「バルトリ侯の母上はナポリから来られたそうだ。だから候の風貌には南国の匂いがするのだな。」
フランス北西部のノルマンディーに代々居を構えるバルトリ家の当主は、不思議なほど情熱的な顔立ちをしている。
「へえ…。南国の姫君と北部の貴公子が縁組みねえ。」
アンドレは気のない返事だけして、せっせと寝台のシーツを取り替えている。
「遠くにはナポリ王家の血を引くなかなかの美人だったそうだ。」
それはニコレットの容貌からも推察できた。
「さもありなん。侯もお子様たちもそろって美形だ。」
「ふむ…。まあ、とにかく、その縁で、侯爵がローマに買い付けに行くときは、必ずナポリにも寄るらしい。」
「なるほど…。」
あたりさわりのない相づちを打ちながら、アンドレは仕事の手を決して休めない。
「ということは、だな。今頃、姉上もナポリにおられるということだ。」
「そうだな。」
「おまえ、本当にさっきから気のない返事ばかりだな。」
「そうか。無視はしていないつもりだぞ。」
オスカルは長椅子に腰掛け、長い足を投げ出している。
何もすることがなくて、というか、何もできないので、暇で仕方がないのだ。
今もシーツの交換だ、と言われて、やっと寝台から降りられたが、それ以外は常に横になっていなければならない。
絶対安静期をなんとかやり過ごしたばかりで、大型船とはいえ、パリからはるばるセーヌを下り、さらにはバルトリ邸から新居まで馬車に揺られてきたのだから、アンドレがオスカルの自由な活動を許可するはずはなかった。
こういうときの頑固なアンドレに反抗しても勝ち目がないことをオスカルは知っている。
身動きできない状況でオスカルはパリの情報を得たいと渇望していた。
だが、なかなか思い通りには行かない。
手足となる部下がいないからだ。
一応、手足となる夫はいるが、こちらは日常生活で手一杯らしく、現在の国政状況にまでとても構っている暇はなさそうだ。
使用人をひとりも同行させなかったのだから、こういう生活になることは了解済みだったはずなのだが、いざ始まってみると、オスカルにとっては苛立たしいことこの上ない。
いったいバリやベルサイユはどうなっているのだろうか。
ジャルジェ家の人々は…。
衛兵隊は…。
国王ご一家は…。
考えても仕方がないことばかりが頭をよぎる。
外部から訪ねてきてくれるのは、あの落ち着き払ったニコレットのみである。
彼女は、町の教会を訪ねたついでに、叔母夫婦を見舞いに来てくれるのだ。
これはどうやら母クロティルドの言いつけによるものらしく、見舞いというより偵察のような雰囲気ではあるのだが、外界の窓口が現在ここしかない以上、オスカルはやむなく、ニコレットから情報を得ようと試みている。
が、ニコレットを通して得られるのはノルマンディーの現状と、バルトリ家の縁戚関係くらいで、本日の成果は、候の母の出自に関するものだけだった。
さしたる収穫もない中、姉がローマだけでなくナポリにまで足を伸ばしていると聞くと、その行動範囲の広さが俄然うらやましくなる。
軍務についているときは私的な旅行など、謹慎処分でも受けない限りできない相談だったが、すでに辞職した身となれば、自由に外国へだって行けるはずだった。
もしも知らない国にあちこち旅することができたら、どんなにか見聞も広まり、興味深いことだろう。
外から、祖国フランスを見つめることで、混乱した現状打開の糸口を見つけることも可能かもしれない。
しかるに安静第一の身となって、よほどのことがない限り、小さな屋敷の庭歩きすら、許されない。
一切アンドレから許可がでないのだ。
せっせと仕事に励むアンドレの態度を、有り難く申し訳なく思う反面、これは動けない自分に対するあてつけではないかとさえ思えてくる。
「ナポリ王妃は、アントワネットさまの姉上だ。非常に聡明な方らしい。」
涼しげな顔で動き回るアンドレの邪魔をするように、オスカルはあえて自分の話を続けた。
「そのようだな。」
不満がくすぶっているのはわかっているから、返事だけはきちんとする。
でないと、ブチ切れたオスカルは何をしでかすかわからない。
だが、丁寧な返答をするには、雑用が多すぎる。
そんなアンドレに構わずオスカルはさらに続けた。
「実質的なナポリの統治者との噂もある。」
その評判はアンドレも聞いている。
あまり政治に興味を持たない夫君に変わって、ナポリとシチリアの両国を統べる王妃は、母マリア・テレジア女帝さながらで、おそらく一番その資質を受け継いだと言われていた。
子だくさんということも母帝と共通しているし、夫を立てるという点も同じである。
つまり、アントワネットとはあまり似ていない。
アンドレは、そこまで思って、ふと手をとめた。
なぜオスカルはこんな話題を出すのだろう。
アントワネットは政治向きにはあまり口をさしはさまない王妃だった。
舞踏会や賭博やオペラに夢中で、出産後は少し落ち着いたものの、今度は政治に背を向けて、プチ・トリアノンにひきこもってしまった。
そして、結局のところ、どちらにも莫大な費用がかかり、赤字財政の責任の一端を担う結果を呼んだ。
もし…、歴史にもしはないのだが、もし、アントワネットが母や姉のような資質を持っていたなら、バスティーユ事件は起こらなかったのだろうか。
あれほど王家に忠誠を尽くしたオスカルが、その部下が、王と王妃を裏切るようなことにはならなかっただろうか。
「アンドレ、わたしは情報がほしい。こうしてここでいることに感謝している。どれほど多くの人の好意によって、この境遇を与えられているか、痛いほどわかっている。だが、何も知らずにいることは、心と頭が死んでいるのに等しい。」
アンドレは、すべての仕事をあきらめて、オスカルの横に座った。
「さっき、ニコレットが馬車に乗る前に教えてくれた。バルトリ侯の船は3日後に帰港するそうだ。お願いすれば、こちらに来て、色々とお話を伺えるのではないか?」
あまり耳に入れたくない話ではあったが、心と頭が死んでいる、とまで言われては、なんとかオスカルに希望をもたせてやりたかった。
オスカルの瞳が、瞬時に輝きを取り戻した。
それは、長年見慣れているはずのアンドレが思わず釘付けになるほどキラキラとしていた。
「そうか…!義兄上がお戻りになるのか。アンドレ、すぐに手紙を書く。用意してくれ。」
オスカルの希望は即座にをかなえられた。
誰だって、この瞳には逆らえない。
結局のところ、オスカルの幸せな顔が、自分の幸せなのだ。
これまでも、これからも…。
アンドレはため息をつきつつ、再びオスカルの横に座った。
「メルシー!アンドレ!!」
オスカルは無邪気にアンドレの頬にかぐわしい唇を寄せた。
アンドレは完全に降参した。
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訪 問 者