聖夜の奇跡

司令官よりも司令官補佐のほうが、よっぽど身体を使うということを身をもって実感したフェルゼンは、すっかり日が暮れて、ようやく帰り支度を始めたオスカルに言った。
「昨日休んだためにためてしまった仕事がある。悪いが今夜はここに残るから一人で帰ってくれないか?」
オスカルの眉がピクリと動いた。
「一人で?」
「ああ。俺はちょっと帰れない。」
理由は残業ではない。
アンドレとの約束のためだ。
何が何でも今夜あそこに行くのだ。

いつも穏やかな幼馴染みらしからぬ言い方に、オスカルは仕方なく了解した。
「そうか。だが、まだケガがすっかりよくなったわけではないし、その目で書類仕事はきついだろう、無理するなよ。」
と言うと、オスカルは司令官室を出た。
見送りにも来ないのか。
めったにないが、アンドレだけ残る時は、必ず馬車のところまで来て、馬の顔をなで、
「オスカルをよろしく頼むぞ。」と言って聞かせてくれ、馬車が門を出るまで見送ってくれていたのに…。
オスカルは無言で歩いた。
いつものアンドレを求めることは、自分のわがままだと言い聞かせながら…。

一方、フェルゼンはようやくやっかい払いができたといわんばかりの晴れがましい表情で、一言、ありがとう、と言うと、バタンと内側から扉を閉めた。
やっとひとりになれた。
朝の馬車からこっち、離れた時間はどれくらいあっただろう。
そして、「ボーッとするな!」と何回怒鳴られたことだろう。
副官への伝言を頼まれたのをいいことに、少し裏庭で時間つぶしをしてから帰ったときのオスカルの恐ろしい形相…。
毎日あんな顔でにらまれるのはたまらない。

それに、このままでは王妃さまにお目にかかることもままならない。
庭園での別れ際、
「次はいつ会えますか?」
と聞かれたとき、またご連絡いたします、と答えたままだ。
どんなにわたしからの連絡をお待ち下さっていることだろう。
アンドレにかわりに行かせるなど断じてできないから、もし戻れなければ、王妃さまはわたしが心変わりしたかと思われるだろう。
とんでもないことだ。
彼の頭には、アンドレをかわりに行かせる、という選択肢ははなから存在していない。


衛兵隊の交代を告げる太鼓の音が鳴り、いよいよ約束の時間がきた。
フェルゼンは、昼休みの間に確認しておいた道を通り、例の壁に急いだ。
今夜は何があっても迷子になってはならない。
そして、誰かに見つかるわけにもいかない。
貴族のいでたちよりも衛兵隊の制服の方が、見回りと思われて動きやすいのがありがたい。


無事に目的地に到着すると、すでにアンドレが来ていた。
誰にも見つからず、一度も迷わず、当然のようにアンドレはその場でフェルゼンを待っていた。
「少し遅かったかな?」
すまなさそうな顔のフェルゼンに、アンドレは言った。
「わたしが早かったのです。衛兵隊がどこをどの時間に通るかを知っておりますから、それを避けて、少し早めに参りました。」
まったくそつのない奴だ。

「そろそろです。」
アンドレが茂みの中に入っていった。
石壁の前で、慎重に一昨夜の痕跡を探す。
不自然に植え込みが踏みつぶされたあとを見つけた。
「ここです。」
アンドレの声にフェルゼンも移動した。
「では登ります。」
アンドレがゆっくりと壁をよじ登り始めた。
見た目には、一昨夜と全く同じ光景である。
ただ、人物の中身が入れ替わっていることをのぞけば、であるが。

「確かその辺の高さの時だ。」
下からフェルゼンが言った。
「では、行きます!」


ゴチ〜ン!


