とりあえず、衛兵隊のパリ留守部隊詰め所が、アランたちの本部になった。
時の勢いであろう。
留守部隊の連中は、すでにアランたちに合流することを決定していた。
というか、反対する貴族出身者はとっくにベルサイユに逃げ帰っていた。
留守部隊組は、かつての同僚を英雄のように迎えてくれた。
ここなら、選挙期間中ずっと滞在していたから、使い勝手もわかっている。
なまじ、市役所やパスティーユをあてがわれるよりよほど好都合だった。
まだシャトレ家から動けないフランソワとジャンをのぞく二個中隊全員が、この臨時詰め所に入った。
そしてアランは当然のように元司令官室に案内された。
「おれがここを使うのか?」
「指揮官だろ?当たり前じゃないか。」
見渡せば、兵士たちもそろってうなずいている。
一介の班長に過ぎなかった自分が、司令官室を使う。
あの人が使っていた部屋を…
「わかった。ではとりあえず解散だ。各自割り当てられた部屋に入れ。おれはコミューンから連絡があるまでここで待機する。」
戦闘経験者である衛兵隊は、コミューンの連中にとっては間違いなく強力な味方であるはずだ。
国王側との今後の交渉を有利に運ぶためにも、コミューンは衛兵隊の裏切り部隊を手放さないだろう。
どんな使われ方をするかはわからないが、それが市民のためならば、労をいとわないつもりだった。
どっさりと大きな音をたてて、長椅子に腰掛けた。
司令官室とはいえ、もともとパリの留守部隊長の部屋だから、それほど広くもなければ豪華でもない。
だが、4月に駐留していたときは、随分豪華に見えた。
あの人がいたから…。
アランは脳の引き出しの一番奥に押し込めていたことをようやく引っ張り出した。
「お腹の赤ちゃんが死んでしまう!」
クリスの絶叫がよみがえる。
青天の霹靂。
いや雷鳴のごとき神託。
あるいは最後の審判か。
すでにあの二人の分かちがたき関係については完全に理解していたはずだった。
だが、この一言は、あまりに衝撃が大きかった。
観念としての二人ではなく、現実の男と女としての二人を見せつけられたわけだ。
「ふん…!」
勢いよく鼻で笑ってから、急速に小さな独り言になった。
「なんてこった…。」
二人の乗った小船が見えなくなってからも、シャトレ夫人は泣きじゃくり続け、それでもちゃんと救護所に戻り、泣き笑いのままけが人を看護していた。
喜んでいるのだろうけれど、傍目にはわからないから、皆、誰か身内が亡くなったのか、と案じて、お悔やみを言ってくれる患者さえいた。
そのたび、今日という日が嬉しいだけよ、と簡潔に答えていた。
皆は、当然それがバスティーユの陥落の事だと思い、深く同意し共感してくれた。
一方、クリスは、船が見えなくなると同時に、恐ろしいほど青ざめた顔になった。
そして日頃決して見せないほどうろたえた。
重大な機密事項を明かしてしまった。
いかに頭に血が上ったとはいえ、そして、いかにオスカルが指示に従わなかったからとはいえ、患者のデリケートな秘密を、兵士たちの前でさらしてしまった。
痛恨の失言だった。
クリスはしばらくの間、きつく両手を握り合わせ、唇をキッと噛みしめていたが、最後に大きく首を振った。
「アラン、可能な限り、このことは内密にしてほしいの。オスカルさまのために…。」
もちろんアランは同意して、兵士に固く口止めした。
「大丈夫だ。俺たちの中には、誰一人として隊長に不利なことを触れ回る奴はいない。」
アランの言葉にクリスは一瞬瞳をうるませ、それから直ちに持ち場に戻った。
女というのはえらいもんだ、とつくづく感心した。
あんなに感情的になって、誰にでもわかるほど気持ちを表に出しながら、やるべきことはやっている。
泣きながらでも、うろたえながらでも、手を休めない。
クリスもロザリーもその働きぶりの見事さに、アランは感心するばかりだった。
