アンドレはマルグリットの笑いがなんとか、収まるともう一度、背中をぽんぽん
と叩いて、今度は退室を促した。
「さあ、今度は本当にこれで失礼するから、作 曲にに専念してくれ、ヴォルフガング」
そう言うと、マルグリットの背中に手 を添え、廊下へと出て行った。
廊下へ出ると、アンドレはすぐにマルグリットの腰から手を離し、脱兎のごとく
廊下を走り階段を駆け下りた。
「用事を思い出したから、先に行くよ」
という アンドレの声は、もはやマルグリットから遠く離れた場所から聞こえてきた。
ア ンドレはそのまま、厨房へ駆け込むとすぐにお湯を沸かし始めた。
そして、お湯 が沸く間に食器戸棚の中から食器を見繕った。
どの食器戸棚のどこにどんな食器 が置いてあるかは、すべてアンドレの頭の中に入っており、今日、選んだのはピ
ンクとうす緑で花と葉が描かれた菓子皿だった。
アンドレはその菓子皿にホワイ トショコラのボンボンを配置よく並べると、同じ柄のティーセットを取り出した
。
お湯が沸くと、今度は茶濾しにダージリンを入れ、熱湯を注いでしばらく待つ と、手際よくティーポットから茶濾しを上げて、ふたをした。
そのアフタヌーン・ティーセットを片手にアンドレは行きかう使用人達にぶつか
らないよう、身体を横にしたり、トレーを頭上高く掲げたりして、やっと厨房か
ら出た。
廊下を急いでいると、今度はマルグリットとすれ違った。
「ずいぶんと急いでるのね」
マルグリットが声をかけたが、アンドレは歩みを止めずに振り返りながら答えた
。
「オスカルにお茶を頼まれたのを忘れてた!」
「まあ、それは大変!」
アンドレはマルグリットの声を背中で聞きながら、階段を駆け上った。
そして、 音楽室とは反対側の翼へと走った。オスカルの部屋の前まで来ると、アンドレは
立ち止まり、走ってきたことを気取られないように肩を上下させながら、呼吸を
整えた。
そして、扉を落ち着いた音とリズムでノックすると、静かに室内に入っ ていった。
オスカルは長椅子の隅に座り、肘掛に肘をついてぼんやり、外を眺めているよう
だった。
アンドレは、暖炉の前でいったん足を止めると、置時計の横に置いてあ るチャイナドールを手に取り、トレーの上に載せた。
そのチャイナドールというのは、貴族達が東洋趣味で、有難がってコレクション
する高価な陶器、磁器とはほど遠い粗悪品で、アンドレがいつかパリで買い求め
てきた小さな置き人形だった。
その人形は、首と胴とがコイルでつながっており 、頭を押さえるとその反動でぽよよ〜んとコミカルな動作をしてくれる仕掛けに
なっていた。
その動きと愛嬌のある顔が気に入って、アンドレが安値で買い求め たものを、それを見たオスカルが気に入り、今はオスカルの部屋に飾られている
のだった。
アンドレはトレーをテーブルに置くと、遠慮することなく、オスカルの隣に腰を 下ろした。
そして、座ったままお茶を注いだ。
おそらく、こんな無作法をマロン ・グラッセが見たなら間違いなく激怒しただろう。
次にアンドレは、長椅子の座 面に置かれたオスカルの白い手に、自分の手を重ねた。
オスカルは少し驚いた様 子だったが、こちらを向こうとはしなかった。
そんな様子を、いっこうに気にか けぬフリをして、アンドレはチャイナドールの頭をポンと押した。
粗悪品のチャ イナドールはカタコトと音をたてながら、ぽよよ〜んと首を振った。
おそらく、 その様子をオスカルは横目で見ているのだろう。
オスカルの口元が微笑んでいる のが、アンドレから見てとれた。
アンドレはオスカルのために煎れた紅茶を一口 飲むとつぶやくように歌い始めた。
俺はチャイナドール
愛の言葉を綴りたくても できるのはただ、首を振って 彼女を微笑ませるだけ
ここで、アンドレはもう一度、チャイナドールの頭を押した。
人形の滑稽な動き とは対照的に、アンドレの歌うメロディーはとても切なかった。
不器用で無口なチャイナドール
暖炉の上から彼女を見つめ 彼女の手に取られるのを待っている
ここで、オスカルが口を閉じたまま、くっくっと笑うのが聞こえた。
アンドレは もう一度、人形の頭を押した。
カタコトという音を間奏に、アンドレは歌を続け た。
愛を知っているというのは 俺の自惚れだろうか
愛を伝える術も持たないチャイナドール
俺が恐れるのは 彼女がこの部屋を永遠に去ってしまうことだけ
オスカルは泣き笑いの顔をアンドレの方に向けた。
それと同時にアンドレは、自分の両目尻に指を当て外側に引っ張ったまま、人形
の真似をして首を振った。
ぽよよ〜んと。
オスカルはとうとう、噴出した。
「ばかめ、男前が台無しだ・・・」
「おまえも、同様に」
アンドレはそう言うと、涙で顔に引っ付いた金色の糸を指で解いた。
オスカルの 穏やかな笑顔にアンドレは、ほっと胸をなでおろした。
そして、その唇をチュッ と吸うと、溜め息をついて長椅子の背にもたれかかった。
すると今度は、オスカルが人形の頭をぽよよ〜んと押した。
「おいおい、そんなに押すと安物だから壊れるぞ」
「ならば、本物の美術品よりも大切にしよう」
「同様に・・・」
アンドレはそう言うと、少し身体を起こし、自分の胸をぽんぽんと叩き、『自分
のことも』と主張してみた。
オスカルの押さえ切れなくなった笑い声を聞きながら、アンドレは長椅子の背に
もたれると、またオスカルの手に自分の手を重ねた。
アンドレは手を重ねたまま、その愛の仕草の返礼を求めてはこなかった。
冬の午後に許された、恋人同士として過ごす、つかの間の時間をテーブルの上の
チャイナドールだけが見つめていた。
この穏やかなアンドレの愛を大切にしよう。
いつか、二人が違う形で愛し合えるときまで・・・
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