作 オンディーヌさま
ここで、よりぎくっとしたのは、もちろんアンドレの方なのだが、先に口を開いたのはモーツァルトの方だった。
「ジャルジェ准将!いつからそこに?それに、ノックぐらいしてくれても・・・」
「ノックはしたが、おまえたち二人が女性談義に夢中で気がつかなかっただけだ」
普通、女性というのは誰でも、笑顔のほうがよほど美しさを増すものなのだが、オスカル・フランソワの場合はそうとは限らなかった。こうして、壁付き燭台の灯りの下で冷ややかな視線を投げかける彼女は、その白い顔と、それを囲む豪華な金髪がさらに際立ち、端正な顔立ちに陰影が落とされ、その姿を見る者の口から言葉を奪ってしまうかのようだった。
・・・という理由の他に、アンドレが今、発すべき言葉を必死で探しているわけは、自分が最愛の女性について語っていたところ、自分の意に反して話がとても下世話な方向へ向いてしまった状況を、冷や汗をかきながらも一刻も早く、軌道修正することに全精神を傾けているからだった。
しかし、アンドレが言葉を探し当てる前に、オスカルが冷笑とともに投げた言葉がアンドレの心臓を一刺しにした。
「アンドレ、そんなタチの悪い女性は早く忘れた方がいいのではないか?」
「オ・・・」
「アンドレは悪くないんだ。悪いのはそのタチの悪い女性・・・あぐっ」
モーツァルトはまたしても、後ろからアンドレに口を塞がれた。
「オスカル、彼女を忘れるくらいなら、俺はこの場で死んだ方がましだ」
「ほう!髪に触るのさえ躊躇するほど、遠い存在の彼女なのにか?」
やや、攻撃的な口調でオスカルが返してきた。
「いや、俺が言いたかったのは、気安く手で触れることさえためらわれるほどの彼女の美しさだ」
「その美しさゆえに、おまえは心を奪われたと?」
アンドレが言葉に窮している間に、モーツァルトは自分の口を覆っている手を押し下げた。
「でも、見た目は大切だよ!うがっ」
そして、またすぐに覆いかえされた。
「オスカル、おまえには分からないかもしれないが、彼女の外見の美しさはそのまま内面を映し出しているんだ」
「ほうっ!」
ここで、アンドレはやっとペースを巻き返した。
「彼女がカップを口元に運ぶその仕草ひとつに、俺は嘆息する」
「それは、大変だな」
「彼女の放つ、甘い香りに俺は窒息しそうになる」
「それでは、身がもたんな」
「彼女が本のページをめくる、その指の繊細な動きに俺の魂は吸い寄せられる」
「・・・救い難いな」
オスカルの冷笑は、緩徐ながらも微笑に変化していく。
アンドレに口を塞がれたまま、モーツァルトは目をきょろきょろさせて二人のやり取りを聞いていた。だが、そのうち、いい加減に手をどけてくれとばかりに、アンドレの二の腕を軽く叩いて抗議した。
アンドレの手から開放され、やっと、しゃべる自由を取り返したモーツァルトは息を整えるが早いか、興奮気味に話し出した。
「まさにLiebe(愛)だよ!アンドレは本当に恋してるんだ。それに、そんな甘い声で囁かれたら、どんな女性もいちころだ」
いちころにならなかった自分を振り返って、オスカルは、今度は苦笑した.
「もしかして、アンドレは歌えるんじゃないの?」
「ああ、アンドレはジャルジェ家きっての名テノールだ」
「でしょ!ウィーンにもアンドレという名の歌手がいるんだけど、彼は渋い役も甘い歌も、なんでもこなすいい歌手なんだ。きっと、アンドレという名は歌のうまい人が多いんだ。もし、君が歌手だったら、きっとパリでも成功をおさめてるよ!」
「俺が歌手だったら!?」
アンドレはオペラ座の舞台で、オーケストラと観客を前に熱唱しているありえない自分の姿を想像し、思わず声が裏返った。そして、図らずも、裏返ってしまった声のおかげで『俺が歌手だったら』という台詞にメロディーがついてしまい、そこにまた、モーツァルトが食いついた。
「アンドレ!それいいよ!続けて!伴奏は僕がつけるから」
モーツァルトはピアノで前奏をつけながら、視線で懸命にアンドレを促した。
「アンドレ、モーツァルトは偉大な作曲家であると同時に、私の大事な客人だ」
オスカルまで、ここぞとばかりに主人面でアンドレに催促した。
二人の眼差しに押し切られ、アンドレは深く息を吐いた。自分だけ歌わされるなんてまっぴらだという思いとともに。そして、アンドレの柔らかな声が、やや遠慮がちに室内に響き始めた。
―もし、俺が歌手だったなら、そして、おまえが踊り子だったなら
二人はもっと早くに恋人同士になっていたのだろうか?
