作 オンディーヌさま
次の日から、オスカルとアンドレにはまたいつもの生活が始まった。朝、早くに出勤するオスカルは執事と女中頭に、客人をよろしく頼むとだけ言い置いてアンドレとともに多忙極まりない勤務に戻った。そして、夜遅くに帰るとモーツァルトの姿はなかった。そういう日が3日、続いた。いったい、どういう生活をしているのか執事に尋ねると、昼過ぎまで寝ていて夕方からパリへ出かけて行き、帰ってくるのは日が昇る前くらいだとのことだった。音楽室を使っている形跡もないという。
オスカルは訝しそうに、アンドレを見た。「長年の生活を急に変えろと言っても、無理だ、オスカル」アンドレは片頬で微笑んだ。その長年の間にモーツァルトは数々の名曲を作り出していることも確かだった。だが、フランスへ来た目的は、作曲に行き詰ったからではなかったのだろうか。このままウィーンでの生活を同じように続けるのなら、わざわざ来た意味がないではないか。オスカルは、まさに正論で物を考え、溜め息をついた。
だが、その次の日も、モーツァルトの姿はなかった。そして、そのまた次の日、オスカルはアンドレの御する馬車に乗って家路を急いでいた。今日はこの寒さだというのに、コートの襟を立て、ランタンを持って行きかう人が多い。オスカルは窓のカーテンを開け、ぼんやりと外を眺めていた。パリでは、馬車一台が通るのがやっとという狭い道が多く、そういう道で通行人とすれ違うときは、人の方が両脇に並ぶ家の壁に身体を寄せて、馬や車輪から身を守るのが常だった。そして、やっと広い道へ出てしばらくたつと、アンドレは急に馬車を止めた。車輪の調子でも悪いのかと、アンドレが説明のために降りてくるのを待っていたが、アンドレは思いのほか慌てた様子で馬車の扉を開けた。「オスカル、すまない。パリのはずれまで来た。ここからは悪いが一人で帰ってくれ」意外な言葉にオスカルが、目を丸くしているとアンドレはランタン、片手に何かを追いかけるように闇の中に走り去って行った。
―ちょっと、待て。一人で帰れと言っても私は馬車の中だし、御者は他にいない!・・・私に御者になれということか!?
と、オスカルが気づいた頃にはアンドレの姿どころか、その足音さえも聞こえなくなっていた。オスカルは仕方なく、コートをはおり外へ出た。なんとも心もとない状況である。夜道を一人で帰るということよりも、馬車の御者という、生まれて初めての経験を、なんの前触れもなくいきなりやらなくてはならなくなったことがである。乗馬ならお手の物だが、御者台に上らなくてはならないとは・・・オスカルは若干、情けない表情で二頭の馬の鼻面を同時に撫でた。馬達も新米の御者に戸惑っているのか顔を見合わせると、ヒヒィンと小さくいなないた。オスカルは、しばらく馬達と見つめ合っていたが、まあ考えてみれば子供の頃にはいくら懇願しても御者台に上るなど、到底、許してもらえなかったことが今になって叶うと思えば、好奇心やら探究心の方が心もとなさなど、易々と押さえつけ台頭してきた。オスカルは御者台へ駆け上がるとすぐさま、手綱をとった。走らせ始めてみれば、馬車の中で揺られているよりも冷たい風を顔に受けながら馬を走らせている方がはるかに気持ちよかった。途中、カーブで充分に速度を落としきらなかったため、片方の車輪が浮き上がり、車体がバランスを崩し横転しかけたということを除けば、ほぼ安全に馬車はジャルジェ家の門をくぐった。
門番が驚く顔をオスカルはおかしそうに、ちらりと横目で見ながら車寄せまでの最後のドライブを楽しんだ。だが、速度を落としてだんだん屋敷に近づいていくと、玄関にばあやが執事とならんで立っているのに気づいた。どうして、こういう時に限ってと・・・とやや顔を下向き加減にしてみたが、ばあやのぽかんと口を開けた様子からとうに気づいているのは明白だった。どんなに老眼が進もうとも、月明かりが頼りない闇夜の中だろうとも、ばあやにとってオスカルは一目瞭然らしい。オスカルは御者台から降りると「ばあや対策」に超高速で思考を巡らせた。