アラン・ルヴェから拝借した小船は荷物の運搬用で、積荷にかける莚(むしろ)が数枚積まれていた。
アンドレは、櫂を漕ぎながら、器用に中の一枚をオスカルの頭からすっぽりとかぶせた。
「何をする?!」
突然小汚い莚の下敷きになったオスカルが、あわてて顔を出そうとするのを、アンドレが櫂で妨害する。
「雨だ。濡れると冷える。冷えは大敵だとソワソン夫人が言っていた。」
合理的説明を受け、オスカルは抵抗をやめた。

口うるさい方々の顔が、ここにきて、ようやく脳裏に浮かび始めた。
とりあえず筆頭のクリスはかわした。
船をおりてはならない、という姉の教えが身を助けたのだから、人間、何が幸いするかわからない。
だが、目指す船ではその恩人が、怒り心頭で自分たちを待っているのだ。
下手をすると、マリー・アンヌ、カトリーヌ、ジョゼフィーヌという三点セットだっているかもしれない。
もしうまい具合にクロティルドが三点セットを撃退してくれていたならば、彼女ひとりの説教くらい、福音のつもりで聞くのだが…。
莚の下でもぞもぞと姿勢を変えながら、オスカルは対応方法を考えた。
だが、名案のあるはずもなく、こういう場合の常道である敬虔な祈りに頼らざるを得なかった。
彼女はいつになく真剣に聖書の言葉を唱え始めた。

莚の下から小さく聞こえてきたお祈りに、全速力で櫂を漕ぐアンドレはつい唱和しそうになった。
彼とて、この後の展開が予想できないほど鈍くはない。
いや、オスカル以上に具体的、かつ悲観的に想像できる分、先ほどから降る雨に流れていきたい心境なのだ。
「なぜ止めなかったの?」
クロティルドの叱責の声が聞こえるようだ。
そしてカトリーヌの涙。
ジョゼフィーヌの痛烈な皮肉とマリー・アンヌの反論しようのない当を得た小言。
三点セットどころか四重奏である。
逃げも隠れもできまい。
息をすることすらままならないのではないだろうか。
だが、いかに気が進まなかろうと、船の速度を落とすわけには行かない。
莚では防ぎきれないほど雨足がつよまってくるのは時間の問題だった。

マリ橋のたもとから出た小船は、シテ島にかかるいくつかの橋をくぐり、最初に衛兵隊に出会ったロワイヤル橋も過ぎようやくルイ16世橋まできた。
あと2qほどで、市街を出てバルトリ家の船に到着だ。
オスカルが、「どのあたりだ?」と聞いてきた。
アンドレは出来る限り正確に返答する。
こういうところ、オスカルはいい加減さを極端に嫌うのだ。
自分の体調には恐ろしいほど無頓着なくせに…。

オスカルが莚から顔を出し、きょろきょろとあたりを見回した。
右岸はテュイルリー宮広場である。
そして左岸前方にはマルス練兵場。
ここにはいまだ多くの国王軍が野営しているはずだが、船の中からでは見えようはずもなく、懐かしいパリの景色がただ雨にけぶっているのみだ。
「頭を引っ込めろ。」
アンドレはオスカルの寂寥を理解しながらも、現実的判断を下す。
いや、理解しているからこその判断ともいえる。

戦闘の名残のある凄絶なパリの姿を最後の記憶として心にに留めるのはあまりに切ない。
決して良い思い出ばかりではなく、むしろつらいことの方が最近は多かったが、それでも、輝く季節を過ごしたのも事実だった。
オペラ座も、カフェも、酒場も、留守部隊本部も、そして別邸も…。
願わくば今日流された血が最後となって、王と市民がともに笑って手をとりあえる日への第一歩となってほしい。
それとも、今日の血はほんの前哨戦なのか?

権力を握ったコミューンは、殺されたフレッセルにかわってバイイを市長に立て、ラファイエット候を国民衛兵の司令官とした。
お飾りの候の下で実質的に軍事行動をとるのはアラン率いるもと衛兵隊の面々であることは衆目の知るところだ。
だが、この時点でのオスカルとアンドレは、すでにこれらの情報から隔絶されている。
バスティーユ陥落後のフランスはきっと二人の想像の範疇を大きくこえて動いていくだろう。
だがそれでいいとアンドレは思っている。
オスカルはもはやそれらの世界と関わるべきではない。
すべてをアランに引き継いだのだ。
そして彼は見事に任務を遂行してくれた。

あらためてアンドレは自分の任務を確認する。
まるで自覚のないオスカルと、その自覚のなさゆえに恐ろしいほど過酷な環境を強いられ、なお懸命に命をつないでいる我が子を、何があっても守ること。
その決意のもとに、アンドレは再び強引にオスカルを莚の下に押し込んだ。
「もう船が見えてきた。着いたらすぐにそこから出してやる。だから辛抱しろ。」
突然待ち受ける人の顔を浮かんだのか、オスカルが体をうんと低くして、自分から莚に深く入り込んだ。
「こうすると荷物に見えないか?」
「え?」
「おまえがひとりで帰って来たことにしてくれ。私は積荷でいい。」
姉上方に荷物扱いされてあんなに膨れていたくせに、今度は荷物になりたいらしい。
勝手なものである。
「ばれないわけがないだろう。」
「そうか…。」
「あたりまえだ。」
「そうだな。おまえがわたしをどこかに置いてくるはずがない。くやしいが姉上はお見通しだろうな。」

バルトリ家の船が見えた。
アンドレは船の速度を緩めて近づく。
甲板にいる水夫が、小船を発見し、大声で知らせている。
クロティルドとアラン・ルヴェが走り出てきた。
「アンドレ、姉上は何人だ?」
「クロティルドさまおひとりだ。」
オスカルは莚の下で、感謝の祈りを捧げた。



「おしかりも説明も明朝にお願いします。とにかくオスカルを休ませたいのです。」
アンドレの懇願にクロティルドは不承不承折れた。
ずぶ濡れのアンドレの申し出を蹴るのは不憫であったし、彼がとにかくオスカルを雨から守り、その他の諸々からも守り、こうして連れ帰ってくれたことは事実なのだ。
「わかりました。すぐに部屋へ。アラン、お湯を沸かして二人の部屋に届けてやってちょうだい。それからタオルもたっぷりと。」
アンドレは心から感謝をのべ、オスカルを抱きかかえるようにして船室に向かった。
「オスカル、アンドレ、明日の申し開きを楽しみにしていますよ。」
背中にグサリと短剣が突き刺さった。
アンドレの体を雨とともに冷や汗がタラリと流れた。

極度の緊張を強いられていたパリ滞在から無事帰還して、寝台に倒れ込んだオスカルは、死んだように眠った。
アンドレもその寝顔に安心すると、つられるようにハンモックに転がり込んだ。
爆睡である。
以後の記憶はまったくない。



 
                  
    
 
   

                    




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