アンドレはそう歌いながら、両手をオスカルに向かって拡げ、視線で『次はおまえの番だ』と促した。もちろん、鍵盤など見ることなしに弾いているモーツァルトも気づき、オスカルにねだった。
「ジェルジェ准将!頑張って!」
「なっ、なぜ私が・・・!」
「同じメロディーでいいから、アンドレに続けて!」
オスカルは悔しそうに下唇を噛むと、アンドレを上目遣いに睨みつけた。そして、今度は少しハスキー、だが、どこか憂いを帯びた歌声がアンドレのあとに続いた。
―もし、おまえが歌手で、私が踊り子だったなら
やはり、私は自分の役を踊るのに精一杯
おまえの、愛には気づかない
―おれは、毎晩、舞台の上からおまえへの愛を歌うだろう
―毎晩、踊るのに夢中な私には、おまえの歌が聴こえない
―踊るおまえの姿を、俺は舞台の袖から眺めて溜め息をつく
―踊り疲れて、舞台を下りれば優しい眼差しに気づくのだろうか
―もし、俺が歌手でおまえが踊り子だったなら
―もし、おまえが歌手で私が踊り子だったなら
「ブラボー!!いいよ!すごくいい!とても自然だ。それに、あなた達の作るメロディーはどこか変わってる。今、パリではそんな曲が流行ってるの?」
二人は顔を見合わせた。
「いつか、流行るかもしれんが、今は私達くらいだ、こんな歌を歌うのは」
オスカルとアンドレは笑みを交わした。その様子を見ていたモーツァルトがおずおずと口を開いた。
「あの・・・もし、よければ・・・もし、嫌でなければ、三人でいるときは僕もジャルジェ准将のことをオスカル・フランソワと呼んでも?」
と言ってすぐに、モーツァルトは怒鳴り声に備えて片目を瞑り、肩をすくめた。
「ああ、構わん」
「えっ?」
モーツァルトは驚いた顔のまま、アンドレを振り返った。だが、アンドレも微笑んでいるのを見て、これは素直に了解を得たと解釈してよさそうだと納得した。
「それと、もうひとつお願いが・・・あの、普段は鬘を被らなくていい?・・・アンドレも被ってないみたいだし・・・」
「ああ、そんな手入れのされていない鬘など、被らないほうがましだと思うがな」
モーツァルトはその返事に喜んだが、アンドレの耳元でなにやら囁いた。
「オスカル・フランソワも口の利き方にもうちょっと、気をつけたほうがいいよね」
と言って、また、アンドレから口を塞がれないように言い終わるが早いか、飛びのいた。
「オスカル、なにか用があったのではないのか?」
アンドレは目でモーツァルトをたしなめてから、オスカルに向かって尋ねた。
「ああ、晩餐の時は父上もみえる。くれぐれも粗相のないようにしてくれ。それだけだ」
オスカルは言い終えると、すっと部屋を出て行った。
モーツァルトとアンドレは顔を見合わせた。そして、急いで二人して客室へ戻るとモーツァルトの鬘に二人がかりで櫛をいれた。鬘の手入れをしながら、モーツァルトは晩餐の間はできるだけ口を慎み、よけいなことを口走らないようアンドレから念を押された。
「分かったよ。言うとおりにする。でも、オスカル・フランソワはとても貴族らしいのに、全然、貴族っぽくないね」
そう言いながら、モーツァルトは机の上の整えた鬘をいろんな方向から眺めて、チェックを入れていた。
オスカルを知らない人が聞いたなら、なにを言っているのかさっぱり、分からない言葉だが、彼女を本当によく知る人にとっては、まさに言い当てて妙な言葉だった。アンドレは、子供をそのまま大人にしたようなこの天才を不思議な感覚で眺めていた。
実際、晩餐の席ではモーツァルトにアンドレが付きっ切りで給仕をすることになった。給仕というより、お目付け役というほうが、よほど本質的な役割なのだが。
モーツァルトは祈りの言葉とジャルジェ家滞在のお礼以外は、極力、言葉を抑えた。
実際、彼が口にした言葉は「おっしゃるとおりです、将軍」「私は音楽家ですので、政治のことは分かりかねます」そして、「フランスは素晴らしい!」このスリーセンテンスのみだった。笑い声も少し大きいとアンドレから背中をつつかれた。そして、食器を扱う音がうるさいと耳元で咳払いされた。こうして、モーツァルトにとっては堅苦しいだけの晩餐はなんとかかんとか終わった。
