
いや、これが王妃さまなら、彼も命がけで寝ずの番をするはずだ。
「まあいい。寝過ごしたおかげでショコラもいれずにすんだ。ケガの功名だな。」
寝不足でショコラなしでは相当機嫌が悪かっただろう。
アンドレはオスカルにも、またそれをまともに蒙ったであろうフェルゼンにも同情した。
「それから射撃場で訓練だ。衛兵隊というのは全く士気は上がらんし、腕は悪いし、こんな連中で王宮警護が務まるのか、わたしは極めて不安になった。」
この際、衛兵隊批判はどうでもいいので、あなたのアンドレとしての行動を教えてください、という正直な気持ちを押し隠し、アンドレは黙って続きを促した。
「オスカルが射撃場へ行っても誰一人敬礼すらしないのだ。さらに驚くべきことに、オスカルもまたそれを叱責もせず、わたしに向かって銃を持ってこい、と言ったのだ。」
率先して模範演技を見せるつもりだったのだな。
ならば、日頃から手入れの行き届いているものを渡してやらねば危ない、とアンドレは思った。
「銃などどこにあるかわからないから、動かずにいたら、アランと呼ばれる男が嘲笑しながら自分の持っているのを放り投げてきた。」
アランの銃か、それなら大丈夫だ。
あいつはああ見えて、武器の手入れには熱心だ。
「非常に態度がでかくて生意気なやつだな。」
フェルゼンのアラン評に内心深く賛同しながら、アンドレは次をうながした。
「それで?」
「オスカルは立て続けに発砲し、全部的に命中させた。」
さすがだ。
アンドレには、そのときのオスカルの姿がありありと目に浮かんだ。
「度肝を抜かれた連中は、それで少しおとなしくなって、それからオスカルは兵士をひとりひとり指導していった。」
「そのときあなたは?」
「後ろをついて歩いたよ。撃ってみようかとも思ったが、何しろ視界が…。」
フェルゼンは言いかけて言葉に詰まった。
アンドレはすぐに察した。
「ご不自由でしょう。申し訳ありません。」
フェルゼンは典雅な貴公子だが、立派な軍人である。
銃も剣も人並み以上の腕前を持っている。
しかし、いかんせん片方の目しか使えない状態では、ちょっと控えておくのも無理はない。
「わたしはもともとあまり剣や銃は得意ではありません。お控え下さって正解でした。本来の伯爵の腕前ではたちまち怪しまれます。」
アンドレは、非常にスマートにその場をとりなした。
「ああ、そうか。いや、そんなことはない。君はオスカルに子どもの頃から鍛えられてなかなかの腕になっているはずだ。」
と、フェルゼンもアンドレを立てて、それから続けた。
「で、続きだが、それからは連中もおとなしくなったので、一通り全員が試し打ちをするのを待って訓練は終了した。色々オスカルが話しかけてきたが、なにせ、どの兵士はどうだ、とかなんとか、どうもいまひとつ理解できないことばかりだったから、適当に相づちを打っておいた。」
それはずいぶんととんちんかんだったことだろう。
頭を打ったせいだ、とオスカルが善意に解釈してくれればよいが…。
「屋敷に帰ると、君からの花かごが届いていた。お蔭でわたしはどれだけ救われたか知れない。今日の休暇もそのおかげだ。うまくすれば明日も休めるかも知れない。」
「それは何よりでした。お役に立てて光栄です。」
アンドレは慇懃に頭を下げた。
「ところで、君のおばあさんはなかなか個性的な人だね。」
これまた随分好意的な解釈で、とアンドレは恐縮した。
「出がけに、帰ってきたらヤキを入れてやろう、と言われたが、それは美味いものなのかな?」
真顔で聞かれたアンドレは一瞬絶句し、哀しそうに首を振った。
できれば、身体が元に戻る前にヤキを済ませておいてもらえれば非常にありがたいのだが、当然それも言わなかった。
とりあえず双方昨夜からのことを相手に知らせ、今後の対応を協議した。
そして、なんの根拠もないが、とにかくもう一度、同じ時間に同じ場所に行き、同じことをしてみよう、という結論に達した。
これで戻れなかったら…。
二人は少し身震いし、邪念を追い払った。
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