作 オンディーヌさま

モーツァルトは聞こえるか、聞こえないかくらいのノックで入ってきた。アンドレが扉の前まで付いてきた様子だったが、モーツァルトをオスカルの部屋まで送り込むと、屋敷の用があるのか引き返してしまった。一人にされたモーツァルトはその足運びさえ、自信なさげにおっかなびっくり、オスカルに近づいた。

「おはようございます。ジャルジェ准将」
「ああ、オスカルでいい」
さぞや、眉を吊り上げて怒鳴られるだろうと思っていた、元幸運の女神は思いの外、穏やかな表情をしていた。
「パレ・ロワイヤルはどうだった?」
「それはもう・・・あんな活気と物に溢れた場所は見たことないよ。・・・カフェや酒場には貴族だって出入りしてるのに、平気で王制批判してる。・・・さすが、治外法権区域だ・・・ね・・・」
モーツァルトはオスカルの顔色をうかがいつつ話した。
「ところで、お父上のレオポルド氏はどうしてみえる?」
「パパは・・・死んだよ、去年・・・」
「レオポルド氏が?」
モーツァルトの才能をいち早く見抜き、それを育て、また世界中に宣伝して回った偉大なる父レオポルド・モーツァルトは息子を案じつつ、1787年に他界していた。
「レオポルド氏の残されたヴァイオリン教本で、子供の頃、よく練習したものだ」
親を亡くすという意味がオスカルには、まだ実感として湧かなかった。両親にも姉妹にも、そして、ばあやにも無二の親友である恋人にも恵まれ、誰一人として亡くすという経験を、幸運にも、いまだしていないオスカルはしばらく、無言になった。

「ベートーベンを知っているか?」
今度は極めて、意外な問いがオスカルから飛び出した。
「ああ、彼には去年、会った。僕に心酔している」
モーツァルトは不思議そうにオスカルを見返した。オスカルは微笑み、書き机の前から立つと、自分の部屋に置いてあるピアノフォルテまでゆっくりと歩みを進めた。そして、ピアノフォルテの前に座り、鍵盤のふたを開けると、いきなりフォルテでハ短調の和音を弾いた。そして、それに呼応するメロディーを今度は対照的にピアノで弾いた。すると案の定、モーツァルトの顔つきが変わった。
「なんなの!?その曲は?」
「ピアノソナタだ」
オスカルは次の一小節も同じように弾いた。
「誰の曲!?」
「私のだ」
オスカルは微笑んで答えて見せたが、次の瞬間、モーツァルトが叫んだ。
「嘘だ!!」
モーツァルトはオスカルの真横まで、つかつかと歩み寄った。
「彼のなの?僕ならそんなテーマをピアノソナタに持ってきはしない。そんな・・・そんな悲愴なテーマは・・・」
モーツァルトは完全に落ち着きを失くしていた。その様子を見て、オスカルは自分の嘘を認めた。
「そうだ。彼のだ。君とはまったく、違うタイプの天才だ」
「だって、彼はまだ17か18だよ。やっと少年から青年になったばかりだ」
「その彼が、いつか君に次ぐ大作曲家になる。この曲も続きは彼しか知らない。そして、音楽家の地位も彼がきっと高めてくれる。人は変えたいと思っても、一生のうちにできることと、できないことがあるのだろうな」
オスカルの口調は極めて穏やかだった。
「オスカル・フランソワ、あなたは預言者?」
「いや、そうではないが・・・」
穏やかな表情のオスカルに対して、モーツァルトの表情は険しく、唇をきゅっと結んだままだった。そして、曲げた人差し指を自分の口に当てたまま、しばらく黙りこくってしまった。オスカルも何も言わず、モーツァルトの次の変化を待った。やがて、モーツァルトは唇から指を離すと、震えるような溜め息をついた。
「オスカル、ありがとう。・・・ちょっと、失礼するよ」
そう言うと、思いつめた表情のまま、モーツァルトは部屋を出て行った。

昼食のため、オスカルが食堂に下りると、モーツァルトの姿はなく、自分の他にはジャルジェ夫人だけだった。
「モーツァルトはどうしている?」
「今日は一度も、下りてらっしゃいません」
答えたのはマルグリットだった。
「時々、ピアノフォルテの音が聞こえていますよ」
いかにも当然というように、ジャルジェ夫人が言った。あの台風の目を家の中に呼び込んだ張本人であるジャルジェ夫人は、いたって平穏極まりない日常を送っている様子だった。オスカルは母の食事風景を見ながら、先ほどの父を亡くしたというモーツァルトを思い出していた。存命の間は、それなりに父子の間の確執はあったように伝えられているが、亡くして初めて、いまだ親の慈愛に包まれているということを彼は、実感しているのだろうか。