それにひきかえ、自分たち男どもはどうであろう。
隊長の妊娠、という事実が、どうしても理解できず、阿呆のように立ち尽くし、奇声を発するしかなかった。
ありえないこと、まさかということが起きたとき、存外落ち着いて行動するのは女なのかもしれない。
男はただオロオロするしかできないようだ。
それでも、そんな男の中では、アランはいち早く立ち直り、行動を開始したほうだった。
留守部隊の詰め所に入ることを決め、伝令を出し、各方面と調整して、思い通りにことを運んだ。
かろうじて残っていた責任感というか、軍人魂というか、とにかく無意識に状況を判断していたのだ。
それだけは自分で自分をほめてやりたかった。
ロワイヤル橋のたもとまで、激励に来てくれた隊長。
マリ橋のたもとで、よくやったとほめてくれた隊長。
小さな船の不安定な足場をものともせず、にこやかに手を振ってくれていた。
思えば、あれが見納めだった。
たぶん、もう会うことはない。
あんな小船でどこへ向かったかは知らないが、クリスに聞くと、もともとアラスに引き上げる予定だったという。
けれども容体が悪化して、出発は中止になり、絶対安静を指示していたところに、これである。
クリスの苦渋に満ちた顔を見れば、つい口走ってしまったことを責めるなど、誰にも出来ないことだと,部外者のアランでさえ思った。
だが、絶対安静など一顧だにせずあの人がやってきたのは、ただかつての部下を激励するためだったのだ。
自身の危険だけでなく、赤子の命さえ危うい中、あの人はパリの渦中に乗り込んで、事態の推移を見守った。
そして白旗を見た。
あのときの嬉しそうな歓喜に満ちた顔。
神々しいとさえ思えたあの表情。
それで充分だと思わなければならない。
6月23日のあの雨の中、暴挙に出ようとした自分をとがめず、なにごともなかったかのようにふるまい、そして獄舎からの釈放のため、一身をかけて動いてくれた。
退任に際しては、誰もが自由だと説いてくれた。
極めつけは、今回の指揮官任命。
志を継げとの無言の意思表示だった。
受けた恩は山より高く海より深い。
それで充分ではないか。
女としてのあの人が求めたのは、確かに自分ではない。
けれどそれは天命だったのだ。
あの人の志は全部自分が引き受け、荒れ狂うフランスと心中する運命をまるごと引き継ぎぐのは、他の誰でもない、自分なのだから。
骨の髄まで軍人として生きてやろう。
いいか、死ぬまでおれは軍人だ。
途中でやめなければならなかったあの人の分まで、おれはやりきってやる。
雨音が激しくなった。
朝は快晴だったが、一大転機を迎えた運命の日の流血をすべて洗い流すかのような大雨になっている。
全部流れろ、流れきってしまえ。
アランは窓辺に立ち、真っ暗な空を仰いだ。
覚悟はできた。
道は定まった。
慌ただしく扉がノックされ、ラサールが飛び込んできた。
「アラン!いや、指揮官!コミューンの代表が来た。指揮官に会いたいそうだ。」
アランは軍服の詰め襟に手をやり、形を整えた。
「わかった。ここに通せ。」
アランは司令官室の椅子に座った。
やがて国民衛兵の指揮官となるアランの第一歩が始まろうとしていた。
※ 当初、セーヌ川水運組合の紋章で、その後、パリ市の紋章になったものに刻まれたラテン語の銘文です。セーヌを行く船は時に大きくゆれ、波間にただよいたゆたうけれども、決して沈まない、というような意味だそうです。
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たゆたえども沈まず
(Fluctuat nec mergitur.) ※
百合忌です。尊敬してやまないちまさまが、かわいいアランのために設けてくださったこの日。謹んで哀悼の意を捧げますm(_ _)m。