聖夜の奇跡

今日も休みたい、と言ったフェルゼンにばあやの蹴りが入った。
小さいばあやの足先はちょうどフェルゼンの向こうずねにあたり、彼は痛みにとびあがった。
「なんて勝手な!昨日、よそさまのお屋敷に行ってこられるほど元気なおまえが、オスカルさまのお供をできないどんな理由があるって言うんだい!」
すさまじい勢いである。
老女の気迫にフェルゼンは圧倒された。

仕方がない。
任務につこう。
アンドレとの約束は深夜だから、このまま出仕して、なんとか理由をつけて詰め所に留まり、夜中にあの壁まで行こう。
そう決心したフェルゼンは両手をあげて降参の格好をした。
「わかればいいのさ。さあ、もうご出発の時間だ。そろそろお行き!」
押されるようにしてフェルゼンは歩き始めた。
「まったく、今日がいつだと思ってそんなすっとぼけたことを言ってるんだか…!夜には皆さま深夜ミサにお出かけなさるんだからね。今年の御者はおまえだよ。」
ばあやがブツブツ言っているが、フェルゼンには意味不明、理解不能だったので、返事はせずに駆け足で部屋に戻りしたくをした。

玄関に行くと車寄せに馬車が止まっている。
御者はすでに席につき、準備万端整っていた。
フェルゼンは馬車の脇に立ち、オスカルを待った。
やがてオスカルが出てきた。
「もういいのか?」
フェルゼンの顔を見るなり聞いてくれた。
休みたかったがおばあちゃん止められたとも言えず、ああ、と軽くうなずくにとどめた。

馬車の中は静かだった。
二人は何も話さなかった。
フェルゼンは、ボロをだしたくなかったから…。
そしてオスカルは、アンドレが何も話しかけてこなかったから…。
いつも、特にアンドレだけが欠勤したときは、その間のできごとを逐一オスカルに語らせ、内容を頭にたたき込んで、一日の遅れを挽回するはずのアンドレが、今日に限って何も言わない。
そういうことにオスカルは不慣れだった。

「今日は聞かないんだな?」
「なにを?」
すっとぼけた答えがまじめくさった顔から返ってきてオスカルは拍子抜けした。
「いや、いい。」
もうわたしのことはあまり気にならないのか?と一抹の寂しさがオスカルを襲った。
なんだか、この二、三日のアンドレは別人のようだ。
おまえがいなかった昨日は、結構色々なことがあったのだか…。
元気になったおまえに笑いながら聞かせることを楽しみにしていたのだが…。

黙り込んだオスカルにフェルゼンは心底ホッとした。
頼むから、わたしに話しかけないでくれ。
わたしはアンドレではないのだ。
だから、おまえの言うことが全然わからない。
不思議だ。
わたしといるとき、あれほど簡潔明瞭に話すおまえが、アンドレとはまるでとんち問答のように省略形で話す。
他人が聞いていても、なんのことだかさっぱりわからない。
フェルゼンはこれ以上話しかけられないよう、わざと顔を窓の外に背け、さらに念の入ったことに、まぶたも閉じてしまった。

わたしとは口も聞きたくない、ということか。
オスカルはあきらかに狸寝入りの幼馴染みを冷たく見つめた。
それから、思い出した。
先日来、二度にわたって出会ったフェルゼンに、自分は大層冷淡に接した。
あのようなことがあったのだ。
今まで通りにニコニコするわけにはいかないと思ったからだが、であれば、アンドレもまた、自分に対して同様の思いでいるのは当然ではないか。

自分はできればフェルゼンと顔を合わせたくない。
アンドレはできれば自分と顔を合わせたくない。
もし会っても、自分はフェルゼンとは事務的なことだけを話題にしたい。
もし会っても、アンドレは自分とは事務的なことだけを話題にしたい。

そういうことか。

オスカルは得心した。

単純なことだ。
なぜこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。
あの夜、突然激情を見せたアンドレは、二度としないと誓って、そして翌朝、まったくいつもの幼馴染みの顔で現れた。
だから、何もなかったような気がして…。

ロザリーが出て行ったり、衛兵隊に移ったりと、環境が激変したため、正確には自分で激変させたのだが、とにかく、そのためにはアンドレのサポートが是非とも必要で、しかもアンドレは完璧にその任務を遂行してくれていたから、すっかりあの夜のことはなかったことになっていた。
少なくとも、自分の中では…。
だが、アンドレにしてみれば、事態は全然違う様相を呈していたはずだ。
自分がフェルゼンに思うことと同じことを、自分に対して思っているわけだ。

フェルゼンは、そういうことを理解し、二度と会わないと言ってくれた。
ばったり会ったのは不可抗力だ。
だが、自分はアンドレに対し、そのようには言わなかった。
いや、そのようにもなにも、なんにも言わなかったのだ。
呆然として、黙ったままだった。
そして翌日からは今まで通りに接してきた。
思えばむごいことだ。
だが、では言うべきだったのか。
もう、二度と会わない、と。

それはどう考えても無理だった。
昨日一日の彼の不在でも、生活の支障著しいものがあった。
彼は生活していく上で必要欠くべからざる存在なのだ。
どうしてもこれを手放すことはできない。

馬車が着いた。
オスカルは狸寝入りのフェルゼンに向かって厳しい口調で言い渡した。
「アンドレ、いくぞ。そばを離れるな。」





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