群衆に取り囲まれたバスティーユ牢獄の司令官ド・ローネー候と、コミューンの代表との交渉は行き詰まっていた。
貴族の誇りにかけても平民の要求などのんでたまるか、という気概が、結局命取りにつながることに、この時点では、まだ貴族たちは気づいていない。
まして目の前で荒れ狂う平民たちは、ド・ローネー候にとって暴徒暴民以外のなにものでもない。
こちらには武器もある。
大砲もある。
何を恐れることがあろうか。
埒のあかない交渉に業を煮やした群衆が、ついにバスティーユに攻撃を開始した。
手にしたばかりの銃を構え、数を頼りに押しかける群衆と、それを城壁から狙い撃ちにするスイス人兵士。
だが、午後から始まった戦闘は、廃兵院から援護にやってきた衛兵隊の到着により、劇的に市民側有利となった。
もとより数が違うのだ。
数万の群衆に対して守備兵120人はいかにも少数だった。
跳ね橋が落とされ、市民は一斉に城壁内に突入した。
何人倒れようと、あとからあとから湧いてくるような市民に圧倒され、戦闘意欲をすっかり失ったド・ローネー候はついに白旗を掲げた。
「バスティーユが陥ちたぞ〜!!」
歓喜と興奮が街全体を覆い尽くした。
群衆は、ド・ローネー候の首を槍にさして行進を始めた。
彼らは歓声を上げながら市役所に向かい、態度が不鮮明であった市長フレッセルの首も落とした。
ここにいたって、アランは衛兵隊に撤収を命じた。
人の首をさらして歩く行列に、自分たちは与しない。
今後のことはコミューンの連中が政治的に判断していくだろう。
再び市民に銃が向けられれば、すぐさま出動するが、今はとりあえず負傷者を救護所に運びたかった。
そして、この勝利をかの人に伝えたかった。
アランの指示はすぐに衛兵隊に行き渡り、数人の負傷者を担いで、広場まで撤退した。
救護所には大勢の人が出ていて、陣頭指揮をとっているのはラソンヌ医師とクリスだった。
彼ら二人が一人一人の傷を判断し、ディアンヌをはじめとする女性陣に手当の方法を指示していた。
ロザリーの姿もあった。
みな、袖口やスカートの裾を血で染めながら、賢明に介抱している。
市民側の負傷者70数名、死者は100人にのぼっただろうか。
うめき声と、怒鳴り声が交錯していた。
そこへ制服を着た男たちが担ぎ込まれたのを見て、負傷者の群れが場所を空けてくれた。
皆、その制服が今回の勝利の立役者のものだと知っている。
「道を開けてやれ!」
「我らの守護神だ、すぐに医師のところへ!」
どやどやと担ぎ込まれた兵士たちは、次々に医師の診断を受けた。
ざっと診たところ、命に関わるほどのものはいない。
ラソンヌはまずはそれをアランに告げた。
アランは一気に肩の力が抜けた。
よかった。
これであの人に顔向けできる。
「さあ、セーヌへ急げ!隊長に報告するんだ。」
おお!という大歓声に、ラソンヌの隣で治療中のクリスが驚いて顔をあげた。
「隊長?」
「ああ、隊長に報告だ!」
「隊長はあなたじゃないの?」
「俺は臨時の単なる指揮官だ。俺たちの隊長はこの世でたったひとりだ。」
アランが横たわる兵士の傍らから立ち上がりながら言った。
「アラン!!」
びっくりするほど大きな声でクリスがアランの名前を呼んだ。
「もしかしてとは思うけど、その隊長ってオスカルさまではないでしょうね?」
「そうだとしたらなんか問題あるのか?」
その問いには答えず、クリスは間髪いれずどなった。
「おおありよ!!オスカルさまはどこ?!セーヌってどういうこと?」
胸ぐらをつかみかねない勢いだ。
その迫力に圧倒されて、アランはセーヌ上の小船にオスカルが来ていると答えた。
「ディアンヌ!先生!あとはお願いします!!」
叫ぶなりクリスが走り出した。
一瞬あっけにとられたアランは、が、すぐに衛兵隊の動ける連中とともに続いた。
オスカルさま、という言葉に条件反射したロザリーがその兵士たちのあとを追いかける。
先頭と最後尾にうら若い女性、その間を傷だらけの兵士たち、という異様な集団が広場を飛び出し行く。
ほとんどの市民は、市役所の行進を見物に出かけていて、街中は閑散としているとはいえ、やはり尋常な光景ではない。
何より、広場にいる負傷者たちが異様な集団に目をむいていた。
だが、もともとクリスは人目を気にするタイプではないし、アランも同様だ。
そして、彼らに比べれば、本来一般的価値観の持ち主であるロザリーも、オスカルがらみのときだけは性格が豹変する。
彼らは、衆目の関心を一切無視して、セーヌに向かった。
いつの間にかアランたちがクリスを追い抜かした。
通りを駆け抜け、川岸に出ると、すぐに小船が目に入った。
午前中、ロワイヤル橋のたもとにいた小船は、さらに上流まで移動して、シテ島を過ぎ、サン・ルイ島も過ごして、マリ橋のたもとまで来ていた。
マリ橋は、セーヌの中州サン・ルイ島と右岸を結ぶ小さな橋だ。
中州の島は下流から順に、シテ島、サン・ルイ島、そしてルーヴィエ島となっている。
そしてバスティーユは、ルーヴィエ島の対岸だ。
オスカルが出来る限りバスティーユに近づけ、とアンドレをせっついたのだろう。
遠目でもわかるほど、アンドレの表情は憮然としていた。
「隊長〜!!」
「隊長!!見えますか〜!バスティーユの上に白旗が〜!!」
「隊長〜!!」
兵士たちの大声が響く。
小船に座っていた人影が、スッと立ち上がった。
そのすぐうしろで、不機嫌そうな顔をしながらも、男がその人を支えた。
長い時間、砲弾の炸裂する音を聞きながら、ただ待ち続けていたかの人は、部下たちの姿に、瞳をキラキラと輝かせた。
「隊長!おれたち、やりましたよ〜!」
金髪の女神は、その瞬間、破顔した。
そしてアンドレをせかして船を移動させ、白旗が見える位置を探した。
川岸に沿ってルーヴィエ島の方に船を動かすと、いかめしい牢獄にひらひらと舞う白旗が、建物の隙間からかろうじて見えた。
流された血の色に染まることなく、真っ白にはためくそれは、まさしく民衆の勝利の象徴だった。
ついに、ついに陥ちたか…。
オスカルは胸の高鳴りを押さえきれない。
果敢ににして偉大なるフランス人民よ。
自由、平等、友愛、この崇高なる理想の永遠に人類のかたき礎とならんことを…。
フランス万歳!