そして、玄関への階段を駆け上がりながら「ああ、ばあや、実はね・・・」と高いテンションを装って、言いかけたところへ「どういうことでございます〜〜っ!?お嬢様〜〜!!」というばあやの叫び声が闇をつんざき響き渡った。オスカルは顔を引きつらせながらばあやを抱擁した。「アンドレはどうしたのでございますか?!」ばあやの興奮は最高潮に達していた。「実はね、ジャルジェ家を目前にして、私が忘れ物に気づいたのだよ。アンドレには申し訳なかったが、走って、パリの留守部隊まで取りに行ってもらった」と、苦しい言い訳をしてみた。「では、お嬢様がお一人になられたのは、ジャルジェ家のほんの少し手前からなのですね?」ばあやの声がやっと、少し落ち着きを取り戻した。「そうだ。ああ、アンドレには本当に気の毒なことをした。こんな寒い夜道を走らせるとは・・・私はとてつもなく気の利かない主人だ」オスカルはコートを脱ぐと、指を額に当てて天を仰ぎ嘆きのポーズをとって見せた。「よろしゅうございます。お嬢様のお役に立ってこそのアンドレでございます。お嬢様が御者の真似をなさったことは今回に限り、大目にみておくことといたします」
普通、家を目前に忘れ物に気づいたなら、二人していったん帰り、アンドレだけ馬車で取って返すのが常道だが、そのことにばあやが気づく前にオスカルは侍女に目で合図を送った。ばあやは若い侍女に付き添われながら、下がっていった。オスカルが胸を撫で下ろしていると、斜め後で、執事がなにやら物言いたげにそわそわとしていた。「どうした?」オスカルが問うと、執事は言いにくそうに口を開いた。「実はお客様に30リーブルご用立ていたしました」「なんのためにだ?」「使い道はおっしゃいませんでしたが、必ず返す当てがあるからとおっしゃいまして」オスカルは大きな溜め息をついた。「分かった。明日、モーツァルトに私の部屋に来るよう伝えてくれ」そう答えると重い足取りを自室へと向けた。
その夜は、アンドレはオスカルのまえには現れなかった。アンドレがオスカルの部屋を訪ねたのは翌朝早く、昨夜の出来事を報告するためだった。だいたいの察しはついていた。パリのはずれであの天才の姿を見かけて後をつけ、連れて帰ってきた。どうせそんなことだろうと、オスカルは椅子の背もたれに上半身の体重を預け、腕組みをしてアンドレの話を聞いていた。モーツァルトを追って、サントノレ通りを走ったというところまでは。
「なにーっ!?パレ・ロワイヤル!?」ロザリーとオスカルを幽閉し、あやうくアンドレを失明させるきっかけとなったパレ・ロワイヤルの名を聞いて、オスカルは背もたれから思わず身体を起こし叫んだ。
「俺も入りたくて、入ったのではない」アンドレは手でオスカルをなだめる仕草を示しながら、話を続けた。
モーツァルトはパレ・ロワイヤルのアーケードに立ち並ぶいくつかの高級店へと足を運び、店内の服、香水、貴金属を眺めた後、必ず店の商品以上に美しい売り子と言葉を交わし、次の店へ移動という行動を繰り返していた。特に何かを買うわけではなく、ただ売り子との会話を楽しみながらこのショッピングセンターの賑わいを楽しんでいた。そして、最後に店先で襟をただし、入っていったのがカジノだった。
「くっ・・・!」オスカルは発する言葉をなくし、頭をがっくりと落とした。
アンドレがカジノの中へ入っていくと店の者は、新たなカモがやって来たとばかりにニヤリと笑いアンドレを席へと案内した。モーツァルトは次の勝負から加わるぞとばかりに、テーブルの上に転がされるサイコロに見入っていた。アンドレは大急ぎでモーツァルトの後に立つとその襟をつまみ上げた。モーツァルトは首筋のつっぱりに気がつくと不思議そうに後を振り返った。
「やあ!アンドレ!君もやるの?」なんの罪悪感もなさそうに、天才はアンドレに尋ねた。
「よく、金がもつな」アンドレは呆れた。
「ああ、さすがに今日ばかりは執事さんから借りてきたよ」
モーツァルトの返事にアンドレはのけぞった。そして、モーツァルトの襟から手を離すと脇に手を回し、引きずるように、いや、引きずって店の外へと連れ出した。
「なんだい?にいさん達、一勝負もしないうちにお帰りかい?」
