作 オンディーヌさま
正式な布告がまだだというのに、パリの酒場もカフェも連日、ある話題で沸き返っていた。
―我々の代表を議会へ!
―特権階級にも課税を!
―国王に直接、我々の苦しみを伝えよう!
だが、こう叫べるのはまだ飢えながらも、生きる力を残している者達だけ。
そうでない者達は、この世に生まれてきた意味さえ見つける前に、この不衛生な街で泡のように消えていった。
そして、さらにたくさんの命を奪うことになる厳しい冬はもう、すぐそこに・・・
三部会を!
我々の代表を!
三部会を!
国王に直接!
三部会を!
我々に生きる権利を!
三部会を!
三部会を! 三部会を! 三部会を! 三部会を! 三部会を!
まだ、昼を少し過ぎたばかりだというのに、えらく慌てた足音が司令官室に向かって近づいていた。その足音は司令官室の前でぴたりと止まると、今度はノックの音まで忙しなく、その用向きを伝える人間の心のうちを表しているかのように室内に響いた。
司令官が入室許可の声をかけると、薄い封筒を持ったダグー大佐が一礼もそこそこに、声の主に握り締めてきた封筒を差し出した。
「先ほど、ジャルジェ家の方がみえまして、これを隊長にお渡しするよう言付かりました」
ダグー大佐は、室内にアンドレが控えているのを確認すると、もし返事のいる用向きの手紙だったとしても、あとはアンドレが引き継いでくれるだろうと安堵の表情を露にした。
「なんの用かは知らんが、すまなかった」
「いえ」
短く返事をすると、ダグー大佐は自分の任務は果たしたとばかりに、そそくさと出ていってしまった。
封筒を裏返すと、そこには意外な差出人の名前が記されていた。
「母上からだ」
自分が帰るまで、待てない用とはいったい何なのだろうと訝しがりながら、オスカルはその甘い香りの封を切った。中からは、当たり前だが見覚えのあるジャルジェ家の紋章入りの便箋と母の文字。
―かわいいオスカルへ
今日はできるだけ、早く帰ってらっしゃい。
母よりー
「なんなのだ、これは?」
オスカルはアンドレに自分の読んだ手紙をそのまま手渡した。
勤務中に、ジャルジェ家から使いが来たとなれば、きっと大事が起こったに違いない。なにを差し置いてもすぐに、帰宅しなければいけない事件が起きたのだと、覚悟を決めたアンドレだったが、渡された手紙を見れば、自分の心配ははなはだ見当違いだったと首を傾げるしかしょうがない。
オスカルはこの意味不明のメモ書きのような短い文面から、できる限りなにかを読み取ろうと思考をめぐらせてみた。
だいたい、この近所の屋敷へ遊びに行っている子供に出すような文面。
考えてみれば、これはどうも悪い用件ではなく、なにかいいことらしい。
いや!待て!母上にとっては悪くない用件なだけで、自分にとっていい用件かどうかは分からない。
だいたい、「かわいいオスカルへ」というのが、ひっかかる。
いかにも、母の心が浮き立っているとでも言わんばかりの書き出しだ。
そして、「早く帰ってらっしゃい」。
いかにも、いかにも、母にとっては、楽しいお知らせがありますとでも言いたげに聞こえてくる。
こうなると、用件のはっきりしない手紙というのは、訝しいだけではなく、とてつもなく気持ちの悪いものとなってくる。
「アンドレ!なんの用事かは分からんが、とにかく、今日は早く帰る!」
そう言い切ったあとのオスカルの行動は、いつもの機敏さを倍速にしたようなめまぐるしさと変化した。
食後の飲み物を断り、机の上の書類をあっという間に片付け、オスカルは宮殿警護にあたっている兵士達の様子を見るために、外へ出た。
途中、昼休憩を終えたばかりのジャンが目ざとく隊長を見つけ、駆け寄ってきた。
「た、た、隊長!こ、今度、ドレスで・・・」
「分かった!」
「へっ?!」
ジャンが言い終わらないうちに、オスカルは右手を軽く挙げて短く答えると、ジャンが振り返ったときには、はるか遠くまでアンドレとともに移動していた。
今日だけは兵士達の軽口にも、態度の悪さにも言葉遣いの悪さにも目を瞑ろう。注意するのは特に今日でなくてもできること。
と心に決めてはみたものの、フランソワ・アルマンの顔色の悪さだけには、さすがのオスカルも目を瞑ることが出来なかった。
今日は午後から、王妃主催の「カード遊び」が平和の間で催されることになっており、その部屋に一番近い宮殿入り口の、右側にフランソワ・アルマン、左側にラサール・ドレッセルが配置されていた。
