作 オンディーヌさま

さすがのモーツァルトも長旅の疲れと、環境の変化へのストレスで、寝返りを忘れるほど熟睡してしまった。夕べは早めに床についたにもかかわらず、目が覚めたのは、昼に近いような時間だった。
前回、フランスを訪れたのは10年前。結局、フランスで職を得ることに失敗し、母までパリで亡くした。自分が遊びに出かけている間にモーツァルトの母は、蝋燭の火が消えるがごとく息を引き取った。けして、いい思い出が残る街ではないのに、それでもウィーンに留まっているよりは、なにか進展があるのではと妻を説得して出かけてきたのだった。ウィーンでは借金まみれだった。パリには借金を頼める知人すらいない。でも、実際、こうしてはるばる、フランスまで来てみれば、自分を援助してくれる人が見つかった。モーツァルトはまだまだ、天は自分を見放してはいない、この才能を借金に埋もれさせたままにはしておかないと、久々に晴れやかな気分だった。
ベッドから降りると、部屋の中を見渡した。高価な調度もさることながら、急な来客であったはずの自分が通されたこの客室は埃ひとつなく、窓に汚れ一筋さえなく、寝具はお日様の匂いさえするようだった。書き物机の前までくると、その上に置いてある小箱が目に留まった。この国の王と王妃の肖像画がはめ込んである金の嗅ぎ煙草入れだった。手に取ってみると、その箱はその価値を示すがごとくずっしりと重たかった。同じような嗅ぎ煙草入れを24年前、父と姉と三人でパリに滞在したときにドテッセ伯爵夫人から貰ったことがあった。8歳だったモーツァルトには、それがなんの箱かは分かるはずもなく、また分かったとしても、けして実用品として使われることはなかっただろう。その他にも金時計や、姉のナンネルには金と鼈甲でできた嗅ぎ煙草入れや純金製の爪楊枝入れなどが、貴族達から次々と贈られた。これらは、ほどなく高値で買い取られ、やがて一家の生活費となった。
子供の頃はウィーンでもパリでも「神の子」と誉めそやされて、行く先々で手厚いもてなしを受けた。なのに、今は誰も見向きもしない。あの頃、自分を称えてくれた貴族達は本当に自分の才能と音楽を理解してくれていたのだろうかとモーツァルトは思う。子供の頃の演奏技術や作品より、現在のそれらの方が比べ物にならないほど、優れたものになっているのに。
モーツァルトは溜め息をついて、手にしていた嗅ぎ煙草入れを机の上に戻すと、今度は、昨日、見た掛け時計の下に立った。その飾り枠のてっぺんに座る女神は、モーツァルトに向かってにっこりと微笑んでおり、『すべてがこれからうまくいく』と伝えているようである。あまつさえ、その女神がオスカル・フランソワにさえ見えてくる。彼女こそが、今回の旅行において、モーツァルトの「幸運の女神」だと、彼は素直に信じた。

