アラン・ルヴェにとって7月14日は人生最悪の厄日となった。
けれど、どれほど考えても、なぜこんな目に遭ったのかはわからなかった。

敬愛し思慕する奥さまが、態度のでかいおばさんたちに引っ張られるようにして船を下りられた直後、その弟君が、小船を拝借したい、と極めて丁寧に依頼してきた。
もと軍人だという弟君は、前日、水夫に短剣を突きつけるという意味不明な暴挙をなした人だが、さすがに奥さまの弟だけあって、上品かつ優雅な物腰であり、また「姉上には昨日許可を頂いている。」との言葉も付加されれば、断る理由は何もなかった。

奥さまは、こうるさい貴婦人方の相手に相当手間取られたようで、船に戻ってこられたときには、すでに昼を過ぎていた。
廃兵院が市民に武器を渡したという情報も、続いてバスティーユ牢獄に向かうということも、すでに耳に入っていたから、あの目立つ方々がようやく引き上げたことに、心底ほっとした。
奥さまも同様のお心持ちだったようで、お帰りなさいませ、と声をかけたアラン・ルヴェににっこりと笑って下さった。

アラン・ルヴェは母を早くに亡くし、船乗りの父がほとんど家にいなかったため、幼少時から、バルトリ家に引き取られて育った。
現当主がベルサイユから美しい奥さまを連れて戻ってこられたとき、アラン・ルヴェは、まだ少年で、この奥さまのほほえみをこの世で最も美しいものとして認識した。
それは、立派な大人になり、たくましい水夫としてバルトリ家の要となった今も変わらず抱く憧憬の念であり、ある意味、彼の生き甲斐でもあった。


ところが、である。
「オスカルは?」とお聞きになった奥さまに、「小船でパリに行かれました。」とお答えしたとたん、お顔から美しい笑みが消え、見たこともないほどお怒りになったのだ。
その勢いは、手がつけられないほどすさまじく、アラン・ルヴェ以外の水夫は全員持ち場にもどって、我関せずを決め込んでしまった。
船乗り仲間の固い男の友情も、奥さまの激怒の前にははかなく散るのか…。

だが、いかにパリが危険とはいえ、弟君はもと軍人。
ましてだんなさまの弟君もご同行なさったのだから、我が身くらいは守れるはずだ。
なぜそこまで心配されるのか、とアラン・ルヴェが質問しようとしたとき、奥さまが叫んだ。

「お腹の赤ちゃんが死んでしまうわ!」

アラン・ルヴェは硬直した。
奥さまはご懐妊中なのか?
弟君をご心配するあまり、流産しそうなのか?
まじまじと美しいドレスに覆われた腹部を見つめるアラン・ルヴェに、クロティルドの眼がつり上がった。

「わたくしのお腹ではありません!オスカルのお腹です!!」

アラン・ルヴェはさらに硬直した。
男って妊娠できたのか?
「ど、どうして…。どうして男に子供が…。」
あとは言葉にならない。

「オスカルはわたくしの妹です。はじめにそう言ったでしょう!」

アラン・ルヴェは完全に硬直した。
あれが、女…。
舵取りの水夫に短剣を突きつけて脅迫した、あれが女…。
しかも妊娠だってえ〜!
甲板の隅で、水夫がひとりバランスを失いかけて、あやうく川に落ちそうになるのを懸命にこらえていた。
マストの上でも、足を踏み外した奴が、かろうじてロープにぶらさがっていた。
アラン・ルヴェは、頭というものはどんなに硬直していても混乱するものだと思い知った。
いや、混乱するのを自己防衛しようとして硬直するのだろうか。


「きっとわたくしが無事に送り届けるからと、作り涙まで使ってお姉さまや妹たちを説得したのに…。アラン、どうして小船を貸したりしたのです?!」

「いや…、奥さまのご許可は出ている…と…。」
「そんな許可などどこの誰が出すのです!妊婦なのですよ!!」

「知らなかったんですよ、てっきり弟だと思って…。」
図体に似合わず、蚊の泣くような声で答える船長に、ようやくクロティルドの怒りが静まってきた。

「妹とその夫だと言ったはずよ。」

「奥さまの弟君と、だんなさまの弟君だとばっかり…。なんせあの格好ですから…。まさかご夫婦だとは夢にも思わなかったんです…。」

クロティルドは、ホーッと大きなため息をついた。
確かに無理もない話だった。
姉なればこそ、あの風体のオスカルを女と認識できるのだ。
何も知らないアランや水夫たちが、男と思い込んだのはいたしかたなかった。

「わかりました。あなたの言うことも一理あります。あれはどうしたって女には見えないし、夫婦にも見えない、というのは認めましょう。でも、小船を貸してしまったら最後、どこに行ってしまうことか…。もしものことがあったら、わたくしはお母さまにあわせる顔がないわ。」
クロティルドの顔に悲壮感が漂う。
アランを見つめる瞳は苦悩に満ちていて、日頃の明るい彼女からは想像もつかない。
やがてクロティルドは十字を切り、甲板に跪いて祈り始めた。
奥さまのこんな顔ははじめてだ。
なんでこんな忌まわしいことにまきこまれちまったのか。
アラン・ルヴェは奥さまの後ろに跪き、知っている限りの祈りの言葉を唱え始めた。

神さま、おれ、何か悪いことをしましたか…?

オスカルとアンドレが夜になって、振り出した雨に濡れそぼって帰船したとき、アラン・ルヴェは、どんな嵐の航海から帰港したときより神に感謝した。














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たゆたえども沈まず
  (Fluctuat nec mergitur.)
     ーおまけー

百合忌のおまけです。あまりアランをいたぶるのがかわいそうなので、
同名のよしみでこちらの方に厄を変わっていただきました。
突然大波をかぶりたゆたいまくるアラン・ルヴェです。
アホなお話ですみません。m(_ _)m。