本来なら、ゲストを迎える宮殿の入り口に警護として立つのは、近衛の役目と決まっていた。しかし、三部会を巡る度重なる会議と、ムードンの護衛に近衛の人員を取られ、今日の「カード遊び」のための宮殿入り口の警護には衛兵隊から2名出すことになっていた。
その、いつになく晴れがましいポジションに据えられた二人のうちの一人、青白い顔をした、今にも倒れそうなフランソワ・アルマンにオスカルが駆け寄ると、彼は本当にオスカルの胸に向かって倒れてきた。
「大丈夫か?」
「はい・・・」
そう力無げに答えるフランソワの表情は心なしか、うっとりしているようにも見えた。
・・・にも見えたが、とりあえず、オスカルはフランソワを自分にもたれかけさせたまま、彼の頬に手を当てると親指で下目蓋を引っ張り下げた。
「だめだ!全然、貧血がよくなってないではないか!ちゃんと食べているのか?」
入り口の左側でその様子を、羨ましげに見ていたラサール・ドレッセルは、その言葉にドキッとした。
なんせ、さっきの昼食のとき、カードの貸しがあるラサールはフランソワから肉を一枚巻き上げたところだった。
「アンドレ!フランソワを衛生室へ連れていってくれ!そして、気分が回復したら厨房からなにか見繕って、食べさせてやってくれ」
「分かった」
アンドレは返事をするが早いか、フランソワをふわりと、抱き上げ、衛生室に向けてすたすたと歩き始めた。
「それと、代わりの兵士を至急、ここへ寄こしてくれ!それまでは私がここにいる」
「任せとけ!」
とても、人一人抱えて歩いているとは思えないほどの速度で進むアンドレの頼もしい声は、かなり離れたところから返ってきた。
こうして、オスカルはラサールと並んで、しばしの間、宮殿入り口の左右に立つこととなった。
「隊・・・長・・・」
この機を幸いと、隊長に話しかけようとしたラサールだったが、「カード遊び」にやってきた貴族達、とりわけ貴婦人方がことごとく、オスカルの前で立ち止まり、話しかけるためラサールの計画はあえなく、失墜してしまった。
「おや、ジャルジェ准将、君が直々に出迎えとはブルボン王朝の栄華もますますと言ったところかな。ははっ・・・」
こういう貴族には目礼程度で済む。
「まあ、オスカルさま、毎回、サロンへのお誘いの手紙をお出ししておりますのに、いっこうに来ていただけませんこと」
「私がここにこうして、立たなければいけないほどの、忙しさでございます。どうぞお許しを」
そう言って、貴婦人の手にキスを送り、彼女が進むべき方向を目で導く。
次は娘を伴ったご婦人。
「ああ、オスカル・フランソワ!あなたに熱を上げていた娘の縁談がようやく決まりましてよ」
「これは侯爵夫人、さぞかしのご良縁かと存じます。心からお祝い申し上げます」
そして、娘に目を移す。
「薄紅色の頬をしたお嬢さん、どうぞ、いつまでもお幸せに」
この言葉がけして、社交辞令だけではないと、貴方の幸せを願い、今の弾けるような若さと美しさをいつまでも私の心の中に留めておきますと、オスカルは伝えたかった。その思いを微笑みに託し、胸に手をあて、お辞儀で母子を送り出す。
その様子をただただ、ポカ〜ンと眺めていたラサールだったが、そのうち先ほどの娘が母の手を振り切って、思いつめた面持ちで階段を駆け下りてくる。
「オスカルさま!次、夜会でお目にかかる機会はございまして?どちらかの舞踏会にお出になるご予定は?」
薄紅色の頬は蒼白となり、目に涙を浮かべて娘はオスカルに迫った。
「貴女が御輿入れ前に出席される、最後の舞踏会をお知らせくださいませ。その舞踏会でぜひ、お相手をさせていただきます」
娘の目に浮かんでいた涙はぽろぽろと、その頬を伝い落ち、やっと青ざめた頬に赤みが差し始めた。
その様子を娘の後を追ってきた母親は呆れ顔で、眺めていた。
「あなたも、罪作りね。オスカル・フランソワ」
「ご息女の意中の人が私でようございました。私がご息女に残して差し上げることができるのは、美しい思い出だけでございます」
その言葉に侯爵夫人はたいそう、納得した様子で、また娘の手を引いて「平和の間」へと階段を昇っていった。
客の途切れたところで、ラサールはやっと隊長に声をかけることができた。
「隊長、俺、隊長を尊敬します!」
オスカルは言葉で答える前に、顎で前を向くようラサールに促した。
「いいか。貴族が、おまえ達にどんな横柄な態度を取ろうとも、蔑みの視線や言葉を投げてこようとも、けっして、表情を変えるな。まっすぐ前を向き、毅然としていろ!いいな」