オスカルは食事を終えるとマルグリットに声をかけた。
「音楽室に食事を持って行ってやってくれ。できるだけ食器の数は少なくてすむ方がいい。それと、できれば手を汚さないで食べられれば、それにこしたことはない」
オスカルの要望に応えて、マルグリットはマグカップに入ったスープと、ローストビーフや野菜の入ったサンドウィッチを音楽室に運んだ。モーツァルトは人が入ってきたことには、まったく気づかない様子だった。目を閉じて、指揮棒を振る仕草をしているかと思えば、また、ぶつぶつとメロディーを口ずさんだりしていた。マルグリットはわざとスープの香りがモーツァルトの鼻先をかすめるようにして、トレーを運ぶとコトンと音をたてて、テーブルの上に置いた。しばらくして、モーツァルトはスープの匂いにつられて、テーブルに近づき、スープを一口飲むと、サンドウィッチを手にしたまま、またピアノフォルテの前に戻って行った。それを見届けて、マルグリットは部屋を出た。音楽家は少々、変わり者が多いということを彼女はよく心得ていた。実際、彼女の歌の先生もそういうところが往々にしてあったのだから。

翌朝、出勤前にオスカルはマルグリットに食事をできるだけ、規則的な時間に音楽室に運ぶことと、音楽室には暖炉がないので冷えないように心配りしてやってほしいと頼んで家を出た。マルグリットは食事の摂取量が少ないと、食事と食事の間に温かいお茶とともにゴラーチェン(ボヘミア発祥のウィーンで人気の菓子)を運んだ。そして、足元に湯たんぽを置いたり、他の部屋で温めた毛布を肩からかけてやったり、モーツァルトが作曲に熱中するあまり、なおざりにしてしまいがちな健康を維持するための基本的な生活の世話をやいた。そして、なにより有難がられたのは、すぐに床に散らばってしまう大量のスコアを、譜面の読めるマルグリットがいちいち拾い上げ、順番どおりに整理してテーブルの上にきちんと揃えてくれることだった。
オスカルは何日も、モーツァルトと顔を合わせることはなかった。モーツァルトの様子を尋ねると、マルグリットは「作曲を続けてらっしゃいます」と答えるだけだった。「他に変わったことはないか?」とオスカルが尋ねると、マルグリットは少し、考えて「以前のように、私を口説いたり、おしりを触ったりしなくなりました」と事もなげに答えた。
「なっ!そんなことをしていたのか!?」
今になって、そんな無作法を聞かされ、オスカルは激怒した。
「よくあることだ、オスカル」
なだめようとしたアンドレは反対にオスカルにキッと睨みつけられ、慌てて大きく手を横に振り、自分は違うと主張した。
「そういう男はよくいるということだ」
他人のために自分が言い訳めいたことを言わなくてはならなくなった、アンドレだったが、その様子を見ていた若い侍女達からくすくすと笑い声が聞こえてきた。自分達を出迎えにきた侍女達なのだが、その様子からすれば、彼女達にとっては日常、ありがちなことで、その度に、うまくかわしているということらしい。オスカルは彼女達を畏敬の念をもって、眺めた。自分に置き換えれば、即、流血沙汰だろう。オスカルは侍女達から、視線をはずすと軽い脱力を覚えた。そして、そのまま自分の部屋へと引き上げていった。

