目覚めたのは、いつものようにアンドレが先だった。
船が大きく傾いたために、気がついたのだ。
すでに出航したらしい。
市街を出たセーヌ河の蛇行は激しい。
ハンモックが大きく揺れる中、アンドレは器用に床に降り立った。
オスカルはまだ眠ったままだ。
起こさないようそっと部屋を出て甲板にあがった。
船乗りたちが忙しそうに動いている。
碇を収納しているもの、帆の向きを変えているもの、甲板を掃除しているもの。
ざっと見たところ6人ほどだろうか。
ということは、自分たちとクロティルドとアラン・ルヴェを加えて船にいるのは10人ということになる。
われ鐘のような声で指示を出しているアラン・ルヴェに近づき、昨日の礼と詫びを伝えようしたとき、背後から「アンドレ!」と女性の声で呼ばれた。
オスカルではない以上、クロティルドしかいない。
アンドレは急いで心の用意をした。
「おはようございます。」
丁寧に挨拶したつもりだったが、あたりからクスクスと笑いが起きた。
「だんな、もう昼ですぜ。」
水夫のひとりが陽気に教えてくれた。
あわてて太陽の高さを確認する。
日はすでにマストの先の延長線上でギラギラと照りつけていた。
「失礼しました。」
決まり悪げに謝るアンドレを無視して、クロティルドの容赦なき尋問が始まった。
「オスカルは?」
「まだ休んでいます。」
「機嫌良く寝ている訳ね。なら体の方は大丈夫なんでしょう。」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。」
「生きた心地がしないって、こういうことなのね、と思い知ったわ。」
「返す言葉もございません。」
「これでも夫は船乗りで、たびたび危険な眼にもあい、そのたび身の縮む思いもしましたけれど、こんなのは初めて…!」
「恐れ入ります。」
「万一のことがあったら、わたくし、二度とお父さまやお母さまにお会いできないところでした。」
「おっしゃるとおりでございます。」
「常時見張っているべきあなたが一緒になって危地に赴いてどうするのです?」
「面目次第もありまもせん。」
「オスカルやあなたは自己責任ですけれど、お腹の子どもには何の罪もないのですよ。」
「重々承知いたしております。」
「あなたの子なのに…。」
「全くもってお恥ずかしい限りです。」
「アンドレ、謝罪文例集を順不同に並べるのはやめろ。」
突然オスカルの声がした。
「まあ、オスカル。」
クロティルドがアンドレからオスカルに視線を移した。
「姉上、おはようございます。」
もう昼なんだ、とアンドレは教えてやりたかったが、とても言える状況ではなく、オスカルはつかつかとこちらに近づいてきた。
「色々ご心配をおかけしたことはお詫びいたします。ですが、わたくしは姉上とのお約束はきっちり守りました。あしからず…。」
オスカルはちょこんと頭をさげると、見事に胸をそらした。
とても詫びているようには見えない。
「あんな小船でパリまで行って、どこが約束違反でないというのです?」
「下船はしておりません。」
「?」
「姉上は船を下りてはならぬ、とおっしゃった。小船でも船は船。わたくしは一歩たりとも船から足を降ろしてはおりません。」
オスカルは極めて正当な言い分であると自信満々だった。
すぐ隣に立つアンドレにはそれがよく理解できた。
たぶん本人以上にオスカルの言いたいことがわかった。
けれど、この世で自分以外の誰がこんな手前勝手な理屈を聞かされて、理解し納得するだろう。
彼は大きく息を吸い空を見上げた。
そして来るべき怒声に対し万全の準備態勢を整えた。
「アラン!!」
時ならぬ大声に昨日同様、またもや甲板から落ちかけるものと、マストにぶらさがるものが出ていた。
そして呼ばれたアランは、体をビクリと大きく震わせた。
なんで、ここでおれが…。
彼の混乱ぶりは、傍目にも明らかだった。
クロティルドの怒りは予測していたが、まさか自分に向けられるとは夢想だにしていなかったのだろう。
態勢を完璧にしていたアンドレも同様で、なんで、ここでアランが…、と心底驚いた。
誰が考えても、ここで呼ばれるべき名前はオスカルだった。
「船を止めてちょうだい!そしてお姉様方を呼んでくるのです。この子に理解させるにはわたくしひとりではとても足りないわ。すぐにあそこに船を止めて!」
彼女が指さす方角には、昨日まで停泊していた桟橋があった。
ちょうど出発地点に戻ってきていたのだ。
もちろんジャルジェ家から出した二艘の小船はすでにない。
この船でクロティルドの命令は絶対である。
船はすぐに川岸に寄せられた。
皆、ほれぼれするような軽快な動きで船を桟橋に停止させた。
なんといってもめったやたらにない奥さまの厳命である。
機敏にならざるを得なかった。
「奥さま、ここからベルサイユに行こうにも、馬車も馬もございません。どういたしましょう。」
アラン・ルヴェが恐る恐る尋ねた。
昨日来、アラン・ルヴェは性格がかわってしまったようだ。
豪放さのかけらも見られなくなっている。
「どこからでも借りてくればいいでしょう。あなたに任せます。」
ピシャリと言われ、大男は身を小さくして返答し、船から下りる用意にとりかかった。
「さて、オスカル。下船はしていないから、約束は守った、というのですね?」
一連の流れを眼をぱちくりさせて眺めていたオスカルは、突然姉に話を振られて、一層青い瞳をぱちくりさせた。
「おっしゃるとおりです。」
「下船してはならぬ、というのは、この船から、ということに思い至りませんでしたか?」
「まったく…。」
いけしゃあしゃあというのは、まさにこういうときをさすのだろう。
「思いもよりませんでした。船ならば安全だと、姉上自身がおっしゃっておられましたから。」
「船にもよりましょう。」
クロティルドの声が少し大きくなった。
「そうなのですか?」
「あたりまえです!」
「小船ではだめだということでしょうか?」
「言うまでもありません。」
「言ってもらわなければわかりません。」
クロティルドは、ここで大きく深呼吸をした。
もはや船を下りたか下りていないかが問題ではない。
「その小船でいったいどこに行ってきたのです?」
「部下の活躍を見届けに…。」
「パリ市内ということですか?」
「バスティーユ近くの川岸です。ですが、船は降りておりませんぞ。」
オスカルにとってはあくまでここが重要ポイントらしい。
「よくもそんな体でそんな危険なところへ…。あなたはもう少し周囲の心配というものを心に刻まなければなりませんわ!」
貴婦人らしからぬ大声でクロティルドが妹をたしなめた。
「その言葉、そのままあなたに送りますよ。バルトリ侯爵夫人。」
桟橋から上品な男の声が聞こえてきた。
驚きを隠せない水夫を尻目に、アランが馬を探しにおりようとおろしたなわばしごを、慣れた動作でいとも軽やかにのぼって来たのは、船乗り貴族と異名を取るバルトリ侯爵だった。
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