ラサールは、はっとした。確かに、隊長が来るまでは、貴族達は並んで立つ自分とフランソワに対し、無視して通り過ぎる者のほうが少なかった。ジロジロと眺めて気分の悪そうな顔をする者、「ふんっ!衛兵か」と聞こえるように呟いて、通り過ぎる者と、いつもの近衛ではない自分達に蔑みの態度を露にする者が多かった。
それを見ていたわけではないのに、ただ、察して、動揺するなと助言する上司に正直、驚いた。この人は、さっき自分達にあからさまな軽蔑の視線を送ってきた貴族達と同じ身分のはずなのに。自分達の理解者は同僚しかいないと、ずっと思っていたのに。そう思うとラサールは胸が込み上げてくるのを押さえることができなかった。
ラサールが言葉をなくしていると、向こうからアンドレとジャンが早足で、いや、駆け足で近づいてきた。今日は、誰もが動きが速い。
「フランソワはどうだ?」
「ああ、思ったより、気分は良さそうだ。スープと鶏肉をたいらげた」
「そうか」オスカルがほっとした笑みを漏らしたと同時にジャンがやっとの思いで、口を挟んだ。
「たっ、隊長・・・」
「よしっ!ドレスだな!」
「へっ!?」
ジャンから次の言葉が発せられる前に、オスカルはアンドレを従えて「平和の間」へと階段を昇っていた。
「なっ、なんだよ?今日は?」
「黙って、前を向いてろ!ジャン!」
「なっ、なんだよ!おまえまで」
「まっすぐ、前を向いて毅然としてろ!」
「なっ、なんだよ、なんだよ・・・」
ジャンはぶつぶつ言いながらも、ラサールのいつになく厳しい横顔に、それ以上、話しかけることはなかった。
一方、「平和の間」では、すでにカードを始めている貴族、相手が集まるまで飲み物を片手に世間話に花を咲かせる貴族、席にも着かず、自分の今日の装いを誇示するかのように、あるいは集まった顔ぶれを確認するかのように、しゃなりしゃなりと室内を歩いて回っている貴族で溢れていた。その貴族達の香水の匂いが室内に充満し、むせかえるほどだった。ここは、いつもとまったく変わらない。10年前、20年前とも変わらない。その変化のなさが、かえって不気味な感じさえ与える。まるで、社会から取り残された異次元空間のように・・・
「出よう」オスカルは小さな溜め息をひとつつくと、アンドレに声をかけた。
「宮殿内は近衛の管轄だ。あとは、いったん厩舎に戻り、馬で庭園を視察して・・・そして、パリからなんの連絡もなければ、今日は無事終わりだ」
「ああ」
幸い、一日、パリからはなんの連絡もなかった。なんの連絡もないと、よけい気になるものかもしれないが、アンドレはさっさと馬車の用意をするとオスカルを急かした。
「カードの客も帰って、ジャンもラサールも戻ってきた。帰ろう」
「そうだな」
オスカルはやっと、腰を上げ、アンドレに促されるまま馬車に乗り込んだ。
「おまえにとって、いい用件だといいな」
「わたしにとっていい、悪いはすなわち、おまえにとってもということだ、アンドレ」
「それはそうだ」
オスカルは右手をアンドレに預けたまま、笑みを交わした。
その光景を見ていたラサールとジャンが駆け寄ってきた。
「アンドレ!その役目、いっぺんでいいから、俺に代わってくれ!」
「ああ、そのうちな」
そう言って、微笑むとアンドレは御者台についた。
ジャンは馬車の窓から見える隊長の横顔に、目いっぱい噛まないように努力しながら声をかけた。
「隊長!今度、ほっ、本当にドレスを・・・」
「ああ、そのうちな」
オスカルは前を向いたまま、微笑んで答えた。
その言葉を合図に、アンドレは馬車を走らせ始めた。
「なんでぇ!なんでぇ!二人とも!!」
後ろから聞こえる部下達の声が遠のいていく。
落ち着かない心地のオスカルを乗せたまま、馬車は進んでゆく。
アンドレの走らせる馬車は揺れが少なく、そして着実な速さでヴェルサイユ宮からジェルジェ邸への道のりを進んでいく。
そして、さらに、宮殿から遠のき、曲がり角に差し掛かった時、窓の外、遠くにパリの灯が見えた。
ああ、パリよ!
どうか、今夜だけはおとなしくしていてくれ
おまえがいずれ『花の都』と呼ばれる街ならば
今夜だけは、どうか静かに眠ってくれ
パリよ!
その昔、城壁に囲まれし街よ
もし、おまえを侵略しようとする者があれば、必ず私が守ってやる
だから、パリよ!
今夜だけは、淑女らしく眠りについてくれ
おお、パリよ!
いずれ『麗しの都』と呼ばれる街よ
歴史で血塗られた街とならないでくれ
パリよ!パリよ!
この胸騒ぎが治まるまで、どうか騒ぎを起こさないで
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