モーツァルトが音楽室にこもって、8日が経とうとしていた。ジャルジェ家は彼がやってくる前の静寂に再び、包まれているかのようだった。しかし、夕食の後、オスカルが部屋でアンドレと話していると、ドタバタという足音とともに、いきなりモーツァルトが飛び込んできた。髪はボサボサ、無精ひげは伸ばしっぱなしの彼は何枚ものスコアを握り締めて、息を切らせていた。
「できたよ!オスカル・フランソワ!あんなに作りたかったシンフォニーがやっと!!」
モーツァルトは手にしていた何十枚ものスコアをオスカルに手渡した。オスカルは手渡されたスコアに次々と目を通した。とても、頭の中で音楽を再生している速度ではなく、なにか他の事に感心しているようだった。
「見てみろ、アンドレ!一箇所も書き直しがない。噂どおりだ」
アンドレは綺麗に音符や強弱記号の書き込まれたスコアを横から覗き込んだ。
「オスカル・フランソワ、変なとこに感心しないで。だから、最初に言ったように考えながら作り出すんじゃなくて、僕の上に星が舞い落ちたら、そこからは僕の中で曲が生まれてくるんだよ」
モーツァルトは少し、不平を言うと、また歓喜が押し寄せてきたのか、オスカルに抱きついた。
「本当にあなたのおかげだ、オスカル・フランソワ」
「曲が完成してなによりだ、ヴォルフガング」
そう言うと、オスカルはモーツァルトの背中をパッティングした。モーツァルトがオスカルから身体を離すと、オスカルは目でアンドレの方を示した。モーツァルトはそれに気づくとアンドレに両手を差し出し、アンドレの手を握り締めた。
「ありがとう、アンドレ。なんて言っていいか分からないけど、とにかく、君に会えてよかった」
そう言うと、モーツァルトはまたオスカルを振り返った。
「まだまだ、曲が生まれそうな気がするんだ」
「よければ、どれだけ滞在してもらっても構わん」
「いや、明日、帰るよ」
天才の言うことは、唐突で極端だった。
「君達を見ていたら、無性に帰りたくなった。君達は主従なのに、友達みたいで、友達かと思ったら、時々、恋人同士に見えるときさえある」
オスカルとアンドレは顔を見合わせた。
「とにかく、へんてこだ」
モーツァルトはそう言って笑うと、スコアを持って出て行った。

モーツァルトが出て行くと、オスカルとアンドレは大きく溜め息をついた。
「まさに、台風一過だ」
「ああ」
「そうだ、ウィーンまでの馬車と御者の手配をしてくれ。執事に言って、旅費の工面も。あとは、母上に報告してモーツァルトの細君へのプレゼントを考えてもらってくれ。連れてきたのは、母上なのだからな」
「分かった」
そう答えるとアンドレは、すぐに明日の旅立ちの準備にかかった。

すべての手はずを整え、再び、アンドレがオスカルの部屋を訪ねると、オスカルはバルコニーから空を眺めていた。アンドレはお茶をテーブルの上に置くと、暖炉の火の具合を調節した。そしてバルコニーへ出ると、オスカルの横に並んで立った。
「こんなところに立っていると冷えてしまう」
「ああ、だが、こうしていると自分がどんどん研ぎ澄まされていくような気がする」
「おまえはいつも、研ぎ澄まされていて、いつかガラス細工のように壊れてしまうのではないかと思うときがある」
「ふふっ・・・それは、とんだ誤った評価だ、アンドレ。私はもっと、もっと余分なものを削ぎ落として、あるべき自分になりたい」
「オスカル・・・危険だ、物事を突き詰め過ぎて考えるのは。時には、たゆたうことも必要だ」
オスカルは下を向いて笑った。
「では、たゆたう船に時には、身を任せてみるか」
オスカルはアンドレの顔を仰ぎ見た。
「任せろ!俺は不沈の船だ」
二人は顔を見合わせ、笑みを交わすと、どちらからともなく笑い出した。冬空に、オスカルとアンドレの笑い声が鈴の音のように響いた。


翌朝、モーツァルトはオスカルとアンドレと、そして多くのジャルジェ家の召使い達に見送られて、ウィーンへ出発していった。モーツァルトは走り始めた馬車の窓から、身を乗り出して叫んだ。

「オスカル、アンドレ!オペラの題名は『魔笛』だよ!必ず、劇場で観てね!」

モーツァルトはウィーンに戻ると、その年のうちに続けて2曲のシンフォニーを完成させた。そして、1791年、再度、「魔笛」の作曲に取り掛かると、7ヶ月をかけ完成させ、1791年9月30日、ヴィーデン劇場で初演を迎えた。大衆向けに書かれたにもかかわらず、この作品は音楽家からも高い評価を受けることになる。そして、その年の11月、モーツァルトは急激な体調の悪化にみまわれ、35歳でその流星のような生涯を閉じる。

そして、フランス・・・
特権階級にとっては、けっして開けてはならないパンドラの箱であった「三部会」は、その特権階級自らの手で開けられてしまう。1789年7月、フランス革命、勃発。その革命の嵐にオスカルとアンドレは飲み込まれ、二人は劇場で「魔笛」を観ることは叶わなかった。




                        −完−






                


   
オンディーヌさまより頂きました昨夏からの続編でございます。
   思わぬ登場人物の活躍に目を細めつつ、時代に取り込まれていく
   人々の姿に胸が熱くなりました。
   オンディーヌさま、ありがとうごさいました。  さわらび






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星の舞い落ちる時

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