船がバルトリ侯の領地に着くと、オスカルとアンドレはとりあえず、姉夫妻の屋敷に同行することになった。
なんといっても、侯の叔父が残した別宅は長期間無人だったのだ。
バルトリ家が近隣の農民に管理を委託していたから、廃墟になっているわけではないのだが、こんなにいきなり人が住むことになるとは思っていないから、家財道具や厨房など、手をいれるべき場所が多々あったのだ。
だいたい、二人がここにやってくることは、当の二人とて出発前日まで知らない話で、すべてジャルジェ将軍の一存であったのだから、すぐに入居できないのは至極当然のことであった。
「なんというか、よほど切羽詰まったご事情がお父上にあったのだろうね。」
人の良い侯はおおらかに構えて、用意が調うまで好きなだけ逗留すればよい、と言ってくれた。
もちろん、そのお父上の事情が妻子に対する意趣返しであるとは、侯の想像の範疇をはるかに超えた話である。
いくらクロティルドでも、それを夫に説明するのには、恥じらいというものがあった。
つまはじきにされた父が、母と娘たちに一矢報いようとして内密に、かつ性急に計画し、そこに好奇心に満ちた自分が、思いがけずからんでしまっての、一連の結果である。
したがって、彼女にしてはめずらしく、この件については言葉を濁していた。
その上、彼女は、この話題に触れたくないばかりに、二人の前から姿を消すことを思いついたのだ。
ベルサイユから帰って来たばかりにも関わらず、パリでの買い付けができなかったのならば、急ぎどこかで調達してこないと、と夫をせかし、早々に夫婦そろってイタリアに出発してしまったのである。
こうすれば、目の前に二人がいないのだから、話題にのぼらせる必要はない。
まして二人そろっての旅行となれば、見るもの聞くものめずらしく、実家のことなどきれいに忘れてしまえる。
侯もまた、この妻は置いていくと何をしでかすかわからないので、これまでの方針を転換し、長旅になるときは妻を連れて行くことにしたようである。
季節的に海が穏やかであることと、海岸沿いに進むため、危険がないというのも、クロティルドの同道を許可した理由だった。
そのあたりの事情は、実は二人が出発してから、残された子どもたちが教えてくれた。
親がそろって出て行ったしまったので、オスカルとアンドレは必然的にクロティルドの二人の子どもたちと暮らすことになったからである。
20歳をすぎたばかりのニコーラ・レーグル・ド・バルトリと、その妹の15歳になるニコレット・フランシーヌ・ド・バルトリである。
名前はそっくりだが、見た目はまったく似ていない兄妹である。
兄は母親似の金髪碧眼、つまりオスカル系なのに対し、妹は黒髪に黒い瞳の父親似だった。
屋敷に着いた日、ニコーラは、両親とともにやってきたオスカルを見ると、顔を輝かせて進み出た。
「これは叔母上…!お久しぶりです。というかほとんど初対面に等しいと思いますが、お目にかかれて大変嬉しい!わたしはベルサイユ生まれなので、きっと生まれたばかりの頃には叔母上とお会いしているのでしょうが、残念ながらまったく記憶がありませんので…。」
無邪気な子どものような挨拶だったが、オスカルはこのときほど、お姉ちゃまとよんでくれたル・ルーを可愛らしく思ったことはなかった。
このわたしをつかまえて「叔母上」とは…!
瞬間的に顔色の変わったオスカルに気づいたバルトリ侯が、
「叔母上は気の毒であろう。」
と息子をたしなめると、この青年は、今度は頭をかきながら訂正した。
「失礼いたしました、叔父上。」
この光景を見ていたアラン・ルヴェは、やはりぼっちゃまは健全なお方だと胸をなで下ろした。
見た目から判断すれば、当然の呼称だ。
だが、オスカルは間違いなく母の妹であり、いくらなんでも甥のニコーラがそれを知らないわけはないのである。
息子のすっとぼけた返答に絶句してしまった両親に代わって落ち着き払って中に入ったのはニコレットだった。
「お兄さま、そのように呼ぼうとするからややこしいのですわ。互いに名前で呼べばよろしいではありませんか。ねえ、オスカル・フランソワ。」
黒髪の豊かな少女は、自分の倍は年上であるオスカルに対し、冷静に同意を求めた。
オスカルは、こめかみをびくつかせながら、この不可解な甥姪の手をかろうじて握ってやり、それから、「疲れたので、」ととってつけた理由でアンドレを伴い、一目散に客間に引き上げたのだった。
このように兄妹とは最悪の出逢い方だったが、侯爵夫妻が出発したあとの屋敷の当主はこのニコーラであるから、顔を合わせないわけにはいかず、無邪気で悪気のない甥の好奇心にオスカルはさんざん悩まされた。
ここノルマンディーでは、女性の軍人など見たことがないが、ベルサイユでは当たり前なのか?
とか、
母から結婚したと聞いたが、かわらずその格好を続けるのか?
とか、
もしかして子どもを産んでもそのままでいるのか?
とか…。
「だいたい、名前のつけかたからしてふざけているではないか。兄妹でニコーラとニコレットだぞ。しかもこれでも20歳かと思うほど子どもっぽい兄と、そのまま修道女になれそうなほど落ち着き払った妹と来ている。一体全体、姉上はどんな育て方をしたんだ…!」
オスカルがぶつぶつこぼすのを聞きながら、一応、男は男として、女は女として育っているのだからジャルジェ家ほど奇妙ではないと思うが、という言葉を、アンドレは胎教のためにのみこんだ。
事実、無邪気なニコーラは、使用人からは絶大な信頼を得ていて、父の不在中の領地も屋敷内も見事にとりしきっていた。
今回は両親にアラン・ルヴェもいないのだから、若い彼で収まるのだろうか、と実はアンドレは密かに心配していたのだが、彼は老練な執事としっかりもののばあやの補佐を得て、完璧に留守を守っていた。
またニコレットも、おそらくベルサイユに連れて行ってそれなりの格好をさせれば、さすがジャルジェの令嬢と言われるであろう美貌を持ちながら、趣味は領地の子どもを集めて教会で読み書きを教えること、という大変風変わりな少女で、これはこれで領民からの人気が高く、ここでは領主と領民の反目や、ましてや対立などは無縁のようであった。
しかし来たばかりのオスカルにはそのような事情はわからない。
とにかく、こんな屋敷に長居は無用だ。
出来うる限り早急に、相続した別邸に住めるようとりはからってほしい。
オス侯夫妻が出発してからきっかり一週間後に、オスカルとアンドレは別邸に移り住むことができる運びとなった。
いまだ安定とまではいかないが、オスカルの容体も随分落ち着いていたし、ここにいるくらいなら、馬車に揺られてでも新居に移る方がよほど精神衛生上よろしい、というオスカルの言葉ももっともに聞こえ、アンドレはニコーラに頼んで最上級の馬車を調達してもらって、バルトリ侯爵邸を出た。
二人の新生活がこうして、とにもかくにも始まったのである。
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