モーツァルトは用意された洗面器とセーブル焼きの水差しで、顔を洗い身支度を整えた。食堂に下りていくと中途半端な時間にもかかわらず、召使たちは嫌な顔せず、すみやかに食事の用意をしてくれた。広い食堂で、一人で朝食をすませると、彼は鼻歌交じりに階段を昇っていた。すると音楽室からピアノフォルテの音が聞こえてきた。さらに近づくと、歌声と笑い声まで漏れてきた。モーツァルトは矢も楯もたまらず、音楽室まで走った。音楽室の扉をノックもなしに、押し開けると、ピアノフォルテの前に座ったオスカルとその傍らに立つアンドレが笑顔のまま振り返った。
「やっとお出ましだな」
オスカルはそう言うと何回か空咳をした。
「珍しく高いキーで歌うからだ」
アンドレは微笑むとテーブルに用意された黒地に蒔絵の施された東洋の漆器の水差しから、グラスに水を注ぎオスカルに手渡した。
「さあ、私達はこれで退散する。あとは自由に使ってくれ」
オスカルがそう言って立ち上がるとモーツァルトは急いで止めた。
「ちょっと待って!二人でなにを歌ってたの?」
二人は顔を見合わせ、微笑みを交わすと今度はアンドレが答えた。
「それは内緒だ」
そのまま出て行こうとする二人をモーツァルトはさらに止めた。
「本当に待って!もう一度、アンドレの歌を聴きたい」
「作曲をするのではなかったのか?」
今度はオスカルが聞き返した。
「ああ、オスカル・フランソワ!あなたも父と一緒だ。僕がおとなしくピアノフォルテの前に座っていれば、作曲ができるとでも思ってる?ピアノフォルテの前に座って音を探しながら作曲するなんてへっぽこ作曲家のすることだよ」モーツァルトは興奮気味に話し続けた。
「いい?僕が作曲するときは・・・」
モーツァルトは言いかけて、いったん言葉を止め、目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
「この僕の中で突然、音が響きだすんだ。ホルンの音が、フルートやオーボエやクラリネットの音が僕の中でどんどん広がっていく。そして、そこへ新しい旋律で弦楽器が加わってくる。まるで天から僕の上に星が舞い落ちてきたみたいにさ!舞い落ちた星達は僕の中でさらに膨らみ、シンフォニーになる」
ここまで話して、モーツァルトは二人を見た。
「シンフォニーを作るつもりか?」
オスカルの問いにモーツァルトは首を振った。
「今、作りたいのはシンフォニーだけど、アンドレの歌を聴いたら、これから作るオペラのことを思い出した」
アンドレは昨日、無理やり歌わされたことを思い出し、ギクッとした。
「俺は歌手には、な・ら・な・い」
身の危険を感じたアンドレはすぐさま、笑顔で言い切るとそのまま出て行こうとしたが、その腕をオスカルが掴んだ。
「どんなオペラだ?」
「エマニュエル・シカネーダーを知ってる?」
二人は首を横に振った。アンドレは腕を掴まれたままで。
「彼から依頼された仕事なんだけど、神話や英雄の話じゃないんだ。そんな堅苦しいオペラじゃない。貴族のためにじゃなく、民衆のために作るんだ」
ここで、モーツァルトは貴族であるオスカルの顔色をうかがったが、彼女は別段、気分を害しているふうではなかった。
「で、アンドレに歌ってほしい役どころはなんなのだ?」
「鳥だよ。雄の鳥!名前はパパゲーノ。彼の恋人はパパゲーナ、もちろん彼女も鳥!」
アンドレはオスカルに掴まれている腕をそっと、外すと部屋を出て行こうとした。
「待て!アンドレ!」
アンドレは、今度は掴まれていた握力よりも数段、力強い声で引きとめられた。アンドレが扉の前で固まっていると、オスカルは後ろに手を組んだまま、おもむろに肘掛け椅子まで歩いてゆき、くるりと振り返ると、すとんと腰を下ろした。
「モーツァルト君、アンドレ・グランディエは君に貸そう。どうぞ、始めてくれ!」
そう言うと、手と脚を組み、観客に徹する姿勢を取り、期待の笑みを浮かべた。
「アンドレ、ドイツ語で歌える?」
モーツァルトの問いをアンドレは後頭部で聞き、答えはオスカルが代わって頷いた。
「最初にアンドレは恋人の名前を三回、呼ぶ。ああ、書いた方が分かりやすいね」
アンドレはモーツァルトの説明の声を遠くに聞きながら、口を真一文字に結んだまま振り返った。
「アンドレ、モーツァルトは今世紀最高の作曲家だ。名誉ある抜擢だぞ」
モーツァルトが歌詞を書きとめている間、オスカルは言葉と視線でアンドレをなだめた。
「脚本はウィーンへ置いてきてしまったから、うろ覚えなんだけど、こんな感じ。メロディーもそんなに難しくない。いい?ここは、こう・・・」
モーツァルトは左手で歌詞を指しながら、右手でメロディーを弾いた。
「じゃあ、いくよ!」
アンドレはオスカルに抗議の一瞥を送ってから、伴奏するモーツァルトの横にたった。


パパゲーナ! パパゲーナ! パパゲ〜〜ナ!!