店員が玄関で引きとめようとしたが、揉め事にならないようアンドレがやんわりとかわした。
「すまない。この男に話があるんだ。今度、ゆっくりと出直すよ。何事も余裕ってものが大切だからな」
アンドレは笑顔で店員をかわした後、モーツァルトをそのまま人気の少ない庭園の方まで引きずっていった。
「話なら後にしてくれても・・・」
「いったい、なに考えてるんだ!!」
モーツァルトの声にかぶさるように、アンドレが怒鳴った。あの穏やかでおとなしくて、甘い声のアンドレが仁王立ちになり、広い庭園に響き渡りそうなドスの利いた声で怒鳴った。木陰で愛の駆け引きをしていた男女も、そして聴衆を集め月桂樹の木の下で熱弁をふるっていた未来の議員も、しばし、その勢いのある声に自分達の行動を停止した。モーツァルトは思わず両耳に指をつっこみ唖然としていた。普段、おとなしい人間ほどキレると怖いということを、父に庇護され続けてきたモーツァルトはこのとき、初めて知ったのだった。
「人に借金してまで、博打をやって楽しいのか?!」
アンドレの怒りは収まりそうになかった。
「アンドレ、ここじゃなんだからカフェにでも入って話そうよ」
モーツァルトは周りの凍った空気を気にしつつ、アンドレを誘った。
「カッ、カフェだとぉ?!パレ・ロワイヤルのカフェが相場の何倍すると思ってるんだ?!」
まさに、オスカル・フランソワが乗り移ったがごとくのキレっぷりであった。
「ま、まあ、アンドレ!落ち着いて話そうよ」
「落ち着けだとぉ?借金して博打、打つようなヤツがよくも言えた台詞だな!」
ここにいたっては、オスカル・フランソワから優雅さと上品さを奪い取ったかのような怒りっぷりだった。
「ごめん!僕が悪かったよ。頼むから僕とカフェに入ってよ!」
モーツァルトはせっかくの甘いマスクを強面(コワモテ)に変貌させ、はぁはぁと肩で息しているアンドレに懇願した。キレるだけキレたアンドレも少々、力尽きてきた。キレ慣れていない人というのは、慣れないことをすると猛烈なエネルギーを消費するらしい。アンドレは呼吸を乱しつつ、モーツァルトに手を引かれるままにとぼとぼと歩き出した。二人は一軒の小奇麗なカフェに入ると、これまた美青年のギャルソンにカフェ、2杯を注文した。
「アンドレ、本当に僕が悪かったよ。君のおかげで目が覚めた。どうかしてたんだ、僕」
反省の色を強調するモーツァルトに、いたって現実的な言葉をアンドレが返した。
「で、ここの支払いはどうするつもりだ?」
「ああ、それは大丈夫。少しはウィーンから持ってきたお金が残ってる」
アンドレはとりあえず、納得すると次の要求を突きつけた。
「執事さんから借りてきた金を出せ」
モーツァルトはアンドレの声音と血走った目に少々、ビビりながらも、そっと30リーブル入った革の財布をテーブルの上に置いた。アンドレはその財布を手に取ると、その重みで中身の額を言い当てた。
「30リーブル・・・!」
この額を、この男は一晩ですられてしまうところだったのだ。アンドレはその財布を握り締めたまま、脱力してカフェのテーブルにうつ伏せてしまった。
「アンドレ・・・大丈夫・・・?」
モーツァルトは恐る恐る、声をかけた。その声にアンドレは再び、むくっと顔を上げた。
「ヴォルフガング、おまえはこんな華やかな場所にばかり出入りして、パリの本当の姿が見えていない」
アンドレの目は据わっていたが、モーツァルトはおとなしくアンドレの話に耳を傾けた。
「パリには失業者が溢れ、寝るところも、その日に食べる物さえなく途方に暮れている人たちがたくさんいる。仮に職にありついたとしてもだ・・・」
アンドレは握っていた財布をさらに強く握り締めた。アンドレの掌の中で金貨が擦り合わさりチャリッと音をたてた。
「職にありついた者達でさえ、重税と物価の高騰にあえいで、明日の生活さえ見えないんだぞ」
アンドレの声は低いままだった。
「ムッシュウ、お待たせしました」