闇夜の中、二人の男は頭を押さえながら立ち上がった。
恐る恐る相手を見る。
フェルゼンにはアンドレが、アンドレにはフェルゼンの姿が見えた。
そしてそーっと自分の衣服を見る。
フェルゼンは自分がビロードの上着と、レースのたっぷりついたブラウスを着ていることを知った。
アンドレは、なじみの衛兵隊の制服を着ていた。

「戻っている!」

二人は同時に叫んだ。
そして互いに、二日にわたって間借りしていた相手の身体をいとおしげにたたいた。
「やったぞ。」
「思った通りだ。」
しばらく意味不明に笑い続けて、それから二人は、誰かの足音にあわてて声を消し、その場にしゃがみ込んだ。
見回りだ。
息を殺していると、足音はそのまま通り過ぎた。

「さあ、自分の持ち場に戻りましょう。」
アンドレが言った。
「そうだな。」
「大変失礼かとは思いますが、念のため、馬を止めた場所までご案内します。ついてきて下さい。」
フェルゼンは、すまないな、と言いつつ、なんだかアンドレにあやまってばかりだ、とも思い、それからは無言で彼の後ろに続いた。
一昨夜つないだ場所で、まるで時が止まったかのようにフェルゼンの馬は主人の帰りを待っていた。
フェルゼンはその背に懐かしそうに乗った。 
「二日ぶりとは思えぬほど時がたった気もするな。」
「わたしもです。」
「昨日の欠勤を補うために残業するとオスカルには言ってある。よろしくやってくれ。」
フェルゼンはアンドレに手を挙げて挨拶し、静かにその場を離れた。

その姿が視界から消えたのを確認すると、アンドレは脱兎のごとく駆けだした。
そろそろ次の巡回兵が来る時間だ。
闇をものともせず、彼は木立を抜け、最短距離を通って司令官室に滑り込んだ。
ホーッと大きなため息が出た。
そして素早く室内を見渡した。
オスカルの執務机は変わりなかった。
そして自分のは…と見ると、書類の山だった。
クスクスと笑いが洩れた。
オスカルが、隊長あてのものをそのままこちらに廻したのだろう。
手早く分類し、必要なサインをして、オスカルが読むべきものだけ、彼女の机に戻した。
そして時計を見た。
長い長い一日だったが、まだ間に合う。
アンドレは再び外に出た。




オスカルは、まだ寝ていなかった。
深夜ミサには両親と三人で出かけた。
御者は、アンドレではなかった。
ばあやが烈火のごとく怒っていたが、残業ではしかたがない。

眠りたかったが、睡魔が今日は自分を避けて通っているかのようで、仕方なくブランデーを持ち込み、チビリチビリとやっていた。
まもなく日付が変わる。
1787年の12月24日から25日へと…。
静かな夜だ。
雪など降ればなおのこと聖夜にふさわしい。

コンコンと小さく扉をたたく音がした。
こんな時間に誰だ?
「オスカル、オスカル。」
ささやくような声が聞こえた。
空耳かと思ったが、もう一度扉をたたく音が聞こえた。
「アンドレか?」
「起きているなら入れてくれないか?」
「あ…あ。入れ。」
バタンと扉が開いて、息を弾ませたアンドレが入ってきた。

「アンドレ!どうしたのだ。泊まりではなかったのか?」
驚くオスカルにアンドレはにっこり笑った。
「仕事は終わらせた。誕生日おめでとう。ミサについて行けなくて悪かったな。」

ああ、いつもの笑顔だ。
オスカルは心いっぱいに暖かいものが注がれたことに気づいた。
だが、つい恨み言が口に出た。
「見送りもしなかったくせに。」
「少しでも早く終わらせたかったんだ。」
「どうも様子がおかしかった。」
「実はたんこぶがひどくてね。」
アンドレは元に戻るために再び打って、一層無惨になった額を見せた。
紫色だったところが黒ずんで、腫れもさらにひどくなっていた。
「これはひどい!」
「ちょっと、また打ってしまってね。」
「おまえらしくもない。」
「まったくだ。」

オスカルはつとめて普通の顔を心がけた。
「麻酔代わりだ。飲め。フーフーは効かなかったようだからな。」
多少嫌味もこめてやった。
ひょっとしてフェルゼンにフーフーしたのか…?とアンドレはチクリと胸が痛んだ。

オスカルがグラスを渡した。
「メルシ。」
アンドレは気を取り直して受け取った。
「乾杯だ。」
「何に?」

オスカルはしばらく考えて、ぽつんと言った。
「わたしはいつもの聖夜に…。」

アンドレは、やはりこれしかなかろう、と小さくつぶやいた。
「では俺は聖夜の奇跡に…。」

二人はグラスをカチンとあわせた。
いつもの二人がいつもの聖夜を静かに飲み干した。



                            fin



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