歌いだしてしまえば、アンドレは堂々とした歌手ぶりを発揮した。若干の照れくささは隠せないようだったが。

かわいい娘、小鳩よ!
だめだ、あの子はいなくなった
僕はついてない
おしゃべりが悪いんだ
だからこうなるのは当然だ
あのワインを飲んでから・・・
かわいいあの娘に会ってから・・・
この胸は燃え上がり、あちこちが痛む
パパゲーナ いとしい娘!
かわいい小鳩よ!



最初こそ、照れくさそうなアンドレだったが、途中から興が乗ってきたのか、身振り手振りを加えての、世界初のパパゲーノの熱演振りだった。
「ブラボー!!」
オスカルは座ったまま、恋に悩むかわいらしい雄の鳥役のアンドレに、満足げに拍手を送った。
「この後に恋人とのデュエットを持ってきたいんだ」
モーツァルトの言葉にアンドレの瞳は輝き、それと同時にオスカルはわざとらしい空咳を連発した。
「私はだめだぞ。高音域は歌えない」
アンドレとモーツァルトは顔を見合わせたが、男二人がなにか言い出す前に、オスカルはとても良いことに気づいたとばかりに立ち上がった。
「ああ、マルグリットがいたではないか!あの子を呼んでこよう!」
そう言うが早いか、すぐさま呼び鈴を鳴らし、マルグリットをこの部屋へ連れてくるよう命じた。

マルグリットというのは、2年ほど前にジャルジェ家で働くようになった侍女なのだが、それまでは歌手志願で、きちんとした教師のもとで学んだ経験もあった。だが、20歳になる前にその夢を諦め、ジェルジェ家に勤めだしたのだった。採用試験の際に、字がきちんと書けるとか、自分の真面目な性格をアピールしてみたが、女中頭はともかく、ジャルジェ夫人の表情はくもったままだった。その奥様が「なにか得意なことは?」と聞かれるので、とっさに歌手志願だったことを口走ってしまった。そして、さっそく一曲歌うよう言われ、アリアを披露したのがジャルジェ家採用の決め手となった。かと言って、ジャルジェ家に音楽関係の仕事があるわけではなく、当然のことながら過酷な下働きから始まった。
そのマルグリットのところへ、侍女仲間が「オスカルさまが音楽室へ来るようにとおっしゃっている」との伝令を持ってきた。マルグリットは仲間と一緒にとっていた昼食を中断し、今、口の中にある物を急いで飲み込むと薄い塩水でうがいをした。そして、そのまま胸を押さえながら裏口から裏庭へ出ていくと、大急ぎで何年かぶりの発声練習に取り掛かった。これは、仕事仲間との酒の席で「マルグリット、なにか一曲、歌ってくれ!」と言われ、リラックスしたままみんなの気に入りそうな曲を披露するというのとはわけが違う。主人がその客人である作曲家とともに音楽室で待っているというのだ。マルグリットは今さらながら、採用試験であんなことを言わなければよかったと後悔した。自分の歌が不出来で、オスカルさまに恥をかかせるようなことになったら・・・と思うと冷や汗どころではなかった。全身の血が引いていくような恐怖感が襲ってきた。そして、その今さらながらの、発声練習を続けているマルグリットの歌声を聴きつけ、当の主人が彼女の頭上から声をかけた。
「マルグリット!要求されるのはきっと、もっと高音域だ。だが、心配はいらん。早く上がって来い!」
見上げれば、二階の廊下の窓から、金髪をそよがせている憧れの主人の姿があった。なにを根拠に「心配はいらん」とおっしゃっているのかは分からないが、逃げるわけにもいかず、マルグリットは覚悟を決めた。