先ほどの美形ギャルソンがカフェを運んできた。アンドレは表情を変えずにギャルソンを見上げたが、ギャルソンはたじろぐこともなく笑顔で、2杯の香り高いカフェをテーブルに並べた。こういう店で働く者達の方がよほど世間ずれもしていれば、世慣れてもいるのだ。アンドレは自分の目の前に座る、己が才能だけを信じて生きている天才がなんとも、頼りなく小さな存在に見えてきた。
男二人はそれぞれの思いを胸に、美しいカップに注がれた、煎れ立てのカフェを口に運んだ。その香りがアンドレを沈静させたのかどうか、アンドレに再び優しい表情が戻りつつあった。
「どうしてこんな生活を続ける?」
アンドレらしい声音にやっと、モーツァルトは本音を語りだした。
「僕の中で何かが生まれようとしているのに、なかなかそれを形にできない。集中しきれないんだ」
「博打をやれば集中できると?」
「いや、あれは駄目だ。ついつい夢中になって、音楽どころじゃなくなってしまう」
モーツァルトは情けなさそうに笑った。
「なにが不満だ?」
「いろんなことが。・・・例えば、靴屋は靴をデザインして、皮や布を切って縫製して履き心地のいい靴を作れば、それに見合った値段で売ることができる。だけど、音楽家は違うんだ。まず、貴族に媚を売りパトロンになってもらう。そこから始まるのさ」
アンドレは不思議そうにモーツァルトを眺めていた。モーツァルトの名は自分が子供の頃から響き渡っていたし、オスカルも好んでその曲を演奏していた。まさか、金に困っているだとか、自分の職業に疑問を抱いているなどとは想像もしていなかった。
「自分の職業は靴屋以下だと?」
「そうさ!僕の才能を理解できてない貴族に雇われ、音符を削れだの、三楽章をもっと軽快にしろだの言われるんだ!そんなのは、まっぴらさ!」
モーツァルトの声は徐々に大きくなってきていた。
「オスカルは貴族だが、君の曲を愛しているし、新譜が出ればすぐに取り寄せているくらいだ」
「ああ、オスカル・フランソワはセンスがいいからね。古い概念に凝り固まっている連中は駄目さ。新しいものを聴くとなにかとケチをつけたがる。オスカルみたいな人は斬新なものに興味を抱く。そして、自分のセンスで作品を評価できる。彼女みたいな人は少ないよ。だから、つまらない曲しか作れない年寄りがいつまでも宮廷音楽家をやっている」
「ヴォルフガング、ちょっと、自惚れがすぎないか?」
「パパも同じことを言ってた。でも、僕は芸術家だよ!自分の才能を信じなくて何を信じればいいのさ!」
二人が話に夢中になっていると、頭上で小さな咳払いが聞こえた。
「ムッシュウ、温かいカフェ・オレはいかがです?」
美形ギャルソンが店のオーナーにせっつかれて、追加注文を取りにきたのだ。
「ああ、結構。ちょうど、出るところだ」
アンドレはモーツァルトを促して店を出た。
「それで、二人して辻馬車で帰ってきたのか?」
オスカルはいつの間にか、机に肩肘をつき、その手の上に頭を預けていた。
「いや、ヴォルフガングが辻馬車は乗り心地が悪すぎると言って、二人で歩いて帰ってきた」
「パレ・ロワイヤルからここまでをか?」
頷くアンドレをオスカルは上目遣いに眺めていた。
「アンドレ、すまなかった」
アンドレは、少し意外そうな表情をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「俺の方こそ、おまえの安全を第一に考えるべきだった」
「私は大丈夫だ。自分の身くらい、自分で守れる」
「本当に?厩番が昨日使った馬車の車軸が歪んでいると言っていたが、なにか心当たりは?」
「いっ、いや、なにもない」
少し、あわてて答えたオスカルは、馬車がこけかけただけで、車軸というのは歪むものなのか?と昨夜のドライブを頭の中で回想してみた。
「やっぱり、俺がきちんと送り届けるよ。これからは」
心当たりがありそうなオスカルを見ながら、アンドレが微笑んだ。
「じゃあ、ヴォルフガングを連れてくる。あまり怒るなよ。二人から怒鳴られたのではあいつもかわいそうだ。天才は繊細だからな」
そう言うと、アンドレはウィンクひとつを送って出て行った。
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