アンドレは「あとで、温かいお茶を」と言われたとおり、セーブル焼きのティーセットに紅茶を煎れてオスカルの部屋の扉をノックした。はっきりとした返事は聞こえなかったが、アンドレは片手でそっと扉を押し開いた。オスカルは長椅子の中央に座り、脚に両肘をついて、組んだ手の上に顎をのせていた。アンドレはテーブルの上にソーサーとカップを置き、冷めないように運んできた紅茶を注いだ。寒い部屋で紅茶は湯気をあげ、とたんにその香りが満ちた。オスカルはカップを取ろうとはせず、視線を斜め下に落としたままだった。
「冷めるぞ」
アンドレは立ったまま声をかけた。
「ああ」
そう言って、オスカルはカップを手に取り口元へ運ぶと、飲んだのか、飲んでないのか分からないようなタイミングで、またカップを戻した。アンドレは斜め隣の肘掛け椅子に腰を下ろすと、オスカルから言葉が発せられるのを静かにまった。オスカルは小さな溜め息をつくと、片手で前髪をかきあげた。そしてまた、手を組み、その手を自分の膝の上に置いた。二人が沈黙している間、紅茶の香りだけが二人に流れていた。
「私を遠い存在だと思うのはどういう時だ?」
そう、オスカルが問うたとき、紅茶はもう湯気をあげなくなっていた。
『遠い存在』・・・それはけっして、本人に向けて言うつもりで言った言葉ではなく、まして、その自分だけの感覚をオスカルに話すつもりなど毛頭なかった。アンドレはしばらく黙していたが、オスカルの口調から、その問いの求める答えの性質を理解した。あくまで、真摯な答えを求めて、待っているのだ。アンドレは言葉を捜しあぐねているようだったが、話し出す前にひとつ、大きな溜め息をついた。
「オスカル、俺達は子供の頃からずっと一緒だった。おまえの言うように、心も魂もずっと、寄り添ってきた。そして、そうありたいと願い続けてきた」
アンドレの口調はゆっくりと静かだった。
「だが、オスカル・・・俺はときどき、おまえを遠くに感じた。手の届かない存在だと・・・」
「今は?」
オスカルは即座に問い返したが、その声は低く、視線も上げることはなかった。
「オスカル、今、俺がなんのために生きているかはおまえが一番、分かっているはずだ」
「それでも、遠くに感じるときがあると?」
その時、部屋の外で他の召使いがアンドレを呼ぶ声がした。アンドレは扉の方を振り向いた。オスカルはすっと、立ち上がると、手で行っていいと合図をした。アンドレはしばらくオスカルの後姿を見つめていたが、小さな溜め息とともに、視線をはずし立ち上がった。ティーセットはそのままにして、出て行こうとしたが扉を開けるまえにオスカルを振り返った。
「今、そう感じるのは錯覚だ。おそらく・・・俺の」
アンドレの声は明るく、どこか無理に弾ませている感じに聞こえた。
「身分のせいか?」
窓辺へと向かう歩みをいったん止め、さらに問うオスカルの声は、反対に少し抑えたように響いた。
「俺は今で満足だ、オスカル」
そう言うと、一呼吸置いて扉の閉まる音がした。
オスカルは窓辺に身を寄せ、カーテンを少し開けてみた。窓は、オスカルの呼吸で白くくもり、ガラスを通して外の冷気がしんしんと伝わってきた。
遠くにはヴェルサイユ宮殿の灯りが見える。巨大な建物とさらに広大な庭園。今宵、灯されるろうそくの数は20年前よりも減ったのだろうか?
オスカルは身体の角度を変えてみた。その視線の先、遠くにはパリが、ここからは森に隠れて街の灯りさえみえないが、生活の灯りすら灯すことができない街がある。
アンドレ・・・
いつか、私がすべての枷を取り払い、自由だけを手にするときがきたなら・・・
そうしたら、おまえと結婚しよう
神に祝福され、法に認められて
小さな家に二人だけで暮らすようになったなら、それでもおまえは私を遠いなどと言うのだろうか
オスカルは、今度は天を仰いだ。凍てつく空気の中、幾百万もの星が冴え渡って輝いていた。
星よ、星達よ!
おまえ達だけは、ヴェルサイユにもパリにも平等に降り注いでくれ
天が見守っていると民衆に伝えてくれ
星よ、星達よ!
私の進む道を照らしてくれ 私が臆することのないように
すべてを捨てても、進むべき道があると
星よ、無数の星達よ!
世界がもし、変わっても、けして変わらないものがあると
私と私の恋人に教えておくれ
そして、いつか寄り添う私達の姿を、その時を隔てた光で照らしておくれ
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