マルグリットがおずおずと音楽室に入ってくると、モーツァルトは待ちかねていたとばかりに、さっそく説明を始めた。
「ここが君の歌詞。アンドレとは交互に歌う。メロディーはこう・・・・最初は二人で気持ちを確かめ合うようにお互いの名前を呼び合うんだ。あっ、君は雌の鳥でアンドレの恋人の役ね」
マルグリットはモーツァルトの説明をきょとんとした顔で聞き、アンドレを物問いたげに見つめた。
「じゃあ、いくよ!」
モーツァルトはあくまでもマイペースだった。そして、のちにヴァイオリンで奏でられる前奏をピアノフォルテで演奏し始めた。


パパゲーノ(アンドレ): パッ パ パ
パパゲーナ(マルグリット): パッ パ パ
パパゲーノ): パ パ パ パ
パパゲーナ: パ パ パ パ
パパゲーノ: パパパパパパパパ
パパゲーナ: パパパパパパパパ
パパゲーノ: パパパッパッパ〜♪
パパゲーナ: パパパッパッパ〜♪
パパゲーノ: パパパパパパパゲーナ♪
パパゲーナ: パパパパパパパゲーノ♪


ここまでくると、必死で笑いをこらえていたアンドレとマルグリットはついに噴出した。
「こんなオペラ、聴いたことないわ!」
マルグリットは身をよじらせて笑い転げた。アンドレも目に涙をにじませていた。
「だから、僕が作るんだ。さあ、二人ともすぐ次へいくよ」
作曲者は、いたって真面目だった。


パパゲーノ(アンドレ): これでおまえは僕のもの
パパゲーナ(マルグリット): これで私はあなたのもの
パパゲーノ: 僕のかわいい鳩になる
パパゲーナ: あなたののかわいい鳩になる
パパゲーノ: なんてうれしいこと
パパゲーナ: なんてうれしいこと
二人で:   もし神様が赤ちゃんを授けてくれたなら 小さなかわいい赤ちゃんを
パパゲーノ: 最初に小さなパパゲーノ♪
パパゲーナ: 次に小さなパパゲーナ♪
パパゲーノ: それからもう一度パパゲーノ♪
パパゲーナ: それからもう一度パパゲーナ♪
二人で:   そうしたら素晴らしい!もう数え切れないほどのパパゲーノとパパゲーナが
二人で:   この両親に恵まれたなら
二人で:   パパパパパパパゲーノ♪(パパパパパパパゲーナ♪)
二人で:   パパパパパパパゲ〜〜ノ♪(パパパパパパパゲ〜〜ナ♪)



歌い終わった二人はまた、笑い転げだした。マルグリットはアンドレの腕にしがみつき、アンドレは笑いの止まらないマルグリットの背中をポンポンと叩いて落ち着かせようとしたが、自分もおかしくてそれどころではなくなってしまった。ただ、モーツァルトだけは二人の歌手に満足げな拍手を送っていた。

そして、オスカルは・・・
オスカルはその幸せな光景から、はるか離れたところに自分がいるような気がしていた。今のアンドレやマルグリットからは、隔絶された世界に自分がいるような感覚に捕らわれていた。その時、ふいにオスカルの頬になにかが降ってきた。慌てて、頬に手をやるとそれはどうも涙らしかった。どうして、今、自分が泣いているのかは分からなかった。ただ、これ以上、ここに留まらない方がいいと判断したオスカルは静かに席を立った。

「オペラの完成を心待ちにしている」
オスカルは後ろからモーツァルトの肩に手を置いて、そう言葉をかけると顔を見せずに部屋を出て行った。部屋の中からは、まだ笑い声や楽しげな話し声が聞こえてきた。

アンドレ・・・私は今に満足はできない。











                






          back next menu top bbs   

             オンディーヌさまへのメール  








星の舞い落ちる時

−4−