そして、フランス衛兵万歳!
「さあ、岸に船を寄せろ!アンドレ、すぐに船を岸へ。」
ひとことねぎらってやりたい。
オスカルは船の先頭に立って乗り出すようにしながらアンドレに命じた。
アンドレは渋々船を動かし始めた。
戦闘が終わったのなら、しばらくは流れ弾などもないだろう。
オスカルは下船禁止令など、完全にどこかに消し飛ばしている。
ゆるやかに船が岸に向かって進み始めたとたんに、オスカルが顔色を変えた。
「アンドレ、戻れ。すぐに船を下流に…!急げ!!」
驚くアンドレに、聞き慣れた女性の声が飛んできた。
「オスカルさま!」
この腹の底から響くような低い声は…。
アンドレは顔をあげた。
クリスだった。
汗だくで、息をはあはあとつきながらすさまじい表情で小船をにらみつけている。
「早く戻せ!」
オスカルが叫ぶ。
そういわれても、川の上での船に、そんな小回りはきかない。
うわあ〜、というオスカルの悲鳴に反して、船はクリスと衛兵隊とロザリーが鈴なりになって待ち受ける岸辺にゆっくりと近づいていく。
「オスカルさま!!」
大音響だ。
あの小さい体のどこからこんな大声が出るのだろう。
ああ、そういえば、おばあちゃんの怒鳴り声も大きかったなあ。
苦境に立ったアンドレが、思考をあさっての方角にとばすのは、すでに習慣になっている。
「オスカルさまっ!!何をしておいでです?!ご自分の状態がわかってらっしゃるんですか?」
わかってたら、こんなところには、来ないよ、クリス。
アンドレが心の中で丁寧に返答する。
オスカルにわかっているのは、フランスの現状だけだ。
いや、今のこの必死の形相を見ると、クリスと対決するのはまずい、ということも、どうやらわかっているようだ。
「アンドレ、面舵いっぱいだ!」
こんな小船に面舵なんかあるもんか。
言っていることが無茶苦茶だ。
ああ、そうだ、やっていることも無茶苦茶なんだ。
アンドレは、あえて意識をずらすことで、精神の均衡を保っている。
「お腹の赤ちゃんが死んでしまうわ!!」
クリスが絶叫した。
歓声に充ち満ちていた兵士の群れが一瞬で沈黙した。
ロザリーが、大きな瞳を、限界まで見開いた。
「赤ちゃんですって〜!?」
金切り声はロザリー。
「赤ちゃん?!!!」
野太い声の合唱は兵士たち。
その声が、もっとも不似合いな生物の名称を一斉に叫んだ。
「赤ちゃん…!!」
そのとき、ようやく船がアンドレの舵にしたがい、船首を下流に向けた。
そして川岸から離れ始めた。
オスカルは、ほーっと一息ついた。
間一髪だった。
安堵したオスカルは、手を振りながら兵士たちをねぎらった。
「アラン!よくやった。みんなも、たいしたものだ。」
呆然としている川岸の観客に悠然と声をかける。
「諸々事情があって、今はゆっくり話ができないが、いつかまた会おう。さらばだ!」
その声に、今までおとなしかったロザリーが猛然と行動に出た。
彼女はセーヌに沿って駆け、マリ橋に向かった。
そして恐ろしい早さで橋の上にたどりつくと、向かってくる小船に叫んだ。
「オスカルさまあ!!」
船が橋の下をゆっくりとくぐっていく。
ロザリーはあわてて、反対側の欄干に身を寄せる。
下から、まず船首に立って船を漕ぐアンドレ、続いて、船尾に後方を向いて座るオスカルが見えた。
かわいいロザリー。
わたしの春風…。
泣かないで…。
オスカルはそっと口だけを動かした。
「わたしたちはね、夫婦になったのだよ…。」
「…!!」
ロザリーが大きく息を吸い込み両のてのひらで口元を覆った。
見る間に大きな瞳から水晶のような涙がこぼれた。
それから両手を高くあげ勢いよく振り始めた。
「オスカルさま、お幸せに!!アンドレ、お願いよ。オスカルさまをお幸せに!!」
ようやくお幸せになるのだ。
女として、お幸せになるのだ。
今日がオスカルさまの出発の日…。
ロザリーは声を限りに叫んだ。
「おめでとうございます!いってらっしゃいませ〜!」
ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
アンドレが船の速度を一気にあげた。
「さあ、ノルマンディーだ。アンドレ、行くぞ。用意はいいか。」
オスカルの晴れやかなほほえみに、アンドレは今日初めてにっこりと笑った。
※参考資料 「図説フランス革命」 芝生瑞和編 河出書房新社
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